原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
産声が聞こえかねない勢いで生まれかけていた冤罪を晴らして、いつも通りの、平穏な福祉局が戻ってきたのは午前十一時を過ぎた頃だった。コアタイムという事もあって、嫌々ながら出勤してきた数名の従業員達を見送り、私はオフィス内の手狭な台所前でゆっくりと白湯を飲んでいた。有難い事に私の出番は午後から…… それもたったの二件。暇過ぎるのも考え物だが、人間の不幸の上に成り立っている商売でもあるので、適度に暇でなければこちらの身が持たない。体力的にも、精神的にも。
というわけで、現在のオフィスには私と岸副、他には和久井涼子(わくい りょうこ)という新人メンタルケア心理士が一人。入局面接の際、私の講義を聞いてメンタルケア心理士になる事を決心し、私が考案した認定試験を突破して今日に至ったと熱弁してくれた。私としては生徒一人ひとりの顔・名前など憶えていられないので、「そうですか」と言う他なかったが、彼女が多くの人間をサポートできるような人材に育ってくれたら何よりである。
そんな彼女は今、パソコンと向き合ってインテーク面接での報告書を作っている。インテーク面接とは、相談者と行う一回目の面接の指し、可能な限りのヒアリングを基にカウンセリングの方向性を定めていく重要なプロセスである。もしこの時点でメンタルケア心理士と相談者との間に齟齬が生じてしまっていたら、治療どころではなくなる。だからこそメンタルケア心理士は相談者の発言を幾度となく反芻して、理解を深めていかねばならない。
 
「先生、よろしいでしょうか」
 
不意に和久井がモニターから目を切って訊ねてきた。別に“先生”と呼ばれるほどの事はしていないが…… まあ、好きなように呼べばいい。
 
「うん?」
 
「今回の相談者は約一年前から不眠症抑うつを訴えていて、薬物療法とカウンセリングを同時並行していったそうです。カウンセリングに関しては主に認知療法だったとの事ですが、効果が実感できず、今も理由の解らない倦怠感などに悩まされていると…… それでも認知療法によるカウンセリングを継続していくべきでしょうか?」
 
はきはきとした口調だ。私にも和久井のように初々しい時代が、あったか? しがない臨床心理士の頃から捻くれていた気がする。
 
「その相談者は一人で面会に訪れたのかい?」
 
「はい」
 
「様子は?」
 
「常に俯きがちで、最後まで目を合わせていただけませんでした」
 
「不眠・抑うつの原因は何と?」
 
「相談者を担当している精神科医の記録によると、『事故によって胎児を喪い、その悲しみで気力が湧いてこない。生まれて来ずして命を絶たれた我が子を思うと眠りに就けない。一日のうち、ほとんどの記憶がない』と。ちなみに、薬物治療に関しては一定の成果が認められているそうです」
 
「なら、重篤な副作用が現れない限りは薬物治療を継続。精神科医の指示通りに服用するよう、やんわりと念を押して。それから認知療法でなく、行動療法を試してみようか。一日の記憶がないのなら、毎日一回、短くても構わないから日記を付ける習慣を付けてもらおう。恐らく、相談者も納得してもらえるはずだ。誰かに連れてこられたのなら話は別だが、自らの足で相談しに赴いたという事は、鬱屈した現状を漫然と受け入れたくないと思っている事の証左。一方で、認知療法が奏功しなかった事により、カウンセリングに不信感も抱いている。和久井君と目を合わさなかったのもそれに起因しているのやもしれない。ひとまずは相談者の不信感を払拭して、信頼を得る。二回目の面会では相談者が記した日記の内容を交えながら、治療へのプロセスを再確認する程度で留めておいてみてはどうかな。相談者は勿論だが、君も焦らず地道に進めていきなさい」
 
「はいっ」
 
元気良く返事をして、和久井は再度モニターに向かった。
現場に出て間もない新人は何が何でも結果を残そうと気が逸って、目の前の相談者が見えなくなる事も多い。失敗によって得られる経験は確かに大切だと思うものの、この業界における失敗は相談者の命に届き得る。私や一部の例外くらい割り切っているのなら心配は要らないが、和久井のようなタイプは引き摺るだろう。
 
「局長ぉ、アタシにも何かアドバイスくださいよ」
 
一部の例外――岸副が話し掛けてきた。気怠そうに、私にもたれ掛かりながら。
 
「アドバイス? 冷蔵庫にある他人の物を食べる時は、必ず本人に確認を取れ」
 
「何の事っスかねぇ」
 
シラを切る岸副の手元には、まさに私が購入して冷蔵庫に仕舞ったはずの三色団子があった。三本一セットの安物だが、たまに食べたくなる。
 
「どうせ訊いたら訊いたでアタシ達の優しい局長様は、『食べても構わない』って言うんスから、断りなくたって良いじゃないスか。ねー、和久井ちゃん」
 
「えっ、あ、その…… ええと、でも報・連・相は大事かと……」
 
唐突に話を振られた和久井は慌てながらも、実に模範的な回答をした。
素晴らしい。このまま毒されずに成長していってもらいたいものである。
和久井の回答が気に入らなかったのか、岸副は忌々しそうに、「お堅いねぇ」と呟いて、さらに残りの三色団子に手を伸ばそうとした。
その時、福祉局の出入口がノックされた。遠慮がちな、慎ましい音。
相談者でも、従業員でもない。ここでノックするような人物と言えば、思い当たるのは一人しか居なかった。
岸副が舌打ちをする。彼女にも扉の向こうに居る人物が解ったようだ。手に持っていた三色団子の容器をデスクに置いて、「はいはい」と応対する。そして扉を開け放つと、岸副が見上げるほど長身の女性が立っていた。
 
「おはようございます、司祭様」
 
「どうも」
 
当たり前のように現れたステラに頭を下げる。
膝にまで届きそうなスナップスリットのロングシャツにフルレングスパンツ。どちらも真っ黒だったが、その瞳と同系色のターコイズブルーの鞄を手に提げている。履いているのはベージュのローヒールサンダルのようだが、それでも岸副の前に立つと頭一つ分以上高い。
以前、何の気なしに身長を訊いた事がある。彼女はその長身を気にしているようで、「百七十ちょっとです」としか答えてくれなかった。百九十センチの私と並べばわずかに低いと感じるものの、恐らく百七十の後半…… 下手したら百八十はあるやもしれない。
 
「いつもより早くなってしまいましたが、お弁当を」
 
ステラは微笑みを湛えながら、提げていた鞄を掲げる。咄嗟にオフィス内の壁掛け時計を見やった。午前十一時五十分。確かに昼食時と言うには少々早いが、取り立てて問題はない。
ゆっくりと目線を時計からカレンダーに移す。
いつからか日曜日になると、ステラは弁当を持参して職場に来るようになった。昼食はずっと福祉局から程近い喫茶店で、若しくはコンビニで済ましていた。面倒な時はオフィス内の冷蔵庫から適当に見繕う事もある。だから食事に困ってなどいないのだが、あまりに露骨である。いや、それは私もか。我ながら“いつからか”などと白々しい。
 
「……どうぞ、中へ。暑かったでしょう。涼んでいってください」
 
「ありがとうございます。お邪魔します」
 
見るとステラの肌には玉のような汗が滲んでいた。
 
「ひょっとして、外で待っていました?」
 
福祉局まではタクシーで足を運んでいると聞いたが、今日は全国的に三十度越えの真夏日になるらしいので、数分でも外に居れば汗をかくだろう。それにしても汗に塗れている。
ステラは気恥ずかしそうに頷いた。
 
「想定していたより到着が早くて…… お昼までビルの前でお待ちするつもりでしたが、人目が気になってしまって」
 
「そりゃそーだろ」
 
岸副が憚らず呟くも、私も心の中では同様の突っ込みを入れていた。
日本人離れした顔立ちの長身女性が道端に立っていて、注目を集めないはずがない。
 
「今度からは気にせずにいらっしゃってください。熱中症になっては大変なので」
 
ところによっては真夏日どころか、猛暑日に達している。特に、福祉局の周りは雑居ビルの群れで室外機だらけ。眼前の道路もそれなりの交通量がある。加えて、アスファルトの照り返しなどを考慮すれば、体感温度は相当なものだ。日傘を差したとしても、熱中症になるまでの猶予が多少伸びるだけである。
 
「では、お言葉に甘えて…… それと司祭様、お時間よろしいでしょうか」
 
ステラがオフィスの最奥にある扉を指し示す。そこは局長室に続く扉である。以前までは局長室に籠って作業する事のほうが多かったが、和久井をはじめとする新人従業員の指導の為に籠ってもいられなくなった。後進育成に重きを置くようになったと言うのは大袈裟だと思うものの、所属している学会の講演等々も断るようにしており、なるべくオフィスに顔を出してコミュニケーションを取るよう心掛け始めていた。
 
「何か進展が?」
 
「と呼べるものなら幸いですが」
 
頼んでおいた“ヘレシー”関連か。一週間と経っていないのに、大したものである。
 
「わかりました。施錠してはいませんから、お先に」
 
と促すと、ステラは恭しく一礼してから局長室に入っていった。
私もデスクに広げていた数枚の書類とスマートフォンを手に取って後に続こうとした時…… 背中に鋭利な物が突き立てられた。
 
「……岸副、ワイシャツに団子が付着したらどうする。午後から外出しなくてはならないというのに」
 
犯人も、凶器も、いちいち確認する必要などなかった。
 
「残らず綺麗に食べたんで、その心配は要らないスね」
 
底冷えするような声色だった。
 
「君の唾液が付着する」
 
「マーキングっスよ」
 
犬か…… まあ、犬だな。狂犬。
 
「局長ぉ。のど、渇いてるっスよね。こーんなに暑いし」
 
「今しがた白湯を飲んだばかりだから、口渇感はさほど」
 
「いいや、絶対渇いてる。だからお茶を淹れてあげます。嬉しいでしょ、アタシのお茶汲みなんて。五分間隔で持ってってあげますから」
 
要するに、「鍵を閉めるな」と言外に語っているわけだ。一体何を勘ぐっているのやら。
 
「何もしないよ」
 
「どーだか」
 
背中から団子の串が引いたのが判って、私は振り返らずに局長室に直行した。振り返って、あの狂犬の目がまた見開いていたら夢に出てしまう。
局長室の扉を後ろ手で閉めると、来客用のソファに座っていたステラが立ち上がる。
 
「お弁当は、デスクの上に。あと水筒も。中身は冷えた玄米茶です。お好きでしたよね? そこまで長いご報告にはならないと思いますので、是非お召し上がりながら」
 
「いつもすみません。助かります」
 
礼を述べながら、デスクの奥の椅子に腰掛ける。整理整頓が行き届いている…… わけではなく、単純に物が少ないデスクの上にはランチクロスと水筒。その皴一つないランチクロスを解くと、和柄の弁同箱が現れた。保温性に富んでいるようで、蓋を開けると湯気が立ち昇った。
ステラの作る料理は和洋中を問わないが、不思議と弁当になると和食の比率が高い。今日の献立も豚肉の生姜焼きがメインで、蛸の桜煮、ほうれん草の胡麻和え、刻んだ長ネギを混ぜ込んでいる卵焼き。味付けは濃くも薄くもなく。幼少期にこんなまともな食事を摂った事などないはずなのに、懐かしさを感じる。ある種の共感覚だろうか。この手の和食は郷愁に駆られるものだという社会通念。だとしたら、物悲しい。私が今まさに抱いているこの懐かしさが、単なる幻想だったという事になるのだから。
 
「美味しいです」
 
「良かった」
 
夏の陽射しにも劣らない笑顔が向けられる。
手加減してほしい。こうも直球ばかりでは、いずれ理性を失う。男としての。殊、私が独身となってからの数ヶ月はブレーキを踏む素振りすら見せない。この誘惑に未だ屈していない事を褒めてもらいたいくらいである。
なんだか一息つきたくなって水筒に右手を伸ばしたが、止めた。
恐らく、水分には困らない。あの狂犬の言う通りなら。
 
「失礼しまーす」
 
乱暴に局長室の扉が開かれて、トレイを片手に持った岸副が進入してくる。そしてトレイに乗せた二つの湯呑を私のデスクに置く。
 
「粗茶…… じゃないんスからね? これ、局長お気に入りの『花残月』って銘柄で、日本三大茶として名高い狭山産の茶葉を使ってるんスよ。普段は手癖の悪い従業員達に目を付けられないように棚の奥に仕舞ってあるんスけど、引っ張り出しました。有難く飲んでみてください。美味しいんで」
 
誰よりも手癖の悪い従業員が、盗人猛々しくステラに茶を勧めた。
 
「なるほど。有難く、いただきます」
 
ステラはそれを気にする様子もなく、ゆっくりと湯呑を傾ける。割かし口に合ったのか、一瞬彼女の目が輝いた。
 
「これは確かに美味しいですね」
 
「ですよねぇ」
 
岸副は残ったもう一つの湯呑を手に取って当たり前のように飲んだ。
えっ、と呆気に取られた私を気に留める事もなく、「それじゃ、また」と言い残して、そのまま湯呑ごと局長室から去ってしまう。
行く場を失った私の右手は虚空を掴むばかり。秘蔵の茶葉を盗まれて、見せびらかされるように飲まれて…… 邪智暴虐の限りを尽くされたのだ。
私は激怒した。必ず、かの狂犬を除かねばならぬと決意した。
などとメロスの心情と重ね合わせていると、ステラが苦笑しながら、両手で包み込むように持っていた湯呑をこちらに差し出てくる。
 
「口を付けたものでもよろしければ」
 
次の瞬間、再び乱暴に局長室の扉が開く。半ば蹴り開けているような勢いだ。
 
「はいはい、そういうパターンね! 解りましたよ! 局長、こちらをどうぞ! アタシの飲みかけですけどね! それじゃ!」
 
岸副は嵐のように訪れて、嵐のように帰っていった。
結局、どちらの湯呑にも手を付ける気になれず、ステラが用意してくれた玄米茶を飲む事にした。適度に冷えていて、香りが良い。麦茶くらい強烈な香ばしさがあれば別だが、冷え過ぎた茶は風味を損なう。
 
「面白い女性ですよね、岸副さん」
 
「限度がありますがね…… ちゃんと手綱を握っていないと、何をしでかすか分かったものではない」
 
「きっと何もしませんよ。司祭様に構ってもらいたくて仕方ないのだと思います」
 
流石は牧師兼教諭。数多の生徒と接しているだけあって、含蓄がある。
 
「まあ、私も彼女を大型犬のようだと思っていますからね。それより、早速構いませんか」
 
あらかた食べ終えたので、本題に入った。
ステラは静かに、「かしこまりました」と言って鞄からスマートフォンを取り出す。
 
「とりあえず、わたしのほうで今年度から七月までの三ヶ月に絞って調べてみました。その三ヶ月の間で面談として呼ばれた生徒は十五名。初等部は紀子さん一人だけで、中等部に二名、高等部に十二名」
 
十五。この数字を多いと見るか、少ないと見るか。それにかなり高等部に偏っている。
ひとまずはステラの報告をすべて聞いてから判断しよう。