もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
 
―――
 
『ああああああッ!』
 
男は、赤い涙を…… いや、神経線維を両目の隙間から垂らして悲鳴をあげた。悲鳴と言うよりは大声だろうか。だがそれが善意ある誰かの耳に届く事はなかった。防音性に富んだ壁面には如何ほどの効果もないようだった。
 
『も、もうしませんッ!』
 
男は、ようやく人間らしい言葉を発した。
脂汗に塗れた顔から、必死に唾を撒き散らしていた。
 
『もうしませんからッ! カメラも、写真も、ぜんぶッ! ぜんぶ処分しますから、たすけてぐださい! 娘もすきにじでいい! おお、おねがいだがらだすげて! だずげでッ!』
 
喚く男の前には、もう一人…… 別の男が居た。シルエットしか見えないが、大柄な男だった。彼は咳払いをして、工具箱のようなものを覗き込みながら、淡々と喋った。
 
『君は勘違いをしているようだ。自分には君を許したり助けたりする権限などない。付け加えれば、尋問する権限すらない。自分はただの請負業者だ。依頼された通りに作業をこなす。そして、その契約の中に君の聴取や処遇を決める事までは含まれていない…… 正確には、処遇の決まった者がここへ送られてくる。要するに、これは拷問ですらない。単なる事後処理なのだ』
 
『あ、ああッ、ああああああああああああッ!』
 
悲鳴が一層大きくなった。頑丈に固定された椅子の上で上半身が狂ったように暴れている。激しい動きではあるが、アームレストと両脚の留め金は成人ひとりの膂力でどうにかできる代物ではないのは一目瞭然だった。
工具箱を漁っていた大男はペンチを取り出して、二度三度とそれを握り込む。錆びついていないか確認しているのだろう。
 
『……そうだな。伝えたほうが親切だろう。君がまともに喋る事ができるのは一時間が精々といったところだろう。今までの人間はその辺りで意識が壊れていた。なので、遺したい言葉があるのなら今のうちに喋っておいたほうが良い。何を遺すかは君の自由だ。君の声や姿は記録されている。安心して喋ってくれ』
 
『ああああああああァァァ…… 嫌だ嫌だ嫌だいやだあああああじにだぐないじにだぐない…… もうしませんもうじまぜんもうじまぜんからだすげでだずげでだずげでおねがいですだずげでおねがいひひひいいいいやだやだやだやだやだよおおぉぉぉぉたすけてだれがだずげでええええッ!』
 
『無理だ。それは君自身が一番良く解っているはずだろう』
 
大男は、彼の前歯をペンチの刃先で挟んだ。
数秒後に何が起こるのか。想像するのは容易かった。
 
『君は、あまりに浅慮だった。幸生学文』
 
パチン、と弾けるような音が響いて、何度目かの絶叫があがった。
 
―――
 
「朝からスナッフフィルムか…… 感動の再会に水を注された気分だよ」
 
それも知人のものとなれば、格別に気分が悪い。
恐らくは、廊下の途中にあった部屋。あの部屋で撮影されたのだろう。時間までは分からないが、もう生きてはいない。仮に生きていたとしても、死んだほうがマシな状態になっているのは間違いない。
水主によって案内されたのは、モニタールーム…… いや、監視室と呼ぶべきか。六畳ほどの広さの室内には幾つかの棚の他、監視カメラの映像が流れていると思しきモニターが何台も並べられている。天井には豆電球が灯っているが、光源としては頼りない、明かりとしてはモニターのほうがマシだろう。
その最奥に、彼女は居た。
薄暗い部屋の中で椅子に座り、優雅に足を組んで、モニターの一つを見つめている。
 
「……別に娯楽目的で観賞しているわけではないわ。商品として価値がある物に仕上がっているかどうか、見定めているだけよ。男は娯楽として、女は食用として。こちらの世界では、それが重視されているの」
 
そう答えている間にも、耳障りな悲鳴が断続的に聞こえてくる。そのすぐ後にコホン、コホンと咳込む音がした。
 
「そうかい…… それで? その世界とやらの水はアンタに合っていたのかね」
 
彼女――容は、モニターの前にあるパネルで動画を停止させると、ようやくこちらに振り返った。
金色の左目と、銀色の右目…… 特徴的な虹彩異色症に、若い頃の母親と見紛うばかりの容姿。眩いモニターの光を背に受けて、まるで昏い水面に二つの異なる月が浮かんでいるかのようだった。この姿に、この雰囲気に魅入られない者が、果たして居るだろうか。
私でさえ目を奪われて、ぎしり、と椅子が音を立てるまで容が立ち上がった事に気づけないでいた。容はゆっくりと一歩ずつ、こちらに近づいてくる。最後に会った四年前までは背丈も容のほうが高かったはずだが、今では私が見下ろしている。
容は手を伸ばせば届く距離で立ち止まると、両腕を広げて私を抱きしめた。母親のように。背中に回された掌から温かいものが伝わり、白檀の仄かな香りが鼻をくすぐる。その香りの中に、別のものが混じっていた。
 
「ほんの数年会わないだけで、随分と大きくなったのね」
 
容の二色の瞳は微睡んでいるかのように虚ろだった。様子がおかしいのは明らかだった。
私は、抱き着いてこちらを見上げている容の頬に手を添えて、金色に光る左目を覗き込んだ。
 
「……覚醒剤か。しかも相当な量を常習しているようだ。白檀で誤魔化しているものの、それとは異なる特有の甘い匂いがわずかに漂っている。それに瞳孔も。確かにここは薄暗いが、先程までモニターを見ていたとは思えないくらい散大している。中枢神経系が興奮状態に傾いている証拠だな。右腕を」
 
もたれ掛かるように体重を預けていた容をそっと引き剥がす。彼女はこの暗がりに溶け込んでしまいそうな濡羽色のロングドレスを身に纏っており、肌が露わになっているのは両手と顔、首元くらいだった。
私はそんな容の右腕の袖を捲った。記憶が正しければ、彼女も私と同じく左利き。ならば、その痕跡も右腕に集中しているだろう。彼女はされるがままだった。私の視線は腕に落としているが、彼女の視線は未だこちらの顔を見上げている。
胸中で舌打ちをした。
用意していたはずの罵詈雑言は行き場を失って、無力感に歯噛みする。
以前までの彼女には、触れただけで皮膚が切り裂かれるような…… 或いは猛毒を持つ蜘蛛のような、そんな危うさがあった。それが今では見る影もない。
身体のラインにぴったりと張り付くような袖を捲るのには少々苦心したが、ややあって剥き出しになった肘の内側には、案の定、無数の注射痕があった。新しいものから古いものまで。次いで右手首を掴んで心拍を採りながら、もう片方の手の甲を容の首元に当てた。
 
「高熱に発汗、不整脈…… 入れたばかりか? いつから覚醒剤に手を出した」
 
コホン、とまた咳込んだ。風邪のような症状だが、風邪ではない。混ぜ物がしてある覚醒剤のせいで肺機能障害を起こしているのだ。
 
「わたしはただ、世界の果てを見てみたかった」
 
容はそう言うと、私の手を振り解いて再び抱きついた。
立っているのもやっとの状態なのやもしれない。ひとまず、中毒症状を緩和させる必要がある。病室に戻ればハロペリドールやプロメタジンなどの覚醒剤拮抗薬、中枢神経系の興奮を抑えるクロルプロマジンくらいはあるはず。幸いにもここは院内処方だ。薬剤には困らない。
 
「容。私は一旦戻るから、ここで」
 
と言って踵を返そうとする私を容は押し留めた。弱々しく。振り払おうと思えば容易く振り払える。しかし、今の彼女を乱暴に扱う事はできなかった。
 
「糾…… お前にはどう見える? この世界がどう見える? その琥珀色の瞳には、どう映っているのかしら」
 
譫言のように問い掛けてくる。
 
「わたしには砂漠に見える」
 
容は、寂し気に呟いた。
 
「何もなくて、誰も居ない…… 枯れ果てた世界。草木は痩せ細り、黄塵が吹き荒れている」
 
世界が砂漠に見える。
容の言葉を聞いて、私は一体どういう表情を浮かべていたのだろう。しばらくの間、彼女の見る世界を想像していた。
容は子供に絵本を読み聞かせるような口調で、静かに、緩やかに、話を続けた。
 
「その一方で、こう考える時もあるの。たとえば道端に花を見つけた時…… わたしは歩みを止めて、その鮮やかさに見惚れる」
 
当たり前だが、剥き出しのコンクリートが覆っている地下では花らしきものは見当たらない。それでも容の目は、確かに何かを慈しんでいた。
 
「傍らには見知らぬ路地がある。こんな道があっただろうか? 好奇心に駆られて奥へと足を運ぶ。路地裏には冷ややかな空気が立ち込めていて、わずかな陽だまりの中で猫が微睡んでいる。頬を緩めて、さらに進む。やがて視界が開ける。そこには打ち棄てらえた廃工場が、朽ちた壁面に蔦を絡ませていた。廃工場の脇には水路が流れている。水のせせらぎに耳を傾けて、その水源がどこにあるのだろうと胸を膨らませる。陽を反射して煌めくそれをいつまでも遡っていくと、今度は古ぼけた鳥居が佇んでいた。その下をくぐり抜ける。苔生した石段は遠くまで延びていて、見渡す事も叶わない。それでも周囲の草花を楽しみながら、一段一段と登って、ようやく辿り着いた境内で振り返った時…… わたしは、山々の向こう側に沈んでいく夕陽を見る」
 
容は、左手を伸ばした。
 
「わたしは、わたしの眺めるそれが、どこか別の世界の果てに繋がっているように感じてしまった」
 
その手が私の右頬を優しく撫でた。
 
「あの山の向こうには一体何があるのだろう…… いつか、わたしはその先を見てみたい。わたしは、世界の果てを見てみたい」
 
頬から手を離して、今度は私の両手を掴んだ。
 
「糾はどうなの? お前は何を望む? 何を求めている? 徒に齢を重ねて死ぬまでの分陰で心の底から手に入れたいのは何?」
 
答えに窮した。
望むもの。求めているもの。手に入れたいもの。
それは、いつだってそこに在るもの。いつだってそこに無いもの。
容は回答を導き出しているようだった。何もない砂漠だと唾棄した世界の中で、彼女は期待していた。あの時から。四年前から既に。彼女が待ち侘びていた、唯一の期待……。
容は掴んだ両手を持ち上げて、それを自分自身の首元に添えた。そして泣くように微笑んだ。
 
「……以前も言った通り、期待には応えられない」
 
両の掌に、容の体温を感じる。首元を通る血流も。呼吸音も。すべて感じられた。
 
「いいえ。必ず応えてくれるわ。母親に、そうしたように」
 
違う。あれは自分自身で首を括っただけで、私は何も…… 何もしていない?
あれは確かに、寝室の中程で浮かんでいる人影は風邪を受けて、前後左右に揺れていた。赤黒く染まった身体。あらゆる体液を滴らせた手足。
私は本当に、何も、していなかったのか?
半年も経っていないはずの出来事なのに、記憶は酷く曖昧で、不鮮明だった。
克明に覚えているのは、味だけ。
白く変色した唇は血生臭くて、柔らかな頬は涙に塗れて塩辛くて…… 特に眼球は格別だった。咀嚼する度に、母親が目にしてきたこれまでの人生を味わったような感覚になった。
愉快。軽蔑。疑心。矛盾。信頼。幸福。矛盾恥辱。恍惚。矛盾。矛盾。矛盾。矛盾…… それらが奔流のように溢れ出てくるような気がした。
コホン、と咳払いが聞こえた。いつの間にか埋没していた意識が浮上する。
容は依然として笑っていた。その目に、安良城と同様の昏い色を宿しながら。
 
「先に待っているわ。お前も、同じところに落ちるでしょう?」
 
そして潰れた気道から、乾いた空気の音が漏れた。
容は魚のように口を痙攣させて、それでも抵抗の意思を見せず、安堵の表情を浮かべていた。意識に反して、私の手は一向に緩まない。一層強く、一層深く、細い喉に食い込んでいった。
やがて脱力した両腕がぶら下がる。胴体も、両足も、動かなくなった。さらに一際力強く締め上げてから、解放した。
もう自立する事すらできなくなった身体を抱きかかえて、立ち尽くした。
一分か、十分か、一時間か…… その感覚すら薄れてきた頃、私は思い出したように左手を容だったものの目元に伸ばすと、光を失ったその眼球の隙間に指先を潜り込ませて、抉り取った。