もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
 
「良い天気だね」
 
ベンチに腰掛けている釈迦郡がふいに言葉を発した。いつもと変わらない楽観的な口調と、楽観的な話題…… を装っている。
梅雨明けも間もなくというこの時期は、どこで息を吸っても一定以上の清々しさが約束される。ぼんやりと目の前に広がる景色を眺めると、何もかもを投げ出したくなるような開放感に包まれた。
私達は今、公園に居た。二條や安良城と遭遇する事となった、あの広場だ。
 
「良い天気ですね」
 
私も、なるべく同様のトーンで応えた。そうする事でしか、正気を保っていられないのが互いに解っていたから。
つい先程、私達の眼前で凄惨な交通事故が起きた。野次馬が壁になって釈迦郡は直接それを――死体を目の当たりにしてはいないと思うが、それでもその衝撃は計り知れないものがあるだろう。
人間というものは、あそこまで容易く命を落とすのか。あそこまで容易く命を奪えるのか。
目良は、私が殺したようなものだった。軽はずみに情報を与えたりしなければ、狙われる事もなかったのに。恐らく、あの群がっていた野次馬の中に紛れ込んでいたのだ。烏合之衆の構成員が。
安良城はどこまでも周到に事を進めている。学校に行くと言って別れた私が比売宮や百雲の出欠を確認しないわけがない。欠席していると判れば、彼女達の自宅に向かわないはずがない。そこを付け込まれた…… いや、誘導されていた。
 
『じきに警察が比売宮葛の自宅に行くと思います』
 
あの時点で、楔を打ち込まれていた。比売宮のほうへ向かうように。実に初歩的で、効果的な心理誘導。
思わず、両の掌で顔を覆った。
最も警戒していた事なのに。
驕りがあった。私の得意分野…… この土俵ならば後れを取らないと思っていた条件で、負けた。踊らされた。相手は同世代。だが、ただの同世代ではない。容の、あいつの教育を何年も受けた人間。さらに殺人の経験もある。一般人とは根底から異なっている。倫理観も死生観も違う。
そんな人間が次の標的に定めたのが、藤野映と幸生哲学。鍵となるのは、幸生学文だろう。幸生哲学の父であり、藤野映のストーカー。私はそこを利用して両者を守る策を練っていた。しかし、本当にそれで合っているのか? 私が余計な事をすれば、第二、第三の目良を生みかねないのではないか? 駄目だ。きっと、こうして苦悩する事も安良城は考慮している。公衆電話を使っての牽制が効いてしまっている。
もう、何一つとして妙案が浮かんでこない。
それでも、考えろ。考えなければ徒に死者が増えるのだ。
その時、髪の毛に何かが触れた。
覆っていた手をわずかにずらして、隣を見やる。釈迦郡がこちらに手を伸ばして私の頭を撫でていた。母親が我が子に対して行うような、慈しみのある手つきだった。
 
「……あの、なにを」
 
「また圧し潰されそうになってる」
 
数日前の『精神病態医学研究所』の病室での会話が思い起こされて、言葉を呑み込んだ。代わりに別の言葉をこぼした。
 
「今日は、遊ぶような余裕もありませんよ」
 
釈迦郡は撫でる手を止めず、可笑しそうに口元を歪めた。
 
「流石のウチもそこまで無神経じゃないよ。でも、そうだなあ…… また日曜日は空けておいてよ」
 
「日曜……? また海ですか」
 
訊ねると、もう片方の手を振った。否定するように。
 
「次の日曜日、七月十八日に繁華街のほうでちょっとした夏祭りが催されるんだよ。花火が上がるわけじゃないし、神輿も出てこないけど、出店が繁華街に並ぶの。それに行こうよ。また二人で。文化祭の前夜祭…… 前々夜祭? だと思ってさ。はい、決定」
 
七月十八日。行けない事はないだろうが、その日には、一体どれだけ状況が悪化してしまっているのか想像したくもなかった。たった一日で…… いや、百雲の処分とやらが昨日だという安良城の発言を信じるならば、昨日と今日で近しい人間が一気に三人も死んだ。さらに二人の人間が標的にされている。ひょっとしたら、釈迦郡も遠くないうちに……。
 
「……折角ですが」
 
「ダメでーす。これも決定したから覆せません」
 
力なく苦笑する。このやり取りを、また再現する事になろうとは。しかし今回ばかりは本当に応えられない。釈迦郡が巻き込まれる可能性は限りなく高い。だから、彼女ともここで別れるべきだ。
そう思っていると、一転して釈迦郡は真面目な表情を見せた。
 
「解ってるよ。比売宮、だっけ? 花塚君が警察に訊いてた人の名前。クラスメイトなんでしょ? そのクラスメイトの身に…… しかも、今度は顔見知りっぽい警察官が目の前で…… 花塚君は何も言わないけど、解ってる。君の身の回りで途轍もなく嫌な出来事が立て続きに起こってる。これは、偶然じゃないんだよね?」
 
「……偶然ですよ。不幸は続くものでしょう? だからシュカさんは、気にせず学校に戻って」
 
「また強がってる」
 
図星だった。水主のような事を言わないでくれ、と憎まれ口を叩く気にもなれなかった。
真っ直ぐに見据えてくる釈迦郡の瞳に耐えきれず、私の視線はゆるゆると彷徨った。
 
「何を遠慮してるのさ。ウチは、花塚君の為なら何でもするよ」
 
「何故、そこまで。危険だという認識はあるのでしょう? これ以上私に関わってはいけない」
 
「ウチはそんなに頼りない?」
 
そんな事はない。同行を願ったのも、元を辿れば一人では挫けてしまいそうだったからだ。予想される悪夢を目にして、まともで居られる自信がなかったから…… だからこそ、釈迦郡に縋った。あまりにも軽率だった。関わらせたのは、私だというのに。
口の中に鉄の味が広がった。知らず知らずの間に、唇の内側を軽く噛みちぎってしまったらしい。
情けなさに何も言えずにいると、釈迦郡は、私の頭を撫でていた手に力を込めて、ぐいっと顔を引き寄せた。目の鼻の先に、彼女の顔がある。陽射しを受けて眩く輝く金色の髪の隙間から、硝子のような黒い瞳が覗いていた。
 
「花塚君は、ウチの事をどう思ってる?」
 
吐息が頬を撫でた。
 
「どう、とは……」
 
「好き?」
 
時間が止まったかのような感覚だった。いよいよ、ついに踏み込まれてしまったかという後悔が、じわじわと手や足の爪先から侵食していく。
恋人ごっこは終わりだ。釈迦郡がどのような反応を見せるか分からない。だが、洗いざらい話して私の下から去って行くのなら、むしろ好都合やもしれない。
言葉の吟味を終えて、いよいよ伝えようと口を開き掛けた時、すぐそこまで迫っていた彼女の顔が、ほんの数センチ…… さらに近づけられた。
唇に、柔らかく、温かなものが触れた。粘り気と濡れた感触。吐息。放心している私を余所に、釈迦郡の舌先は口内を這って、傷口をなぞり、滲んでいた血液を拭い取っていくと、赤い糸を引きながら静かに離れた。
髪に添えられていた手が頬へと滑り、私の口元を優しく拭った。
そして数秒の間があって、我に返ったのだろう。消え入りそうな声が聞こえてくる。
 
「……ごめんなさい。つい、その……」
 
色素の薄い白い頬が瞬く間に朱に染まっていく。私も適切な反応が分からず、気の利いた言葉一つ掛けられないでいた。やがて羞恥に耐えられなくなったのか、釈迦郡がベンチから立ち上がって無理に声を張り上げる。
 
「だから…… だからっ! そういうこと! 好きだから何でもするの! ふ、普通でしょ、これくらいっ!」
 
「そう、ですね。それなら仕方ありません。この後も、ついてきてもらえますか」
 
私も同様にベンチから重い腰を上げて、問い掛ける。すると釈迦郡はまたも敬礼して応えた。
 
「どこまでも」
 
―――
 
午後三時。繁華街の隅で営んでいる『幸生生花店』は決して良い立地とは言えないものの、他に競合店がなく、いつもそれなりの客足を保っている。
その日も、開け放たれたシャッターの奥には色とりどりの草花が店内に並んでおり、盛況の…… 痕跡だけがあった。
 
「一足遅かったか」
 
恐らくはバケツの水の入れ替え作業中だったのだろう。床には無造作にホースが落ちていて、その先からは未だ透明な水が流れている。
私はそのホースの先を辿って、店の外に設置してある蛇口を閉めた。念の為に店外・店内を見渡して、住居スペースのほうも見える範囲で確認したが、幸生学文の姿はない。
仕事中に拐かされた、と考えるのが妥当だろう。白昼堂々、大の男を誘拐する芸当ができるとは普通ならば思えないが、相手はもう、普通ではない。指示があれば誰の命であろうと奪えるし、自分自身の命すらも投げ出すような連中。繁華街の隅という立地が災いして騒いでも…… いや、ひょっとしたら学文は騒ぐ事もなく従ったのではないか。彼がどれだけ烏合之衆の内情を知っていたのか分からないが、「哲学を人質に取った」と出鱈目を言えば、通常の感覚なら従わざるを得ない。しかも彼はストーキングを行っており、警察には頼れない。脅迫する相手としては申し分ないわけだ。
 
「幸生のお父さん…… どうしたのかな」
 
何も知らない釈迦郡が不安げに呟く。
学文の安否は、正直なところ保障できない。哲学は烏合之衆の構成員なのだから、その身内に手を掛けるような真似は…… と考えるのは希望的観測が過ぎるだろうか。
 
「……甘く見ていました。連中が、ここまで直接的な手段を選択するとは思っていなかった。私だけではどうにもならない。連中の関係者である哲学の協力が要る。ここで、彼女が帰ってくるのを待ちましょう」
 
「連中? 関係者? 何が起こってるの? 幸生が関わってるって事?」
 
釈迦郡の口から当然の疑問が次々と溢れてきた。今の今まで空気を読んで訊ねなかったのだろう。だが、それも限界のようだった。
 
「哲学が帰宅したら打ち明ける予定でしたが、それまで時間もありますし、少しだけ話しましょうか。非現実的な話で信じられないやもしれませんが…… 私としても信じたくありませんが、幸生学文の失踪は、今この街で起こっている惨劇の一端。私のクラスメイトである比売宮葛と、先程の警察官。そして百雲往子は殺されたのです。事故ではありません。偶然でもありません。百雲往子に関してはまだ確認していないので、恐らくですが」
 
「殺され…… え? 殺されたって、どういう……」
 
「この街には暴力団をバックに持たない独立した犯罪組織が存在しているそうです。警察の生活安全課では『烏合之衆』と呼称されているのですが、聞き覚えは?」
 
私は居なくなった家主の許可も得られないままに、店頭のシャッターを下ろして、店内と居住スペースを隔てている敷居に腰を下ろした。
 
「ないけど…… 数年前から途端に治安が悪くなったって話は聞いた事があるよ。お店に来てた人がそんな噂してるのを、たまに耳にしてた。その犯罪組織が、幸生のお父さんを? でも、なんで……?」
 
釈迦郡もすぐ隣に座る。
 
「正確には、連中の狙いは娘の幸生哲学。私はそれを阻止する為に、学文の協力を仰ぐ為に、ここへ向かったのですが、この有り様です。先手を打たれました」
 
学文の行為に関しては伏せておいた。映による証言と物的証拠しかない現状では、第三者である私には断定できない。不確定な情報は混乱を招く。
 
「幸生が狙いって…… だったら、学校に戻ったほうが!」
 
釈迦郡は慌てふためきながら、意見した。
 
「恐らく、問題ありません。哲学は無事に帰ってくる」
 
「でも相手は幸生のお父さんを攫うような奴らなんでしょ?!」
 
「大丈夫です」
 
不思議と自信があった。衆人環視のある中で警察官の命を奪うような無軌道な連中だが、あれは安良城としても想定内の事態ではあるものの、可能ならば切りたくなかったカード…… 想定外の出費ではあったはず。だから私が核心に迫るような情報を与えるその時まで、行動には移さなかった。初めから『本気だ』と牽制する気なら、私の行動如何を問わず、さっさと始末しただろう。
そしてもう一つ。ファストフード店で安良城は、藤野映と幸生哲学が次の標的だと宣言した。何故、あえて宣言したのか? 何故、比売宮葛と百雲往子は事後報告だったのか? 推測の域を出ないが、既に殺された二人は見せしめであり、次に殺される二人は私の行動を制限する為の人質。故に、おいそれと殺すわけにはいかない。少なくとも、今日は大丈夫。
 
「花塚君がそこまで言うなら、信じるけど……」
 
釈迦郡は自分自身を落ち着けるように、軽く深呼吸をして俯いた。その様子を横目で窺う。
今、ここには私と釈迦郡の二人しか居ない。シャッターを閉めているので客が訪れる事もない。
本人に告げるわけにはいかないが、私の中ではどうしても捨てきれない可能性があった。
釈迦郡宗日が内通者という可能性。
彼女が学校で同行を申し出た時から、その疑念は首をもたげていた。目良殺しの件についても、都合良く野次馬の中に構成員を紛れ込ませていたと解釈しているが、本当の意味で私の一挙手一投足を見ているのは彼女なのだ。何らかの手段をもって安良城と通じていた場合…… たとえば、携帯電話。
 
「シュカさん。携帯電話はお持ちですか」
 
何気ない態を装って訊ねてみる。釈迦郡はかぶりを振ったが、学校からずっと手に提げている鞄から似たような端末を取り出した。
 
PHSならあるよ。通信料金が気になっちゃって、あんまり使わないけどね」
 
PHS。その分野に疎いので携帯電話と区別つかないが、通信方式とやらが違うのだったか。駄目だな。興味のある事ばかり頭に詰め込もうとするのも悪い癖だ。時流に乗りはしないまでも、興味のない事も多少は勉強しなければ。
 
「番号を教えてもらっても?」
 
「花塚君も持ってるの?」
 
「私のはプリペイドの携帯電話ですが、PHSにも繋がりますよね?」
 
そう訊くと、釈迦郡は形容し難い複雑な笑みを口元に浮かべた。
 
「繋がるけどさ。それなら、もっと早く聞いてよ。花塚君の性格だと持ってなさそうだからウチも聞かなかったのに」
 
「お察しの通り、携帯電話を携帯した事は一度たりともありませんよ。使った事も」
 
使いそうになりかけたが、幸か不幸か未遂に終わった。もしあの時、安良城と連絡を取っていたなら事態は今より好転していたのだろうか。それとも悪化していたのだろうか。
 
「そうなの? それなら…… ううん、何でもない。ちょっと待ってて。ノートに書いて渡すから」
 
釈迦郡はPHSを仕舞って、代わりにノートと筆記用具を取り出そうとしたので止めた。
 
「口頭で構いませんよ」
 
「そう?」
 
050から始まる十一桁の番号を教えてもらった。代わりに、私の番号も伝えておいた。使う機会は訪れないやもしれないが。
 
「じゃあ、毎日電話するね」
 
「料金の話はどこに行きました」
 
「花塚君は別腹だよ」
 
「私はデザート扱いですか」
 
昨日、釈迦郡の家が営んでいるレストランでの出来事が想起された。姉である宗年の口振りからして、釈迦郡は相当な甘党で、いつも大量のデザートを食べているようだ。
 
「メインディッシュでもあるけど、デザートでもある…… みたいな」
 
「結局、食べられてしまうのですね。公園のベンチでも食べられかけましたし」
 
「なっ、そ、それ、それを掘り返さないでよっ! 今でも恥ずかしいんだから!」
 
再び、その頬が赤みを帯びていく。
もう少しだけからかってやりたくなる邪心が芽生えたところで、いよいよ目当ての人物が私達の前に現れた。
 
「む。花塚、に釈迦郡…… どうしたんだ、二人して」
 
鞄を手に提げた哲学が店頭に佇んでいる。
良かった。
釈迦郡に対して大丈夫だとは言い切ったものの、不安にも思っていた。こうして無事に帰って来てくれて。となると、もう一方の映の身が気掛かりになるが、今は彼女を信じるしかない。
 
「哲学。今日、百雲往子は登校しましたか?」
 
「百雲? いや、来てないが」
 
そうか。そうか…… 私は、百雲往子を救えなかったか。たすけて、と手を差し伸ばされていたのに。
心に影が差していくのが解った。
映。やはり、私はお人好しではなかったよ。偽悪者ですらなかった。
私は溜息交じりに告げた。
 
「烏合之衆が動き回っている」
 
哲学の顔が強張った。そして私の隣に居る釈迦郡に視線を移す。
 
「昨日と今日で三人の人間が死んだ。私の知らないところでは、もっと死んでいるやもしれない。たとえば、幸生学文とかね」
 
「父さん? そういえば、父さんはどこに」
 
私は居住スペースを振り返って、そこにある時計で時刻を確認した。文字盤は午後五時過ぎを示している。
 
「恐らく拉致されたのでしょう。私達は二時間以上前からここに居るが、戻ってくる様子もない。主犯格は判っています。安良城遍。哲学には、解りますよね?」
 
「安良城が? 何故、あいつが父さんを…… いやそれよりも…… そこの」
 
哲学は、どうしても隣の釈迦郡が気になるようだった。事情を知らない人間が居るのは拙いと思っているのだろう。
 
「シュカさんには洗いざらい話しましょう? 私も、学文に関して話しておかなければならない事があります。哲学にも色々と思うところはあるでしょうが、今は時間が惜しい。知らぬ存ぜぬを貫き通せる段階は、もうとっくに過ぎてしまっています。烏合之衆について、知っている事を教えてください」

回りくどい言い方を避けて単刀直入に切り出すと、哲学は重々しく口を開いた。

「……船頭」

「船頭?」

「烏合之衆の仲介役を担っている人物だ」

梅雨明けは近い。間もなく凍えるような夏がやってくる。
そんな思いを胸に湛えながら、敷居から立ち上がって哲学と向き合った。