もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
全部を失う。その言葉の意味するところを理解できないわけではない。映はここで、哲学も、釈迦郡も始末する気なのだ。
気になるのは、そこに私自身の命は含まれるのか否か。
含まれないとすれば、私が致命傷を負う事は映にとっても不都合のはず。所持している拳銃によって殺めるつもりなら、私が盾になれば良い。問題はどちらが先に狙われるか…… 距離的に考えれば釈迦郡。しかし、私に気づかれない距離から発砲して安良城の喉元に命中させた事を踏まえると、哲学も充分有り得る。
とりあえず、安良城相手にやったように殺す気を削ぐ話をするべきか。
 
「知らなかったよ。映に狙撃の才能があったとはね」
 
「別に? たまたま当たったのがあのガキだったってだけだ。そこで木刀を振り回していたガキに当たっても良かったし、お前に引っ付いていたクソガキでも良かった」
 
「私に当てる気もあったと?」
 
「……いいや? お前を殺す気はねェな、今のところ」
 
映は拳銃のシリンダーに目を落としながら、つまらなそうに答えた。
己の勉強不足を呪うしかないな。警察官に配備されている拳銃の知識など欠片も持ち合わせていない。回転式拳銃なのは一目瞭然だが、装弾数すら知らない。五発なのか、六発なのか。無知が祟ってシリンダーの形状から予測する事もできなかった。仮に五発だとして、先程安良城に向けて二回発砲したわけだから、残りは三発…… 最善は、そもそも撃たせず穏便に鎮静化する方向へと持っていく。次善は、三発を安全に吐き出させる。最悪なのは、今しがたの回答がブラフであり、私を含めた三人に一発ずつ撃ち込まれて絶命させられる。
私は状況を好転させるべく、周囲に視線を巡らせた。
位置関係としては、小又大滝の最も上流に哲学が居て、そこから少し下った場所に私…… その間には頸部を抉られた安良城が仰向けに倒れている。そして私のすぐ傍らに映と釈迦郡。それぞれが大なり小なり負傷している。この中で比較的軽傷なのは釈迦郡だと思うが、安良城に吸い込まされたという麻酔薬がどの程度残っているのか。確か、スープレンと言っていたか。一般的な吸入麻酔薬だ。効果の発現が早く、覚醒も早い。安良城は濃度を度外視して吸わせたそうだが、釈迦郡の声が嗄れている様子はなかった。喘鳴もない。気道過敏症の心配はないと見て良いだろう。
先程のような付け焼刃のミスディレクションは通用しない。
私が囮になって銃弾を消費させた後、釈迦郡に抑えてもらう…… いや、彼女は哲学と違って武道を修めているわけでもない。負傷の度合いが強いからといって、徒手空拳では警察官の映に敵わない。頼みの哲学は映から離れている上に、木刀は捨てさせられた。せめて私が万全ならば……。
 
「おい」
 
黒々とした銃口が私の眉間に向けられる。
 
「いくら悪知恵が働くお前でも、この状況は覆せねェって。諦めろ。結局、お前は誰も守れず、お友達が死んでいくのを見てんのが関の山だ」
 
「私を殺す気はないのだろう? 銃口を向けても何の威嚇にもならないよ」
 
私は、あえて挑発的な言葉を浴びせた。本当に殺す気がないのか。それを見定める為に。
 
「はァ? 解ってんのか? 人間の身体ってのは結構丈夫なんだよ。頭だの腹だのに当てなきゃ死にはしねェよ。お前が相手でも手足の先に穴を開けるくらいはできんだぞ」
 
「映こそ、解っていないのかな。考えてごらん。ただでさえ、重度の貧血で死にかけているようなものなのに、事故に遭って血を流した。そこに銃弾なんぞ撃ち込まれたら…… 断言しよう。私はどこを撃たれても絶対に死ぬ」
 
「しょうもねェ事で胸を張んなよ、バカが…… じゃあ、これならどうだ」
 
映は不機嫌そうに顔を歪めて銃口を下ろしたと思いきや、それを傍らの釈迦郡の頭に突き付けた。釈迦郡の口から、「ひ」と小さな悲鳴が漏れる。
こちらに向けてもらっていたほうが状況としては良かったのだが、これで私を殺す気はないという言葉に信憑性が出てきた。映の行動原理は未だ理解できない。だが、どうやら“私”は駆け引きに使えるらしい。
 
「ところで、話は変わるが」
 
「勝手に変えんな。主導権はアタシにあるって言ってんだろ」
 
「救急車は呼んだのかい」
 
構わずに話を続ける。
映は今、拳銃という絶対的な凶器を手にしている。そこに付け入る隙がある。
 
「ああ、呼んだ。けど場所が場所だからな。四十分は掛かるそうだ。つまり、助けが来るのは当分先になる。残念だったなァ」
 
「どうする?」
 
「あ?」
 
「いずれ現れる救急隊員に対して、どういう説明をする気だと訊いている。映の中では、どういう筋書きを描いている? 拳銃を持った現役警察官が高校生四人を相手に大立ち回りを演じた挙句、既に一人死亡させたわけだが、これをどのように収めるつもりなのかな」
 
「残っているガキ二人を殺して、アタシとお前だけで下山する。罪はそこに転がっている安良城ってガキに被せりゃ良い。実際、幾つもの犯罪に関わっているからな。警察も納得する。納得せざるを得ない。烏合之衆は警察にとっても探られたくない暗部だ」
 
「それで? 肝心の私の口はどう封じる? 警察が動かないのなら、世論を動かすまでさ。今や誰もが世界中に情報を発信できる時代…… “小又大滝で発生した凄惨な事件の生き残り”が真相を明かすとなれば、話題に飢えているメディアは必ず食いつく。世間の関心が集まれば、警察とて重い腰を上げなければならない」
 
映が舌打ちをする。恨めしそうな視線が彼女の背後にあるものを物語っていた。
 
「私は便宜的に“オーナー”と呼称しているが、警察関係者に烏合之衆の手綱を引いている人物が居るのだろう? 映も、その人物から何らかの命令が下されているのではないかな。だからこうして私達を脅している。命令された内容の見当は大体つくが、私を生かしてしまってはすべてが破綻する。きっと、今度は君が切り捨てられる」
 
「……うるせェな。べらべらと能書き垂れやがって。お前に何が解るってんだ」
 
「私を殺したくないという事は解るよ」
 
私がそう言い放つと、映は鼻で笑った。
 
「自惚れもいいとこだな。お前なんか、いつでも」
 
「映」
 
「なんだよ」
 
「私としても多少不本意ではあるが、映の筋書きに沿って安良城に罪を被ってもらう。自暴自棄を起こした安良城を仕方なく撃った。私も証言する。哲学にも釈迦郡にも余計な事は喋らせない」
 
映の表情が険しいままだが、その両肩から徐々に力が抜けていくのが分かった。
 
「だから、見逃せってか? そんな甘い話があると思ってんのか。お前の考えは概ね当たっている。ガキ共を殺さなきゃ、こっちが殺られんだ」
 
「なら、逃げよう。一緒に」
 
「……は?」
 
「“オーナー”の急所である容と、安良城は死んだ。私と、映が殺した。奴の実態は知らないが、映という人間を動かして事を進めたのは悪手だったと思う。切り捨てられるという事は、裏を返せば急所にも人質にも成り得るという事だ。君が行方をくらませれば“オーナー”も彼女達には手を出せない。だから逃げよう。映。今の君には二つの選択肢がある。ひとつは、すべてを告発して奴と戦う。それは大変な困難を伴う道だろう。あらゆる人間を敵に回す。君自身の安全と自由、時間、つまりは…… 人生のほとんどを犠牲にしなければならない。勝利の見えない戦いになる。もうひとつは、逃げ続けるという選択肢。その場合、君は別人にならなければならない。日本を離れる事になるやもしれないが、前者より平穏な生活を送れるはず。どちらを選んでも構わない。どちらにせよ…… 私は君についていく」
 
遠くからサイレンのような音が聞こえてきた。
映が呼んだという、救急車だろう。麓から、この小又大滝までは直線距離にしてみれば短いが、相当迂回しながら進まなければならない。まだ幾許かの猶予はあるだろう。
とは言え、悠長に構えてもいられない。
 
「……勝手に話を進めんなよ。主導権はアタシにあるって言ってんだろ。何度も言わせんな。それにお前は奴の事を…… 奴らの事を何も解っちゃいねェ。仮に逃げたって…… いや、違う。そもそも、そんな選択肢」
 
「映」
 
「なんだよ!」
 
無意識に頬が緩んだ。主導権云々に拘っておきながら、こちらが声を掛ければ、ちゃんと耳を傾けてくれる。彼女は、根っからの悪人には成れない。
だから、申し訳なく思う。追い詰めるような真似をして、申し訳ない。本当に申し訳ない。これから君をもっと追い詰める。
私は右腕の袖を力任せに捲って、ケロイドだらけの前腕を晒した。未だ何箇所も縫合されたままの状態で、そこかしこから血液が滲んでいる。
 
「悪いが、主導権は私のほうにある」
 
口を開け広げて、前腕を通っている皮静脈を目掛けて齧りついた。顎にあらん限りの力を込めて、右腕を振って強引に食いちぎる。皮下組織が引き裂かれる感触。指先が痺れるほどの激痛。鉄の味。
口内に残った腕の一部を吐き出す。鮮血に塗れた黄色い脂肪が、べちゃりと岩に貼り付いた。右腕に視線を戻すと、安良城の喉元のように噴き上げてこそいないものの、心拍に合わせて大量の血液が溢れ出ていた。
 
「痛い…… 凄く痛い」
 
「お、お前」
 
映があからさまに狼狽えた。釈迦郡に突き付けていた銃口が定まらなくなるくらいに。その釈迦郡も、顔を青ざめさせていた。
 
「さあ。早く決めてくれ、映。君の耳にも聞こえているはずだ。じきに救急車が到着する。だが、このままでは到着まで持たない。止血を施せば病院には間に合うだろうが…… 君が決めてくれるまで、止血する気はない。私に死んでほしくないのだろう? 死なせたくなければ、決めるしかない。戦うのか。逃げるのか」
 
「…………」
 
映は、悔しがるように目を伏せた。
滝の音が沈黙を埋める。終わりのない瀑声は、静寂を永遠であるかのように錯覚させた。いつか、ここに居る全員が死んだとしても、この音だけは今と変わらず鳴り響いているやもしれない。いつまでも、ずっと。
だが終わりは、突然だった。
 
「逃げるよ」
 
言葉を発すると同時に、拳銃を滝とは反対側へと投げ捨てた。安堵したのも束の間…… 映は滝壺へと身を投げていた。全員が拳銃に意識を奪われていた。哲学も、釈迦郡も、私も。だから、落ちていく映に手を伸ばすのが遅れた。
やられた。最後の最後で、一手先を行かれた。
それでも手を伸ばすしかなかった。岩を蹴って、彼女の身体を追いかけた。
あとは、一枚一枚写真を捲るような、断片的な記憶しかない。空中で掴んだ映の手。その温かさ。反転する視界。空。血。岩。滝。浮遊感。不思議と音は聞こえなかった。あれだけ喧しかったはずなのに。しかし、見えるはずのない木々の葉脈まではっきりと見えた事は克明に覚えている。
繋いだ手の感触を辿ると、彼女の驚いた顔があった。
私の心配より、自分自身の心配をしてほしいものだと、呑気な事を思った。そして。
私達は、水面に叩きつけられた。