原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
 
「いかがでした? 思い留まってくれそうでしたか、あの子は」
 
「さあ…… こればかりは。ただ、『生きてみようと思えた』と言ってもらえたので、危険水域は脱したのではないでしょうか」
 
少女との短い面会を終えた私は、すぐ側にあるファミリーレストランで涼んでいた。井の頭線神田川が望める窓際のボックス席に腰を落ち着かせて、今回の依頼人――ステラと顔を突き合わせている。
件の少女は、娘達が通っている女学院の高等部の生徒であり、学院で牧師を務めるステラにとっては教え子とも言えるような間柄だと言う。ステラは何気ない会話の中で親の死を聞かされて、少女が精神的に追い詰められている事を悟った。そして私に相談した…… そういう流れである。
東京都杉並区と隣の三鷹市は我が福祉局の管轄でもあった為、他の福祉局と掛け合って接触する事は容易かった。何とも都合良く…… と言うか、この辺りに福祉局を設けたのは別に偶然ではない。杉並区にはその女学院が存在しており、元々は娘達に何かあった時の為の、万一を考えての行動だった。娘達の為に転勤・転職する親は少なくないだろうが、娘達の為に職場そのものを拵える親は私を置いて他に居まい。親馬鹿もここに極まれり、である。
 
「なのに、こんな使い方をする事になろうとはね」
 
「申し訳ありませんでした。ですが、司祭様以外に頼れる方がいらっしゃらず」
 
ステラは眉尻を下げつつ、その特徴的な碧い眼を伏せた。
 
「やめてください。止血していただいた借りを返した…… 今回の件はそれで終わりにしましょう」
 
実際にそうであろうとなかろうと、今回は仕事を全うしたに過ぎない。
私は、湯だった身体を冷ますようにアイスティーを煽った。外に出ていたのは一時間程度のはずだが、身体の芯まで火を通されたような感覚だった。気温は当然のように三十五度に達しており、これでまだ七月の上旬だというのだから堪ったものではない。
空になったグラスをテーブルに置いて、窓の外を覗く。
神田川沿いに植えられた街路樹は西日を受けて、瑞々しく反射していた。幹の太さからしクスノキか。暖地に自生していた為に暑さには強いとされているが、さしものクスノキもこの日照りには音を上げているに違いない。
かわいそうに。壁一枚隔てたこちら側は冷房が効いているのに、彼らはそれを知らずに自ずから地面に根を生やしている。こちらの水は甘いぞ、と誘っても蛍のように移動できないのだ。
そんな思考の間隙を縫うようにして、ステラが話し掛けてくる。その声にも冷房に負けず劣らずの清涼感があった。
 
「頼りがいのあるパパを持てて、紀子さんや毬子さんが羨ましいですね」
 
目線を戻すと、テーブルを挟んだ向こう側の席でステラは微笑んでいた。祈るように胸元で両手を組んで。
 
「いやまあ…… 先日、次女に頼りないところを見せたばかりなので、内心ではどう思われているか」
 
あの日は、本当に情けない姿を晒した。紀子の問いに応じられなかったばかりか、保身の為に明言を避けてしまった。妻に愛想を尽かされるのも当然である。
なんだか据わりが悪く感じて、ジャケットの内ポケットから電子煙草の入ったケースを取り出す。電子煙草は加熱式と違って喫煙場所を問わないが、見た目から誤解を招く事がある。念の為、喫煙できるかどうか店員に訊ねようと店内を見回した時、先んじてステラが口を開く。
 
「喫煙スペースなので大丈夫ですよ。こちらでは分煙の実施がされているようです」
 
言われてみると、私達が座っているボックス席はガラス戸らしきもので仕切られた一画だった。
 
「……わざわざ、喫煙スペースで面会が終わるのを待っていたと?」
 
自分は喫わないのに。
つくづく気が利くと言うべきなのか…… 本当に、本当に何故、これで独身なのか。彼女と知り合ってから幾度となく湧き上がってくる疑問は、未だに解消されていない。
首を傾げながらもケースからカートリッジを一本手に取って、ヴェイプと呼ばれる電子煙草本体に電源を入れる。間髪入れずに吸引部分に当たるチップを銜えるが、まだ熱されていないのか、求めていた蒸気は微かにしか出てこない。
そういえば、最後に充電したのはいつだったか。
と詮のない思いが過ぎるが、後の祭りである。バッテリーが少なかろうと今更どうしようもない。
 
「変わった香りがしますよね、それ」
 
できるだけステラの方向には吐かなかったが、喫わない人間の鼻は敏感なのだろうか。
 
「人気のないフレーバーですからね。日本に出回っている数も少ない」
 
「何の成分でしょうか?」
 
大麻です」
 
二つの碧い眼が大きく見開かれる。
綺麗な満月だ。
宝石に例えても良いが、天体観測を趣味とする彼女の眼は星のほうが似合っている。
 
「……本当に?」
 
「本当に。勿論、麻薬取締部の認可を受けた合法のCBD製品なので、ご安心を…… 喫ってみますか?」
 
冗談のつもりで差し出した電子煙草を、ステラは何の躊躇いもなく受け取った。こちらが、「待った」という間もなく、彼女は興味津々とばかりにチップを銜えてしまった。そして一度、二度と吸い上げる。
やがてチップから口を離すと、その艶やかな唇からゆるゆると蒸気が漏れていった…… かと思うと、コホンと控えめに咳き込んだ。
 
「す、すみま、せん。結構、違和感、が」
 
ステラは右手で口元を覆いながらも、謝罪を続けた。
 
「それはそうでしょう。大丈夫ですか?」
 
「は、い…… それより、も、すみません。その、グロスが付いて」
 
確かにチップはグロスに塗れて明かりを照り返しているが、チップに関しては消耗品である。取り換えれば済む事だし、値が張るわけでもない。
私はステラの咳が治まるのを待った。絶世の美女が涙目になって、苦痛に顔を歪めている姿は無性に嗜虐心を掻き立てられたが、表面上は心配する素振りをしなければならない。
しばらくして落ち着きを取り戻した様子のステラは最後に深呼吸をして、繕うような微笑みを浮かべた。
 
「甘い香りの水蒸気を喫うというのは、不思議な感覚ですね」
 
「軽率に勧めてしまって申し訳ありません」
 
微塵も思っていないが、一応謝っておいた。むしろ、とても良いものが見れた。学院の女子生徒達が憧れて止まないその微笑みが崩れ去るところを間近で観賞できたのだから。チップどころか、ヴェイプ本体が使い物にならなくなってもお釣りが来る。
 
「いえ、勉強になりました」
 
ステラは気丈にもそう言って軽く頭を下げた。
その時、ほのかに甘い匂いがした。電子煙草のそれとは異なる匂い。初めて出会った時から漂わせていた、ステラを象徴するようなもの。
 
「甘い香りと言えば、ステラ先生は白檀を好んでいるのでしょうか」
 
そんな事を訊かれるとは思っていなかったのか、ステラは何度か目を瞬かせると、「そうなんです」と首肯した。
 
「幼い頃から白檀の香りが好きで…… それで色々な香水を試してみましたが、ここ数年はずっと同じものを使っています。練り香水と言って、通常の香水より優しく香り立つんですよ」
 
こんな風に。
とステラはわずかにテーブルから身を乗り出して、それを塗布しているのであろう右手首を私のほうへ近づけた。
その白い手を、じっと見据える。
匂いを実感するには若干遠い。しかし、差し出された彼女の手を取って顔に近づけるのは違うだろう。かと言って、こちらも身を乗り出して…… というのも違う。節度ある成人男性が取るべき正しい所作とは一体何だ。
解らないが、解らないままに、空調に乗って香ってくるそれに、否応なく想起させられる。
開け放たれた自室の窓から吹き込んでくる風に揺れる、母親の姿。一本の縄に支えられた彼女の身体は玩具のようにも見えた。正気を失っていた彼女からはいつも、白檀の香りがした。
 
「誰を思い出しました?」
 
そんな声で我に返る。
気づけば、ステラの手を取っていた。違うと判断して切り捨てたはずの行動に出てしまっていた。目の前には、若かりし頃の母親に瓜二つの女性…… いや、正確には違う。少なくとも眼は碧くなかった。だが、大きな違いと言えばそれくらいだった。
 
「人間が人間を忘れていく時は、必ず声からで、最後まで記憶しているのは匂い…… と聞いた事があります。心の中の最も奥底に根付いたものを思い起こさせるそうです」
 
「……そのようですね」
 
イギリスの神経病理学者クリス・コリガルが何十年も前に発表した研究結果だ。その真偽は兎も角、実感せざるを得ない。
今でもその甘い匂いを嗅ぐと、当時の事が鮮明に蘇る。痛み、焦り、嘆き、歓喜とも言えるような絶望と、悲哀とも言えるような希望。私を形作ったもののすべてが。
優しく、包み込むようにステラはこちらの手を握り返して、囁いた。
 
「お返しです」
 
「お返し?」
 
「わたしも、好きなんです」
 
ステラはいつものように微笑む。だが、いつもと違って頬はわずかに朱く染まっていた。
 
「いつも超然とした司祭様の顔からそれが崩れ去るのを見るのが、とても好きなんです」