もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
地下から戻って『精神病態医学研究所』の中を歩く。水主の姿は、診察室にあった。口から泡を吹いて、冷たい床に臥せっている。デスクにはメタノールのボトルが置かれており、周囲にアルコール臭が漂っていた。念の為に水主の側に膝を着いて頸部で脈を確かめたが、既に事切れていた。個人差はあれど、メタノール毒素が発現するまでは一日程度掛かる。恐らくは急性アルコール中毒。直接的な死因は吐瀉物が詰まっての窒息だろうか。いずれにせよ、手遅れだった。彼女の身体は硬直こそ始まっていないものの、人間としてあるべきの体温を保っていなかった。
もはや無人となった病院内には不気味と言っても差し支えない空気が流れているが、先程まで居た地下室に比べれば、日常に帰ってきたという漠然とした感覚がある。
とは言え、のんびりもしていられない。開院時間を迎えて騒ぎになる前に病院から出ないと。
滞在時間は一時間程度だと思うが、空を昇っている太陽は朝日のそれではなく、煌々と地上を照らしていた。
病院の外に人間の姿がない事に、首を傾げた。
おかしい。これくらいの時間帯に哲学、釈迦郡と合流する約束だったはず。その為にいつもより早く家を出たのだから。なのに、その二人の姿がない。
電源が落とされて、手動となっている出入口のドアを開け放った時、スラックスのポケットに仕舞い込んでいる携帯電話は振動した。何となく解っていた。だから、ディスプレイに表示されている『非通知』の文字にも驚く事はなかった。歩きながら通話のボタンを押して、端末を耳に当てる。
 
『知っていました? 農薬を使った慣行栽培の野菜と、無農薬の有機野菜の味は変わらないらしいですよ。土壌環境の良し悪しが味の八割、九割を占めるそうです。でも、ヒトの場合はどうなんでしょう。薬漬けになったヒトの味は…… いかがでした?』
 
心底興味深そうに訊ねてくる女性の声の後ろに、妙な雑音が入り込んでいた。砂嵐のような不快な音。音質が悪いという事はないだろう。水主が説明したように病院の屋上に基地局が設置されているのなら、そのほぼ真下に居る私の携帯電話の音質に影響が出るはずない。となれば、向こうの環境が悪いのか? それとも単純に騒々しい場所に居る?
 
「気になるなら自分で確かめてみたらどうかな。容の身体はまだ、病院の地下に置いてある。君にも会いたかったし、ちょうど良いと思うが」
 
スピーカーの向こうで女性――安良城は声を弾ませた。
 
『やっぱり、あたし達の心は通じ合っているんですね! あたしも花塚さんに会いたいなって思っていました。でも今は手が離せなくて…… 小又大滝(こまたおおたき)って分かります? そこに居るんです』
 
小又大滝…… 私の住む街の北部、上新城とやらに存在している大滝山の滝。実際に足を運んだ事はないが、一昨日に釈迦郡と行った海水浴場と並んで県の名所とされている。
この雑音の正体は、滝だったのか。
 
『今はもう地図からも消えちゃいましたけど、小又大滝の側の小又集落で生まれ育ったんですよ。落差二十メートル程度の滝ですけど、よく遊んだんですよね。すぐ手前には人ひとりがやっと通れるくらいの隧道があって、そこから滝の裏側を通り抜けて反対側に出れるんです。その隧道を秘密基地みたいにして、夜遅くまで家に帰らなかった事もあったなぁ…… だから、このヒトも気に入ってくれると思うんですよ』
 
「このヒト?」
 
安良城の声には郷愁の色があった。
その語りに耳を傾けていても良かったが、こちらへと走ってくる車の姿が視界に入った。白と黒のツートンカラー、ルーフの上に赤色灯を備えたそれは、いま最も遭遇したくない職業の人間が乗っているに違いなかった。
通報された? 誰が…… 安良城? いや、それはない。彼女が私を拘束しようとする意味はない。
聴覚に割いていた大部分の集中力を頭に回して、尤もらしい言い訳を考えたが、開院前の病院に居る時点で足掻きようもなく不審者の烙印が押される。
些か暴力的な手段が選択肢の上位にあがっていくのを自覚しつつ、私は腹を括った…… が、幸いにもそれは杞憂に終わった。そのパトカーを運転する人間の顔には見覚えがあったのだ。助手性に座る人間にも。
私の目の前で急停止すると、助手席から降りてきた人物が声を張り上げた。
 
「花塚! 釈迦郡は?!」
 
降りてきたのは哲学だった。運転席には映の姿がある。
落ち合う約束をしていた哲学は兎も角、何故映が? それよりどういう経緯で二人が? しかもパトカーを走らせて……。
 
「……シュカさんなら、まだ来ていませんが」
 
携帯電話を耳に当てた状態で答える。哲学は双眸に焦燥の色を宿らせて、捲し立てるように説明した。
 
「今朝、連絡があったんだ。安良城から。『今日中にママも船頭も居なくなるから、烏合之衆は本当の意味で何の目的を持たない烏の群れになる。あたしにそれを纏める気はないし、その能力もない。けど最後に花塚さんと花火を上げようと思う』と。単純に嫌な予感がした。待ち合わせ場所に釈迦郡が現れなくて、家を訪ねたものの、あいつは家を出た後だった。念の為に、お前の家にも向かった。するとそこの藤野さんが居て、巻き込むようで申し訳なく思ったが、事情を説明した。で、わざわざ足を用意してくれたんだが…… ここにも居ないとなると、一体どこに」
 
『釈迦郡宗日はここに居ますよ』
 
哲学の声が届いたのだろう。繋がったままの携帯電話から、ぼそりと回答が提示された。
 
『あたし、ずっと勘違いしていました。あたしにとって一番の障害は藤野映だって思っていたんですけど、そうじゃなかった。勿論、幸生哲学でもない。一番の障害と成り得るのはこのヒト…… 釈迦郡宗日だった』
 
「その口振りからして、シュカさんは君の側に居るようだな」
 
『居ますよ。こんなにも騒がしいのに、ぐっすり眠っています。ちょっと薬が多かったのかもしれませんね』
 
「何を使った。彼女は無事なのか」
 
ささやかな笑い声が聞こえてくる。嘲るように。
 
『薬に関しては、花塚さんも考慮していたものを軽く吸い込んでもらっただけですよ。スープレンって言えば解りますよね? 揮発性の麻酔薬です。即効性だけを考えて濃度は度外視したので、気道が腫れちゃっているかもしれませんけど、ちゃんと呼吸していますし、今のところは問題ありません。今のところは、です。花塚さんがあたしに構ってくれなかったら、このヒトに八つ当たりしちゃうかも』
 
一体何の要求をしたいのか見当もつかないが、こちらの行動を操りたくて仕方ないらしい。ひょっとしたら、構ってもらう事自体が目的でそこから先は考えていないのやもしれない。ある種の自棄を起こしていると捉えても良いだろう。安良城は自分自身の立ち位置を理解している。私が彼女に一切価値を見出していない事を理解している。だから、分かり易い人質が必要だった。
 
「……小又大滝とやらに行けば良いのかい」
 
『それをあたしから言わせるんですか? 知りませんよ、そんなの。あたしは一言も“来てほしい”なんて言ってませんけど、来たいなら来れば良いじゃないですかぁ』
 
電話越しだというのに、わざとらしく唇を尖らせる安良城の表情が目に浮かぶようだった。
 
『でも、あたしは気が短いので来るとしても今日中にお願いしますね。それでは』
 
先日の公衆電話のように、言うだけ言って通話は切られた。非通知着信なので掛け直す事もできない。だが、これ以上の対話は不要のように思えた。火蓋なら切られている。標的に定めるだけならまだしも、既に行動へと移してしまっているのだから。
それなのに、不思議と冷静だった。もっと焦って然るべき状況なのは解っている。この数日で己の無力さを思い知らされたからというのもあるだろうが、得も言えぬ充足感が四肢の隅々まで行き渡っているような感覚があった。久々の感覚だ。いつ以来だろう。本当にずっと昔の…… 物心がつく以前、私が自傷行為に傾倒するよりも前はこんな感じだった気がする。
不要となった携帯電話をポケットに仕舞い込むと、ふいに薄紫色の布切れが視界の外側から突き出された。
 
「口元、血塗れだぞ。濡らしてあるからこれで拭っておけ。水も要るか?」
 
いつの間にか運転席から降りていた映がこちらにハンカチを差し出している。もう片方の手は透明のペットボトルを掴んでいた。言われてはじめて、口周りの動きが鈍い事に気づく。血液が固まりつつあるのだ。
有難くハンカチを受け取って、水で口内を濯いでから口元を拭いた。吐き出した水は赤黒く染まっている。遅れて顎に疲労が押し寄せた。有酸素運動直後の筋肉のようなどんよりとした気怠さが、顔の下半分を襲っている。
硬いとは思わなかったが、だいぶ咀嚼したからな。貧血の影響もあるし、当然と言えば当然の成り行きだ。
 
「映。小又大滝まで連れていってくれ」
 
舌の動きを確かめるようにゆっくりと喋った。
 
「構わないけど…… 危険は? 警察に任せても良いんだぞ」
 
「危険だろうね。だが、人質を取られている。時間もない。今すぐ向かってほしい」
 
何か言いたげに眉をしかめていたが、渋々頷いてくれた。再び運転席へと戻っていく映の背中を見ながら、側の哲学に声を掛ける。
 
「哲学は」
 
「帰れと言っても帰らないからな」
 
「……でしょうね。無関係とは言えませんし、一緒に行きましょう。頼りにしていますよ」
 
「ああ。任せろ」
 
哲学は力強く握り拳を作って応えた。
実際に頼るような状況は可能な限り避けたいが、私ひとりの力など高が知れている。今は四の五の言っている場合ではない。使えるものは、使わなければ。
私はハンカチを無造作にポケットに突っ込んで、パトカーの助手席に乗り込んだ。哲学は後部座席に。その時、後部座席に見慣れない物が見えた。長さ一メートルほどの長方形の袋。ナイロン製と思しきそれは真っ黒で、車外から射し込んでいる陽の光を鈍く反射していた。
 
「それは?」
 
「木刀だ」
 
私の問い掛けに答えたのは哲学だった。
 
「文化祭を控えて近頃は練習できていないが、腕はなまっていない…… と思う」
 
そういえば、哲学は生徒会執行部と剣道部を兼任していた。どの程度の腕前なのだろう。まあ、強豪として知られる我が校の剣道部に所属しているのなら、疑う余地はない。映も警察学校で訓練を受けているし、この中で最も不安を抱えているのは私のほうだったわけか。
情けなさに打ちひしがれて、自然と身体が助手席のシートに深く沈んでいった。
映がシフトレバーを操作して車を発進させた。その横顔に訊ねる。
 
「連れていってくれと頼んでおいて訊くのは気が引けるが、私用で緊急車両を乗り回して良いものなのかい?」
 
映は口角を吊り上げた。
 
「駄目に決まってるだろ。職務中なら百歩譲って警邏活動で済まされるかもしれないが、今日は休みだからな。始末書は覚悟しないと」
 
「出世が遅れそうだね」
 
「う…… 申し訳ありません。無理を言いまして」
 
後部座席の左側に座る哲学が恐縮して頭を下げたが、映はハンドルから片手を離して笑い飛ばした。
 
「気にしないで。女の警察官なんて、どうせ出世できやしないから。ノンキャリアだし、真面目に何十年と勤めて昇任試験に合格したって警部が精々だよ」
 
「へえ。そういうものなのか」
 
「そういうもの。実際、うちの署だと女性警察官のトップは警部補。全国的に見れば、警視長とか警視正が何人か居るみたいだけど、当然キャリア組。アタシには無縁だ」
 
「今からでも勉強して警察庁の採用試験を受けたら?」
 
「バカ。それができるような頭だったら、最初からそうしてるっての」
 
などと雑談を交わしながらも、映の運転する車は、蛇のように曲がりくねりながら猛スピードで走行していく。
相当飛ばしているはずなのに、車内では緩やかに時間が流れているようだ。不自然なくらい落ち着いている。非日常的な出来事が立て続きに起こっているというのに。
あまりに荒唐無稽で、危機管理・危険察知能力といった生物として備わっている本能の部分が麻痺しているのやもしれない。
 
「到着まで時間はあるのだから、一旦整理しておきましょう」
 
哲学の隣…… 後部座席の右側から、唇と頬、両目を失くした姉が顔を覗かせて提案する。
 
「そうだな。気になっている事は幾つかある。それを安良城本人に訊ねたとしても満足のいく回答が得られるとは思えないが」
 
「でも、訊くのでしょう? お前はそれを見過ごせないから」
 
綺麗な発音だった。
構音機能を失っていてもおかしくないはずの状態なのに、器用な事だ。とは言え、容の器用さは今に始まった話でもない。
 
「そもそも、安良城遍は何故ここにきて自暴自棄のような行動に出た? アンタを失った『烏合之衆』が使い物にならないのは理解できるが、それでも教育とやらを施してきた連中なのは変わらない。逮捕されたとしても、連中は決して口を割らない。そうだろう? ならば、安良城遍の犯行は明るみに出ない。彼女はまた“母親と死別した憐れな子供”に戻るが、平穏は約束されているようなもの。危険を冒してまで私の相手をする必要はどこにもない。仮にその必要があったとしても、もっと慎重に行動できた。追い込まれているのはこちら側なのだから。彼女は、何を焦っている?」
 
「そこまで理解しているのなら、とっくに答えは出ているはずよ。お前は答えから目を逸らしたいだけ。最悪のケースを想定したくないだけ。違うかしら」
 
「いいや、違わない。もし私の考えている通りなら…… いや、十中八九その通りなのだろうが、残りの一、二の可能性を早めに潰しておきたかった。心残りだな」
 
「過ぎた事を悔やんでも仕方ないわ。今は一つでも多くの対策を練るべき」
 
「対策ね…… 正直、何も浮かばない。知恵を貸してもらいたいものだよ」
 
「……おい」
 
「甘えないの。それに、この程度で弱音を吐いていては駄目よ。お前は将来、もっと大変な出来事に巻き込まれるのだから」
 
「アンタはいつもそうやって決めつける。一体どこからそんな自信が湧いてくるのかね」
 
「おい」
 
映が遮るように声を出して、こちらに一瞬視線を向ける。しかしそれを気にも留めずに容は話した。
 
「勿論、お前の将来のすべてが判るわけではない。けれど、判る事もあるわ。まだ全環が居る。いつになるか分からない。でも、あれは必ずお前に害を為す。これはその予行練習と思いなさい」
 
「ふざけやがって」
 
そう毒づいた時、映が私の右腕を掴んで、「おい!」とさらに声を荒げた。我慢ならないとばかりに。
確かに無視するような形になったものの、そこまで怒らなくても……。
謝罪するべきか悩んでいると、映が恐る恐る訊ねてくる。
 
「お前…… さっきから、誰と喋っているんだ」
 
私は笑った。
 
「誰と? そんなの見ての通り、後部座席の」
 
と言いながら振り返る。だが、そこには訝し気に表情を歪めている哲学しか居なかった。
容は、居ない。居るはずがない。
 
「……花塚。平気か?」
 
私は、心配そうに問い掛けてくる哲学に応えず、また笑った。もはや、笑うしかなかった。
今の私は、かつての母親と同様の精神状態に陥っていた。