原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
ややあって…… の一言で済ませるには長過ぎるくらいの待ち時間を乗り越えて、ようやく右腕の縫合が済んだ。
今回も院長は何一つ訊いてこなかった。ひょっとしたら、彼の娘――クリスから既に詳細を聞かされているのやもしれないが、門前払いも珍しくないこの御時世では有難いと言う他ない。誰であれ、自傷行為に現を抜かす厄介者とは関わりたくないはず。医者という立場なら尚更だ。しかし、ここでは平等に扱われる。平等に不平等で、私はいつもその不平等に甘えていた。
一九九〇年に勃発した湾岸戦争では軍医を務めていたという経歴を有する院長の処置は、荒々しくも的確で、何より手際が良かった。本来ならばリドカイン等々の麻酔薬を用いて出血を抑えつつ、患者の負担を減らしてから縫合するものだが、麻酔薬の存在など眼中にないかのように遠慮なく傷口に針を通していった。
痛くはない。正確には、皮静脈を切り裂くような創傷の前では縫合に伴う痛みなど些事に過ぎない。必要な箇所だけ縫われていく様子を、ぼんやりを眺めていた。代わりにステラが悲痛な、或いは深刻な面持ちで院長の背後から覗き込んでいた。ナイロン製の縫合糸が音を立てて断たれる度に肩を震わせるその姿は、歳不相応な…… と言うと大変失礼だが、妙に可愛らしく見えた。
あらかた処置を終えると、院長は溜息一つ吐いて処置室を後にした。それきり戻ってくる様子もない。
私としても、いつまでもクリニックに留まっている必要はない。重度心身障害者の医療費助成制度のおかげで支払うものもない。だからこのままお暇しても構わないのだが、依然としてステラは処置室から動かなかった。私が帰宅するまで居座るつもりなのか、それとも他に用事があるのか…… そもそも、何故彼女がクリニックに居るのか判然としていなかった。
 
「そういえば」
 
と切り出したのはステラのほうだった。彼女はゆっくりと視線を泳がせてから、わずかに小首を傾げる。
 
「奥様とは、その……」
 
「今日は随分と踏み込んできますね」
 
言わんとしている事はすぐに理解できた。
妻との離婚手続きを済ませて約四ヶ月…… これは誰にも報せていない。元より妻が戸籍筆頭者であり、親権もすべて妻に任せたので娘達の姓が変わる事はない。ステラは現在も娘達が通うプロテスタント系女学院の教諭兼牧師という立場だが、姓変更が行われない場合は学校への報告義務もない。だから、通常ならば離婚した事実を知りようもないはずなのだが、妻から聞いたのだろうか。
とは言え、さほど生活に変化はない。妻の戸籍から去る事にはなったが、依然として同居したままだし、喧嘩別れというわけでもない。
まあ、私が一緒に居る事で純粋な母子家庭とは見做されない為、受けられる手当や助成金は限られてしまうが、「一番下の三女が中学生になるまでは離婚前と同様の生活を継続するように」というのが妻の条件だった。と言うか、条件はそれしかなかった。こちらに対して養育費やら婚姻費用やらを請求したって罰は当たらないだろうに。
そういうわけで、ここ最近は妻が提示した条件を守りつつ、一方で細々と別居に向けた身辺整理を行いつつ…… 娘達の前では白々しく父親面をしている。先日の三文銭の件も書斎で私物を纏めている時に偶然出てきたものだ。
 
「男としての甲斐性の無さに、とうとう愛想を尽かされてしまいました」
 
お恥ずかしい限りです。と頬を掻いて見せるも、ステラの耳には届いていないようだった。彼女は首を一層傾けて何事か考え込んでいた。細められた碧い瞳の前を、濡羽色の艶やかな黒髪が掠めていく。
私は彼女の言葉を待った。恐らく、次に投げ掛けられるそれが今日の本題となる。
数十秒ほどの間を置いて、ステラはこちらを見据えながら訊ねてきた。
 
「当てはあるのでしょうか」
 
迂遠な言い回しだったものの、意図は明確だった。
当て…… 次に身を寄せる場所はあるのかと問うているのだ。そしてその先、話の着地点が朧気ながらに見えてくる。
正直なところ、当てなどない。娘達の成長を見届けた後は適当に生きて、適当に死ぬだけ。最期は彼女らに幾らかの遺産を残せれば上出来だろう。離婚後であっても子供は法定相続人として認められるのだから。まあ、妻の実家は明治期から海運業で財を成してきた家系であり、日本国憲法が施行されるまでは士族として扱われていた由緒ある名家…… 経済面の困窮など杞憂に過ぎない。妻が実家を頼るかどうかはまた別の話だが。
それよりも、心配されているのは私のほうだ。おかげさまで福祉局局長を務めており、東京都公認の主任相談支援専門員にも就いている。他にもメンタルケア心理士、ペットロス療法士等々の民間資格管理者として毎年一定数のカウンセラーを世に送り出している立場なので、いきなり食い逸れる状況にはならないと思う。
問題は、私の精神面。不安定になっている自覚こそないが、現にこうして慣れているはずの自傷行為の力加減を誤って、病院の世話になってしまっている。
私は、私が想像している以上に動揺しているのだろうか。
黙して自己を省みていると、返答に窮していると受け取ったのか、ステラが再び口を開く。
 
「もし…… もしよろしければ、わたしと」
 
「大丈夫です」
 
一体何がどのように“大丈夫”なのか私にも解らないが、ステラが言い切ってしまう前に遠慮した。
 
「しかし」
 
と食い下がってくるのも解っていた。彼女が頑固なのは今に始まった事ではない。私が離婚する以前から、天体観測を理由に自宅へ招こうとするような女性である。温和で淑女然とした雰囲気に騙されてはいけない。彼女は非常に強かで、肝が据わっていて、諦めが悪い。
出会ってから今まで、「私などに固執しなくとも、あなたほどの器量なら選り取り見取りですよ」と何度諭した事か。
とりあえず、考えねばならない。体の良い言い訳を。食い下がる彼女に効果のありそうな説得を。
 
「……離婚する者を憎む」
 
私は、貧血で上手く働かない脳を可能な限り回転させて一つの回答を導き出した。
この意味が解らないはずがない。
畳み掛けるように言葉を繋ぐ。
 
「聖書を絶対とするプロテスタントなら…… 旧約聖書『マラキ書』の教えにも従わなければなりませんよね。同様に『ヘブライ人への手紙』でも不品行な者は裁かれるそうで。ならば、ステラ先生はプロテスタントの牧師として私を許してはならない。そうでしょう? 大変有難い申し出ですが」
 
「では、牧師を辞めましょう」
 
「え」
 
「牧師でなくとも、聖職でなくとも信仰に影響はありません」
 
「ステラ先生のメンタリティ云々ではなく、実際問題としてそれは些か…… 学校には何と説明を? 流石に学校側も無牧となる状況は避けたいでしょうし」
 
「新たに牧師を招聘していただくよう日本聖公会に掛け合います」
 
「簡単に言いますがね……」
 
私は頭を抱えるしかなかった。
ステラの表情は真剣だ。牧師である事を利用して説得したつもりだったのだが、ものの見事に裏目に出た。間違いなく、いま追い詰められているのは私。先程よりも。
 
「……ちなみに、ステラ先生が女学院で牧師をしているのは聖公会からの斡旋か何かで?」
 
訊ねると、ステラはかぶりを振った。
 
「繋がりがあるのは確かですが、わたしはJECAの牧師です。JECA西関東地区の運営委員でもあります」
 
JECAとは、法人格こそ有していないが、プロテスタント系の団体としては日本福音同盟に次ぐ規模を持つ“日本福音キリスト教会連合”の事である。しかも運営委員の一人だったとは。尚更、辞めようとも思っても辞められるものではない。
 
「仮に牧師を辞するとして、今後どうするつもりですか」
 
時間稼ぎにもならない事は解っているが、何となく訊いてみた。するとステラは献立でも考えるような気軽さで、「どうしましょう」と言ってのけた。そして、彼女はさらに一言付け加える。
 
「わたし達の教会でも建てましょうか」
 
それは新約聖書『マタイによる福音書』にてイエスが発した言葉のようでもあったが、ステラなりの含みを持たせている事は明白だった。
 
「これはまた、大胆なプロポーズで」
 
「もっと直接的な伝え方もありますよ」
 
その声が耳に届くと同時に、視界が濡羽色に染まった。