もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
私達の車は一度県道を使って北上した後、小又林道と呼ばれる道路を走行していた。路面の凹凸を体感できるほど舗装が甘いその道は、白線も満足に引かれていない。遠くには太平山をはじめとする山々が聳え立っているが、そこに用はない。目的の小又大滝は、その手前の大滝山の側…… 名前すら付いていない無名の峰に存在している。小又林道に入って数キロ進むと、完全な砂利道となり、やがて赤錆びた門に突き当たった。まるで侵入者を拒むように設置されているが、車一台なら通れる程度の隙間がある。先客が来ているのは間違いない。
映は、慎重なハンドル捌きで門の隙間を通り抜ける。
門には風雨に曝されて朽ちている看板が掲げられていた。ペンキが剥げていて読み難いが、九十年代の初め頃に作られた看板らしい。ゴミの不法投棄を禁ずるような警告文の後に、所轄の警察署と思しき名前が記されていた。
門を通過した先は霧が満ちており、昼間とは思えない薄暗さが広がっていた。申し訳程度に設けられたガードレールの向こうは深い崖。反対側は並木道のように立派な山桜が緑々しく生い茂っているが、その風情を楽しめるだけの心の余裕がない。それは映、哲学とて同じようで、先程から車内にはエンジンの駆動音と走行音しか響いていない。
霧の先に小規模の庚申塔と鳥居が見えた。神社が近くにあるのだろう。後部座席に座る哲学も同じ様に鳥居を見つめていた。
だからというわけではないが、私は誰に聞かせるでもなく、とある伝承を語った。
 
飛鳥時代、この辺りには役行者(えんのぎょうじゃ)という人物が居たそうだ。医療に関する呪術に長けていて、『続日本紀』や『日本霊異記』といった史料にも登場している。藤原鎌足の病気を癒したという伝説があるらしいが…… まあ、その真偽は分からない」
 
「今“この辺り”と言ったが、花塚はここを知っているのか? 出身地でもないのだろう」
 
哲学が、独り言に終わる可能性もあった私の話に反応する。
 
「私が生まれ育った村にも役行者の伝承がありましてね。彼自身は密教の呪術師だったので、時折ですが、彼を信仰する修験者が村に足を運ぶ事もありました。その修験者から色々と聞いたものです。すべての話を覚えているわけではありませんが、印象的だったのは、役行者が修めていた呪術…… 密教の中でも解毒を主とする摩訶摩瑜利(まかまゆり)の孔雀経法が最も得意だったのだとか」
 
「解毒?」
 
「摩訶摩瑜利は毒を有する生物を食べて浄化する女神と伝えられているので、医学や薬学に関心を持つ修験者に大変好まれていました。ひょっとしたら、この辺りの集落にも似たような話が伝わっているやもしれません」
 
私が語り終えると、哲学は感慨深そうに、「なるほど」と呟いた。
そのまま会話は途切れて、しばらく沈黙が降りる。だが、唐突に哲学が口を開いた。
 
「……毒と、解毒。もしかすると、あいつはその伝承に花塚と自分自身を重ねたのかもしれないな」
 
肯定も、否定もしなかった。
容が私を“純粋な毒”と呼称していたのは聞いている。その容に育てられた安良城がそれを知らないとも思えない。彼女の故郷とされる集落に、もし役行者の伝承が存在していたとしたら有り得ないわけでも…… 所詮は憶測でしかないが、容は安良城という解毒薬を作りたかったのだろうか。
 
「おい、あれじゃないか」
 
気づけば、車は橋に差し掛かっていた。渓谷に架かる橋からは上流の景色を見上げる事ができたが、霧のせいで視界は不明瞭。切り立った山肌に滝が流れており、傍らには人影らしきもの二つ見えた。
 
「人影だ」
 
哲学は後部座席から身を乗り出して、「釈迦郡は無事なのか?!」と叫んだ。映も助手席側の窓から覗こうと体勢を変えながら、訊ねてくる。
 
「間違いないか?」
 
「いや、ここからでは判然としない。もっと近くに」
 
瞬間、破裂音と共に途轍もない衝撃が全身を襲った。
 
―――
 
ごわごわとした分厚い風船のようなものを顔面に押し付けられている。それが最初の感覚だった。自分自身の体勢も分からないまま、枕より大きなそれを掴んだ。ぐっと力を込めるとその風船はあっさりと引き剥がせた。そしてそれを見つめる。やはり、風船のようなもの。
何だろう、これは。つい先日も見た事あるような。
ぼんやりと眺めて、ようやく車の助手席に座っていた事を思い出す。
エアバッグだ。血液…… 恐らくは私の血液に塗れたそれが、視界の大部分を遮っている。状況が、把握できない。何が起こった。
 
「は、なづか……」
 
消え入りそうな声が背後から届く。はっとして背後を振り返る…… つもりだったのに、頸椎に激痛が奔って呻くしかできなかった。
 
「……大丈夫ですか、哲学」
 
それだけを何とか振り絞ると、「なんとか」という弱々しい返答が聞こえた。
 
「映は」
 
首を通っている、あらゆる痛覚神経が脳へ信号を送っているのが解った。それでも確認せずには居られない。奥歯を強く噛み締めながら運転席を一瞥して、息を呑んだ。
映は粉々に砕けているサイドガラスに寄り掛かっていた。同様に膨らんだエアバッグと、おびただしい血痕。フロントガラスには剥き出しの岩盤が迫っている。
事故を起こしたのだ。人影に気を取られて。
橋を渡った先が急カーブになっていた。反対側の崖に転落しなかったのは不幸中の幸いだが、この場合は……。
 
「映。動けるか、映」
 
映の胸元は浅く上下していた。
生きている。こういう事故において安心はできないが、今のところ全員無事だ。
彼女は苦悶に顔を歪めつつ、サイドガラスから上体を起こす。
 
「右腕の、感覚がない…… 肩から先が吹き飛んでないないと良いけど…… 痛みのおかげで意識は、それなりに、ある。だけど動くのは…… すぐには、難しいな。お前は?」
 
「私なら問題ないよ」
 
頸椎は油を注し忘れた蝶番のように動きが鈍っているが、四肢の感覚はある。幻肢でない事を祈るばかりだが。次いでバックミラーを覗き込む。大きな損傷はないものの、鼻骨は折れているやもしれない。ガラスの破片が口に入り込んで、頬の内側などをズタズタに切り裂いている。頭部からの幾らかの出血が見て取れたが、下手に腫れたままよりはマシだろう。
 
「救急車を」
 
ポケットからぎこちなく携帯電話を取り出した。通話できる事は確認済みだ。安良城が掛けてこれたのだから。
点灯したディスプレイに目を落とす。視界の左半分に違和感を覚えたが、些末な事だと切り捨てた。番号を押して、通話ボタンに指を伸ばそうとした時、映が私の携帯電話を掴んだ。
 
「いいから、行け。呼ぶにしたって、警察官のアタシのほうが、都合が良いだろ。お前は、早くあの子を連れ戻してこい」
 
「しかし……」
 
「躊躇している場合か。時間が、ないんだろ? 早く行ってこい」
 
血の滲んだ唇が、強がるように吊り上げられた。
映と、映の手を見比べる。そして強く握り返した。彼女が安心できるように。
 
「行ってきます」
 
体当たりするように助手席側のドアを開け放って、地面に崩れ落ちた。
良かった。感覚の通り、四肢に問題はない。だが呼吸をする度に刺すような痛みが胸部に広がる。肋骨に亀裂でも入ったか。完全に折れていたり、内臓に突き刺さったりしていればこの程度では済まない。
膝に力を込めて立ち上がると、後部座席のドアが開いた。右頬を腫らした哲学が顔を出す。
 
「……じっとしていたほうが良いですよ」
 
言っても聞かない事は解っていたが、一応制止する。
哲学は鼻で笑ってから、地面に向かって血液と共に唾を吐く。そのなかに白い塊が混じっていた。
 
「衝撃で歯が取れただけだ。花塚や藤野さんに比べれば対した事ない。一番軽傷のわたしが行かないで、どうするんだ。それに、わたしは忘れていないぞ。あの日から一度も。お前が“潔く心中しろ”と言った事を」
 
赤く染まった歯を剥いて、不敵に笑う。応えるように私も笑った。
 
「一緒に死んでくれますか」
 
「望むところだ」
 
私達は、覚束ない足取りで山肌を流れる川の側を登った。滝の頂まで距離にしてみれば一キロもないはずなのに、立ち込めている濃霧と、負傷した身体が距離感をあやふやなものにしていく。
一歩進む度に油汗が滲む。呼吸が乱れる。激痛が奔る。一秒一秒が緩慢になっていくのを自覚した。身体が、脳が、気絶したがっている。薄れていく意識をギリギリのところで繋ぎ止めながら、岩に足を掛けた時、情けなく足がもつれた。
倒れる。
そう思った。しかし、転倒する事はなかった。
よろめく私の背中を、哲学が支えてくれていた。
 
「使うか?」
 
先程から哲学は木刀の入った袋を杖のようにして身体を支えていた。それをこちらに差し出したが、私は軽く手を振って強がった。それは、彼女にとっても必要な物。しかしそれ以上に強がる事で自分自身を奮い立たせようとしたのだ。
今一度身体中に力を入れて、歩き始める。
しばらくして、滝が響かせる瀑声が一層大きくなった頃、濃霧の中に二つの人影が現れた。
 
「花塚くんっ!」
 
小又小滝の上流は、やや拓けた場所だった。無舗装で、転落防止の柵も設けられていない。真横から見える滝が轟音を鳴らしていた。一昨日の海水浴で日焼けした肌に、細かな水を含んだ風が吹きつける。
釈迦郡は地面に両膝を突いて、こちらを見上げていた。体勢からして両手を背中側で拘束されているらしい。恐らくは両足も。
そして、その隣に微笑みを湛えた安良城が居る。
 
「あらら、随分と格好良くなっちゃって…… 車で来る事は分かっていたからパンクさせるつもりで釘を撒いただけだったんですけど、まさか山肌と衝突しちゃうなんて。でも、生きてて良かったです」
 
可笑しそうにそう言ってのけた彼女の手には、ナイフが握られていた。