原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
ザラザラとした感覚が頭皮を駆け巡っていく。
七月七日、七夕の日だった。我が福祉局は今年度からフレックス制を導入しており、コアタイムも午前十一時から午後二時までの三時間しか定めていない。就業規則の施行によって離職する者が多かった為、仕方なく打ち出した苦肉の策。コアタイムすら設けないスーパーフレックス制も考慮したが、職業柄、それは無意味だと結論付けた。
ザラザラとした感覚が頭皮を駆け巡っていく。
そもそも、労働基準法適用外の公務員にはフレックス制が導入できない。地方上級心理職に当たる私は勿論の事、精神保健福祉相談員として雇用している従業員には無用の長物。
ザラザラとした感覚が頭皮を駆け巡っていく。
従って、朝早くから職場に顔を出したとしても、もぬけの殻という事も珍しくない。
“幸いにも”というのは何とも癪な表現であり、可能ならば避けたいが、勤務時間にルーズな者達ばかりを抱える我が福祉局も、おかげさまで設立三年目を迎えた。そんな中、未だ無遅刻無欠席を頑なに貫いている勤勉な人間が一人……。
ザラザラとした感覚が頭皮を駆け巡っていく。
「――いい加減、頭を触るのは止めてくれ」
「えー、いいじゃないスか。減るもんじゃないし」
「刺激で頭髪が減るやもしれないだろう。この歳でハゲるのは御免だ」
「代わりにアタシの頭を撫でながら、とことん褒める権利をあげますからぁ」
「撫でる理由も、褒める理由もない」
「ひど。皆勤とか業績の賞与だって、まだ一度も貰ってないんスけど?」
設立三年目にしても上司に対する口の利き方も、態度も、一向に改善されない我が福祉局の副局長――岸副名弓(きしぞえ なゆみ)は寒色系に染め上げたショートボブの頭をこちらに突き出して、犬か何かのように訴え掛けてくる。
彼女こそ、福祉局で唯一無遅刻無欠席の従業員。勤務態度に多少の難はあるものの、私から見ても非常に優秀な相談員であり、賞与の一つくらいあっても構わないとは思っている。
「忘れちゃいましたねぇ」
と言いながら、岸副は私の左手を引っ掴んで無理やり自分自身の頭に乗せた。
「あーっ、断りなく頭を撫でられた! 髪が乱れるのを嫌がる女子も居るんですからダメですよ! 出るとこ出たらセクハラになるかもしれないっスね!」
冤罪が生まれようとしている。新手の当たり屋だな、もはや。
「そんなに金が欲しかったら短冊にでも認めると良い。七夕だろう、今日は」
「別にお金には困って…… ああ、そうそう! 七夕!」
何かを思い出したようで、岸副は足早に福祉局の出入口から外へと出ていった。が、十秒も経たぬうちにそちらの方角から物音が聞こえてくる。箒を引き摺るような、或いは木の葉を掻き分けているかのような、ガサガサとした乾いた音。
程なくして出入口の扉は開け放たれ、そこから再び顔を出した岸副の手には二メートルはあろうかという立派な笹竹が一本…… 床と天井を擦りながら現れた。
「局長ぉ、どうスか? これ」
「……森林窃盗は三年以下の懲役になる。一緒に謝罪してあげるから、返してきなさい。知人の弁護士にも相談しておく。なるべく示談で済むよう根回しも」
「いやいやいや、なんで盗んできた前提なんスか。貰ったんスよ。通勤途中にあるフェイクフラワー専門店のオバサンから。毎日毎日休まず出勤して偉いわねって。なにか店の中から選んで持ってって良いわよって事で」
「つまり、その笹竹もシルクフラワーなのか」
「シルク?」
「造花という意味だよ」
生竹だと虫が湧いたり、笹の葉が落ちたりと面倒だから助かるが、持っていって良いと言われたからって笹竹を選ぶかね。いくら七夕とは言え。
「オフィスグリーンって言葉もあるくらいだし、職場環境の緑化は大切じゃないスか? 緑色は集中力を高める効果がありますし、副局長として従業員のメンタルケアも欠かしちゃダメかなーっと」
岸副は尤もらしい事を並べながら、出入口側の窓際に笹竹を立て掛けた。近づいて観察してみると、節には竹皮が貼られており、葉脈までしっかりと作り込まれている事が判った。手触りは本物と遜色ないが、ジョイント式で折り畳める構造になっているようだ。
結構な値段だったのではなかろうか。専門店のオバサンとやらも、だいぶ太っ腹である。岸副の勢いに押されて渋々という可能性も考えられるが。
「まあ、笹竹まで用意されたら仕方ない。あとで短冊を買ってこよう。今時はコンビニにも置いてあるだろうし」
と私が言い終えるが早いか、隣で同様に笹竹を見上げていた岸副がひひひ、と怪しく笑う。いつの間にか手元には透明なビニールに包装された短冊の束…… 一番上にある金色の紙が、窓から射し込んでいる朝日を眩く反射していた。
「岸副…… まったく、君という人間は本当にどこまでも」
「用意が良いでしょ? 褒めても良いんスよ」
「万引きが森林窃盗以上の刑罰になる事くらい知っているだろう。執行猶予の有無は被害者対応をはじめとする初動が鍵になる。ほら、今すぐ返しに行こう」
「ちゃんと買ってきたんで!」
岸副の抗議の声を聞き流して、「それにしても」と話題を変える。
「意外だね。こういう行事には興味を持たない人間だと思っていた」
岸副はビニールから短冊を取り出しながら唸った。
「興味はないスね。クリスマスだからってチキンとかケーキとか食べたりしないし、桜が咲いたから花見とか訳が分かんないし、誕生日も祝ったりしない。彼氏が居た時も、記念日だの何だのって馬鹿馬鹿しくて笑っちゃいましたよ」
「君にも誰かと交際している時期があったのか」
と言うと、岸副の細長い目が見開かれた。次いで短冊の束で背中を叩いてくる。割りと痛い。
「アタシ、これでも結構モテたんスけど。昔は」
「今は?」
「今は……」
すると深い溜息が岸副から漏れた。
実際、交際する相手に困らなかった事は想像に難くない。ルッキズムなる言葉で反感を買いかねない趨勢なので外見に関しては兎も角、彼女には生来の愛嬌があった。それは老若男女を問わず、誰からも好かれるような、ある種の才能と言っても良い。福祉局で働く上でもそれは遺憾なく発揮されており、他人とのコミュニケーションを不得手とする相談者が相手でも平気で踏み込んでいけるのだ。良好な対人関係の構築・強化という一点においては絶対に敵わない。素直にそう思う。
その才能は恋愛でも有利に働いているはずだが、関係が深くなると難しいのやもしれない。
彼女の本性は、筋金入りのアナーキストである。
先程から冗談のように交わしている会話も、場合によっては冗談ではなくなる。前科こそないものの、逮捕歴は数知れず。こうして日の当たる職業に就かせておかなければ、今頃は塀の中か、若しくは罪を犯し続けていたに違いない。
「別にいいんスよ。結婚願望ないんで。一人でも楽しいんで」
自分自身に言い聞かせるように呟いて、こちらに金色の短冊を手渡してくる。岸副はその次の銀色の短冊に願い事を認めるようだ。
「なら、子供は?」
「子供ぉ? あー…… ちょっとだけ興味ありますね。どんなのに育つのかって。でも、親にはなりたくないなぁ。ガキの責任まで負いたくない」
「だから局長も離婚したんスよね?」
「……なんだか急に仕事を休みたくなってきた」
「奥さんと子供を捨てるってどんな気分スか? 清々した? 肩の荷が下りた?」
仕返しと言わんばかりに、いかにも愉快そうに白い歯を溢して訊いてくる。
「さっさと書いて飾りなさい」
胃の辺りを摩りつつデスクの上からボールペンを一本選んで、岸副に差し出す。彼女は笑いながら受け取ったものの、一向に認める様子がない。
「どうした?」
「いやぁ…… いざ考えてみると、わざわざ願ってまで叶えたい事もないなーって」
実は、まったくもって同意見だった。
岸副の言う通り“願ってまで”というのがネックになっている。彼女と同様、経済的に困窮しているわけではない。家庭内は…… 細かな諸事情こそあれど、今はそれなりに片付いている。人間は往々にして金と対人関係の問題に終始するものだが、その二つが憂慮すべき段階に達していないのなら、あとは多少の努力で解決できるものしか残らない。
畢竟、願えるのは不確定な未来に関する事柄くらいである。健康祈願とか、そういうのだ。
「局長として、従業員達の健康祈願でもするか」
「考え得る限りの一番面白くない願い事っスね。折角、目立つ金色なんスから世界征服とか酒池肉林とか書けば良いのに」
「世界征服はまだしも、酒池肉林は願うものなのか?」
「さあ。でも、もう独身なんだし女も食い放題でしょ」
「酒池肉林に肉欲の意味はないよ……」
「女も食い放題ってとこは否定しなかった! 食うつもりなんだ! きっとアタシも残業を理由に、誰も居ないのを良い事に」
またも冤罪が生まれようとしている。
自分で自分の肩を抱きしめて悲嘆に暮れている岸副の側には、銀色の短冊が所在なく転がっていた。願い事を認める気など初めからなかったように。
私も倣うように道具をデスクに置いた。
「興味のない行事の為に笹竹を拵えて、短冊まで用意して…… 周到だとは思うが、そこまでして私から一体何を引き出したかったのかね」
その時、岸副は素早く私の左側――視力を失っているほうに移動して、暗闇に紛れて体当たりするようにぶつかってきた。腹部には、尖った物の感触。わずかに首を回して右目で確認すると、俯いている岸副の頭があった。
手には、ボールペン。
「ひま。たいくつ。つまんない」
岸副はワイシャツ越しに突き立てたボールペンをグリグリと動かして、子供のような駄々を捏ねた。
「局長ぉ…… アンタ、キチガイだったはずだろ。目的の為に手段を選ばない犯罪者だったはずだろーが。だから付いてきたってのに…… 局長が離婚したって聞いた時、結構嬉しかったんスけどねぇ。女とかガキとかの世話に追われて、腑抜けになったらどーしよって思っていたんで、『ああ、まだまだやる気あるんだな』って。なのに離婚して三ヶ月くらい経っても、なんにもない。なんにもしない。それともまだ寝惚けてる? 家族に囲まれた幸せな夢でも見てる? 局長くらい目が機能しないと、目ぇ覚ますのも遅いんスか? じゃあ、起こしてあげましょうか?」
岸副は頭を擦り付けた状態のまま乱暴にボールペンを床に放り投げると、今度はその両腕を背中に回してきた。
「末っ子の毬子ってガキも、もう小学生っスね。早いなぁ。最初に会った時は両腕に収まるくらいだったってのに」
「……いや、昨日今日の付き合いでない事は確かだが、そこまで古い付き合いでもないだろう。自分の足で駆け回れるくらいには育っていた」
こちらにしがみついている岸副の背中が微かに震えた。笑っているようだ。
「いいんスよ、そういう細かい話は。重要なのは、このまま局長が目ぇ覚まさないとそのカワイイカワイイ毬子ちゃんが登下校中とかに連れ去られるかもよって事でしょ。最近物騒だし、あの学院界隈。悪い女に声掛けられたりして」
「岸副とか?」
「そうそう」
「であれば問題ない。君は間違いなく遵法精神の欠片もない個人主義に偏った無政府主義者だが、子供に危害を加えるほど愚かではないよ。連れ去る時は一報くれれば良い。あと、毬子はこの頃『三ツ矢サイダー“特濃オレンジ”』とやらに執心している。私が迎えに行くまでの間に不安がるようならそれを買い与えてあげてると落ち着くはずだ」
「……アタシを何だと思ってんスか」
「私の共犯者」
「……ちゃんと解ってるじゃないスか」
「ところで、何故あの界隈が物騒だと知っている?」
「んあ?」
構ってくれと請う大型犬のようにじゃれついていた岸副の頭が、ようやく持ち上がった。
「そりゃあ、児童福祉司でもあるんで。その辺の噂は嫌でも耳に」
「では、“ヘレシー”と呼称されている犯罪グループについては?」
「名前だけなら。なんスか、また焼死体を増やすつもりで?」
「そういう不幸な事故もあったね。兎も角、手間を掛けるようで悪いが、今後は“ヘレシー”に関する情報をそれとなく集めておいてくれ」
「その“ヘレシー”ってのが局長にちょっかいを?」
「今のところは特別何も。ただ、個人的に邪魔になりそうな気がする」
ヘレシーとやらが、うちの次女――紀子に目を付けているとの事だが、紀子自身が熟考した上で犯罪に手を染めるなら、白日の下に晒されるまではそれでも良いと思っている。だが、標的という意味で目を付けられているなら見過ごせない。家族以外のすべての人々が盲目になろうとも、目には目をという精神は必要なのだ。
「へえ。じゃあ、しばらくはそれで遊んでみますよ」
岸副は平静を取り戻したように…… いや、初めから正気を失ってなどいなかったが、暇潰しになると踏んで納得してくれたらしい。
とりあえず人心地ついた次の瞬間、出入口の扉が開いて従業員の一人が顔を覗かせた。
マズい。
岸副は相変わらずこちらに体重を預け切った体勢だった。
「おはようございま…… えっ」
「おはよー」
驚きに言葉を失っている従業員に対して、岸副は何事もなく挨拶を返した。離れようともせずに。
「…………」
今度こそ冤罪が生まれようとしている。