原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
ステラの特異な趣味を一つ知れたところで、私はテーブルに設置されている呼出ボタンを押した。追加で飲み物を注文する為に。しかし、店員は一向に姿を見せない。訝しく思って周囲を見回した。まず目についたのはウェイトレスの姿だ。ガラスを挟んだ向かいの禁煙スペースで慌ただしく食器を片付けていた。愛想を振り撒く余裕すらないようで、一つひとつの動作が乱暴だった。入店を報せるベルが鳴ってもその顔の険しさは変わらない。それでも、「いらっしゃいませ」の声は鶯のようだった。
 
「明日ですね、軽井沢。紀子さんはもう準備を済ませられました?」
 
ステラとしては何気ない会話のつもりだったのだろうが、私にとっては寝耳に水だった。
 
「……もうそんな時期でしたか」
 
具体的な日時は都度変わるものの、娘達の通う学院では大体七月くらいに軽井沢へと向かう行事がある。二泊三日の、言わば修学旅行のようなものである。家でパッキングしている様子はなかったが、紀子の事だ。抜かりなく準備しているはず。
それにしても、軽井沢か。いいな。軽井沢が避暑地として隆盛を極めていたのは昔の話で、今では普通に暑いと聞くが、それでも都心に比べれば幾分か涼しいだろうし。信州牛に信州蕎麦、ビール…… いいな。
 
「ステラ先生も同行を?」
 
「残念ながら」
 
ステラは本当に残念そうに笑った。
 
「一年生と二年生の生徒は軽井沢に行かないので、聖書の授業は通常通り行わなければなりません。それに毎日の礼拝も」
 
なるほど。それでは確かに同行などできない。加えて、中等部・高等部の面倒まで見なければならないのだから頭が下がる。
 
「お気の毒に」
 
「気の毒に思っていただけますか?」
 
嫌な予感がした。とても。
ステラは、テーブルの上に放り出していた私の左手を両手で掴んで、やんわりと引き寄せた。大胆な行為だが、先に手を取ったのはこちらなだけに何も言えない。
 
「司祭様」
 
「……何でしょう」
 
「軽井沢で羽も伸ばせない気の毒な牧師にも、休暇が必要だとは思いませんか?」
 
「それは、まあ…… はい」
 
「生徒達は二十一日の日曜日から夏季休暇に入ります。礼拝堂の清掃、夏期講習などがありますので長期休暇とはいきませんが、わたしにもそれなりにお休みがいただけます」
 
「はあ」
 
「そこでご相談なのですが」
 
ぐぐっ、とステラが両手に力を込める。
 
「今年の七月三十日は、みずがめ座δ南流星群とやぎ座α流星群…… 二つの流星群が一度に訪れる珍しい日です。その上、新月から間もないので月明かりが邪魔になる事もありません」
 
「それはそれは…… 是非、楽しんできてください」
 
「司祭様」
 
「……何でしょう」
 
「この気の毒な女に、幾許かの慈悲を与えてくださっても罰は当たらないと思いませんか?」
 
“牧師”から“女”へと、よりストレートな表現になった。聞きようによっては途轍もない過ちを犯す前提とも取れる。
ステラは未だ私の手を握りしめていた。逃がすまいとするように。自然と視線が彼女から逃げていくが、救いなどない事も解っていた。
 
「生憎と私には」
 
妻が、と言い掛けて気づく。
かつて何度も使った言い訳が、もう意味を為さない事に。それを解った上で強引に誘ってきている事に。
仕事も言い訳には使えない。ステラの言う二つの流星群による天体ショーは夜の深い時間帯。仮に残業だの何だので押し切ろうとしても、彼女なら平然と職場まで姿を見せるだろう。前回もそうだった。
そもそも、私は何故ここまでステラと二人きりになる状況を避けようとしているのか。二人きりという意味では、現在もある意味ではそうだと言えるし、もはや誰に咎められる立場でも……。
 
『ステラ先生はダメ』
 
不意に、紀子の言葉が脳裏に過ぎる。
相応しくないから駄目だと、彼女は言っていた。一体何が相応しくないのか訊いても明確な回答は得られないだろう。それはきっと、感覚的なものだ。だからこれも言い訳としては弱い。
とは言え、話を逸らす材料には成り得る。
 
「そういえば、紀子の生活態度に関してステラ先生は何か御存じありませんか」
 
あからさまだが、今の私には他に縋るものがない。
ステラは小首を傾げた。
 
「紀子さんが、どうかしました?」
 
「先日、妻が学院に呼び出されたそうです。紀子の生活態度の件で。四年生に上がってから急変したのだとか。十歳という年齢と、行為障害に移行していない事から考えると反抗挑発症に近いかと思いましたが、家庭内では以前と変わらない様子なので…… 何らかのヒントになるものでもあればと」
 
妻や学院側がどれだけ深刻に受け止めているのか知らないが、実際のところ、私はさほど気に留めていない。俄かにアイデンティティの形成・確立が始まる頃合いであるし、現時点では見守るしか選択肢がないのも事実。
 
「紀子さん」
 
ステラは次女の名前を呟きながら、物思いに耽るように目を伏せた。
 
「……わたしには普段通りに見えますよ。一年生の頃からずっと自分にも他人にも厳しくて、非常に思慮深い。何事も好き嫌いが明確で、わたしとしては紀子さんの美点の一つだと思っていますが、上級生からは…… 中等部の生徒達からは既に注目されていますね」
 
「注目ですか。良い意味で? 悪い意味で?」
 
「良くも悪くも、でしょうか。高等部の校舎は敷地内でも離れたところに位置していますが、初等部と中等部の校舎は鏡合わせのように建てられていて、校門から校舎までの道程も途中まで同じ。嫌でも顔を合わせる環境です。紀子さんはとても目立つ生徒ですからね。早くも中等部から部活動の誘いがあると聞いた事があります。特に、運動部などは」
 
部活動。小中高一貫だと、そういうケースもあるか。
運動神経の良し悪しは判らないものの、小学四年生にして百六十センチを越える体格は、確かに運動部としては青田買いしたくなる。スポーツで活躍している紀子の姿を想像できないが、彼女が何の部活動を選ぶのか、他人事ながら楽しみではある。
 
「では、悪い意味のほうは?」
 
先程の話だけでは“良くも悪くも”と答えた事の整合性が取れていない。悪い意味でも注目されているとは一体どういう事なのか。
私の問い掛けに、ステラは唸った。
 
「わたしも礼拝のお手伝いをしてもらえる宗教委員の生徒から噂として聞いた程度なので、信憑性に欠けますが」
 
そう前置きをしてから、ステラは言った。
 
「“ヘレシー”というのを御存じでしょうか」
 
「ヘレシー…… それは、ニカイア公会議におけるアイウス派のような意味ですか? 宗教学で言うところの“異端”のような」
 
「まさしく。実は、昨年頃から高等部・中等部の教員の間で取り沙汰されている問題でして。ある種の犯罪グループとでも表現すれば良いのでしょうか。わたしはそういう事に疎いのですが…… 現実では一切接触せず、SNS上でのみ繋がっている匿名の集団が存在しているらしく、その集団の名前が“ヘレシー”と言うそうです。今のところはまだ表面化していないものの、生徒の中には、『薬物の売買を頼まれた』『売春を持ち掛けられた』と話す子も」
 
「その集団がヘレシーと名乗っているのですか」
 
「いえ、その辺りはわたしも把握していなくて…… 名乗ったという噂もあれば、勝手に名付けられたとも」
 
「保護者会には?」
 
「まだ、何も。学院としては事を荒立てたくないと」
 
「なるほど」
 
話が本当であれば、巷を賑わせている匿名・流動型犯罪グループの典型とも言える。ヘレシーなる名称は、キリスト教主義学校…… 所謂“ミッション・スクール”である事に準えてか。だとすれば、随分と謙虚だ。自ずから異端と謳っているとしたら、悪事を働いている自覚は多分にあるのだろう。
 
「紀子が、そのヘレシーとやらに目を付けられていると?」
 
ステラは曖昧に頷く。
 
「それは実行犯の一員として? それとも、標的にされている?」
 
「すみません。そこまでは……」
 
そうだろう。それが判明していれば、流石にステラも看過していまい。今回のように逸早く頼ってくるはず。
しかしまあ、判断の難しい問題である。学院側の対応としては隠蔽体質、事なかれ主義に寄っていると言えなくもないが、はっきりと問題になっていない以上、動きようがない。それとなく注意喚起するしか…… 注意喚起か。
 
「ステラ先生。ひとつ頼み事をしても?」
 
「どうぞ」
 
「ここ最近で紀子のように面談をする事になった生徒が他に居ないか、調べておいていただけますか。もし居た場合、その生徒の名前や住所を控えていただけると助かります。調査範囲は」
 
「初等部・中等部・高等部、すべての生徒が対象ですね?」
 
ステラにも私の意図が伝わったのだろう。皆まで言わずとも、完璧に理解してくれた。
 
「ありがとうございます」
 
「いえ、お役に立てるのでしたら何でも仰って…… あっ、つい先程司祭様に面会していただいたあの子も、数日前に学院と面談を行っていたはずですが」
 
私はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出して、予めステラに送ってもらっていた資料の一部に目を通す。
生方時雨(いくた しぐれ)、十六歳。二〇〇八年の十月一日生まれ。高等部二年生文Ⅱコース・芸術系大学進学希望。宗教委員会所属。
凶器の矛先に迷っていたあの少女――生方時雨もまた、怪しげな連中から声が掛かっていた可能性があるのか? いや、彼女の場合は唯一の肉親を亡くしたという事で、今後の生活等々について話をしただけやもしれない。だが、念頭には置いておくとしよう。変な気を起こしていなければ、彼女とは再びコンタクトを取る機会もある。
 
「生方君に関しては、私も気を配っておきます」
 
「ありがとうございます。是非とも、よろしくお願いします」
 
ステラは嫋やかな動作で一礼した。
 
「こちらこそ、お忙しいのに頼み事などしてしまって。そのうち何かお礼を」
 
「でしたら、七月三十日。空けておいてくださいね?」
 
結局、そこに戻ってくるのか。
巧く丸め込まれたようで微妙に腹立たしいが、こちらはあらゆる手段を講じた。逃げる手立てはない。腹を括ろう。
今はそれより……。
 
「ステラ先生」
 
「はい」
 
「そろそろ手を離していただけると」
 
ステラはずっと私の左手を握ったままだった。両手で包み込むように。かれこれ、十五分くらいは。妍姿艶質の権化とも言って差し支えない美人に触れてもらえるのは大変光栄だが、もはや恥ずかしさよりも、体勢的な辛さのほうが勝っている。
 
「あと五分だけ」
 
ステラは満面の笑みで、二度寝を請う子供のような事を口にした。
 
「……あと五分だけですよ」
 
そこで甘やかしたのが運の尽きだったと思う。
その後も彼女はあと五分、あと五分と言い続けて、ようやく解放したのは二十分後となった。