もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話も終わりにしよう。
小又大滝の一件から一週間が経った。
あの日、映は逃げる事を選んだ。自らの命を絶つ事で。
私は未だ上手く整理できずにいる。
整理できないまま、穏やかな時間だけを渡されてしまった。肝心の拓かれた文化祭は…… まさに今日、私の居ないところで滞りなく進められている事だろう。
とりあえず、順番に事実を並べていこう。
まず私は、大学病院の集中治療室で目を覚ました。最初に見えたのは、事務的に仕事をこなしている看護師の姿。その看護師は私が意識を取り戻した事に気づいて、喜びの声をあげた。次に血圧や体温、皮膚感覚等の異常について一通り確認をした。違和感はないかと訊ねられたので、「喉が渇いた」と答えたが、水が用意される事はなかった。
次に現れたのは医者だった。医者は看護師と同様の検査を繰り返した後、結果だけを簡潔に告げた。
頸椎捻挫、肋骨の不全骨折が二箇所 右前腕の一部欠損、腎外傷、打撲…… 幸運にも命に関わるような外傷は避けられたらしい。だが、問題は血液のほうだった。出血性ショック死寸前で搬送された私は、ポンプ式の急速輸血装置を用いての輸血が必要な状態だった。血液の適合テストも満足に行えなかった為に、一か八かの輸血となったのだとか。その上で、こうして生きているという事は、私はまたしても運を味方につけたようだ。もはや悪運と言う他ない。
記憶は曖昧になっている。覚えているのは、映を抱えて必死に岸まで泳ぎ切ったというところまで。岸辺の岩にへばりついていたところを哲学と釈迦郡に引き上げられ、程なくして到着した救急隊員に運ばれる…… という流れである。
哲学も事故に遭っていたので念の為にと精密検査を受けたようだが、本人が言っていた通り、奥歯が一本折れる程度で済んでいた。骨にも脳にも異常はなく、院内の形成外科で軽い処置を施されただけで入院もしていない。釈迦郡にしても同様に無事だ。
そして、映…… 彼女は一時的に心臓が停まっていた。救急隊員のおかげで辛くも蘇生したものの、一歩遅ければ命を落としていただろう。私と一緒に大学病院に搬送されて意識不明のまま検査を受ける事となった。結果、腓骨と呼ばれる膝下の骨折以外に特筆すべき怪我や異常は見つからず、じきに目を覚ますだろうと診断された。
しかし、そうはならなかった。
転落から一夜明け、再び一日が終わる時間になっても彼女は意識を取り戻さなかった。脈はある。息もしている。脳波にも異常はない。なのに意識を取り戻さない。彼女の主治医はしきりに首を捻っていた。
彼女はそれからも目を覚まさず、眠り続けていた。そして私の退院が許された五日目の朝…… つまりは一昨日、ようやく瞼を開けた時、以前の彼女は死んでいた。
「言葉は覚えている。生活に関する知識も忘れていない。だが、自らに関する記憶のすべてが失われている。別人のように…… いや、本当に別人となってしまったわけだ。奇しくも、お前が選択肢の一つとして挙げていたような結果になった」
哲学は改めてそう語った。
映は過去の事も、私の事も、何一つ覚えていなかった。残っていたのは、善良な女性警察官としての側面だけ。彼女が所属している警察署はそこを利用した。小又大滝での騒動は、『凶行に走った女子高校生を懸命に止めた勇気ある警察官』という事になっている。それが奏功して…… と言うべきなのかどうか私には分からないが、彼女は記憶と引き換えに安全を手に入れた。私が“オーナー”と呼んでいた人物から刺客の一人くらいは送られてくるやもしれないと思っていたのだが、杞憂に終わった。
面倒だったのは、私と映の関係だった。映は私を覚えていない。しかし、後見人なのは変わらない。初めはどのように接するか悩んだが、その善良な女性警察官は、「身寄りのない私を受け入れた」という私の与太話を信じた。信じて、謝罪してきた。
『迷惑を掛けて、ごめんなさい。でも、ちゃんとあなたの親代わりになれるよう努力するから』
と、穏やかな微笑みを浮かべながら。
私はすぐに映の家に置いてある私物を処分した。衣服も、刃物も、包帯も、枯れた藤の花も、すべて。そして合鍵を郵便受けに入れて、彼女の目に触れない場所で生きていく事を選んだ。
映と結んだ後見人制度も、然るべき手順を踏んでから家庭裁判所によって解任してもらった。記憶を失くしたという事実は後見に適さないと看做されるに充分な理由だったようだ。
「どうやら、能仲のような逆行性健忘症とも違うようですね」
「能仲?」
「私の友人です。それは兎も角、文化祭は? 出席しなくて良いのですか」
「ああ。引っ越しの準備が残っているからな」
私達は通学路の途中にある広場のベンチに腰掛けていた。哲学も、色々と大変だったらしい。
父親である学文は失踪扱いとなった。それによって煩わしい諸々の手続きに追われて、関東に居ると言う親戚のもとに身を寄せるのだとか。今週中にも引っ越し、転校するそうだ。
「花塚。お前はどうするんだ? あの人から離れて、これから」
「私も準備しますよ」
両の掌に目を落とした。
わずかに左側の視界だけ歪んでいる。いつからか、焦点が合わなくなった。老眼が発現するには早いと思うのだが、滝壺に落ちた影響だろうか? いや、違うな。
これは呪いだ。
掌にはまだ、感触が残っている。容の痩せ細った首の感触が。
私は一度だけ拳を作って、強く握り込んだ。あふれないように。こぼさないように。そして押し寄せていた激情が去っていくのを感じながら、ベンチから立ち上がり、最低限の物しか入っていない鞄を手に取った。
「今から一年後か、二年後…… 準備に準備を重ねて、私が高校生のうちに、必ず」
必ず、殺してやる。
「花塚……」
眉尻を下げて心配そうに覗き込んでくる哲学を、私は見つめ返した。
彼女は、言わば案内人だった。別の世界へと繋がる扉へ導いてくれる案内人。期間にしてみれば、ほんの二週間程度…… だが私はその扉を通して、色々なものを見て、色々なものに触れた。
その扉は閉ざされた。二度と開く事はない。開くつもりもないが、もしまたその扉を前にする事があれば……。
「では、お元気で」
私は哲学に笑い掛けてから、広場を後にした。
そうして街の中心部から離れていった。釈迦郡と予定していた夏祭りとやらには行けなかったが、自治会による後片付けが済んでいないのか、それとも次の祭りでも控えているのか、街にはまだ提灯が幾つもの提がっている。時に陳腐な装飾だと理解しながらも、時に幼稚な行事だと自嘲しながらも、結局は誰もがその雰囲気に酔い痴れる。入院さえなければ、私もそのうちの一人となっていただろうか。
学生服を着ている少女のグループとすれ違った。仲睦まじく手を繋いでいる親子が笑い合っていた。文化祭のパンフレットを片手に今後の予定を話し合っている男女の姿があった。
誰もが、ここに殺人犯が居る事を知らなかった。誰もが、ここに未熟な毒が漂っている事を知らなかった。
私はワイシャツの下に巻き付けていた医療用コルセットを緩めて、さらに南へと足を向けた。
やがて喧噪も遠ざかっていく。景色は、ひっそりとしたものに変わっていた。広大な平屋が軒を連ねている住宅街に差し掛かり、その隙間に埋もれるようにして教会が建っていた。天を衝くような三角の屋根に十字架が高々と掲げられている。東方正教会の教会…… 聖堂と言うらしいが、生憎と信仰など持ち合わせていない。何か思う事があったわけでもない。しかし、ここに用事があった。
境界の敷地は周囲よりも一段高く、正面には短い階段が設けられている。その段の中央に、道を分かつようにして一体の石像がひっそりと佇んでいた。聖母の像。雪よりも白いその手には小さな赤子が抱えられていた。赤子は母の胸に頬を預けて、幸せそうに瞼を閉じている。母もまた、その小さな頭に頬を寄せて眠るように瞳を閉ざしていた。
私に欠けているものが、そこにあった。
「――ごきげんよう。あなたは、何を求める羊ですか?」
背後から、無機質な声が浴びせ掛けられる。
現れたのは、真っ黒なスカプラリオに身を包んだ修道女のような人間。長い茶色の髪に、黒い瞳。底の薄いサンダルを履いているにもかかわらず、百八十を超える私が見上げるような背丈…… 二メートルに届いているやもしれない。
井伊谷奧乃(いいのや おうの)。この人物について知っている事は少ない。
この街に移り住むようになって、一日目の昼間。最寄り駅の前で信徒の勧誘を行っている井伊谷に声を掛けられた。
『ごきげんよう。あなたは、何を求める羊ですか?』
それが決まり文句だった。ただ、大柄の男とも女ともつかない人間に誘われてついていく者など居るはずがない。私もそうだ。無視して通り過ぎようとすると、肩を掴まれた。尋常ではない力で。
『あなたは特別見込みがあります。お望みなら、すぐにでも洗礼を』
田舎から出てきて早くも変人に目を付けられた、と思った。
その後、私がどのようにして断ったかまでは覚えていない。この教会の住所と、井伊谷の名前を記してある名刺を渡された事だけしか記憶にない…… いや、それすらも記憶になかった。思い出したのは一週間前だ。きっかけとなったのは、容が見ていたスナッフフィルム。
あの映像に移っていた解体の請負業者…… 鮮明に映っていたわけではない。映っていたのはシルエットのみ。大柄な人間だと思った。そして一週間という穏やかな時間の中で、何度も記憶の擦り合わせを行った結果、あれは井伊谷奧乃だという結論に達した。
「……洗礼とやらを受けに」
長い前髪の隙間から覗く双眸に、愉悦が浮かぶ。
また一つ…… 扉が開かれるような音が聞こえた気がした。別の世界へと繋がる扉が。
それから、これもまた呪いの影響と言うべきか…… 大学生になってから私の目にこの世のものではないものが映るようになるのだが、それは別の機会に話そう。
それから、これもまた呪いの影響と言うべきか…… 大学生になってから私の目にこの世のものではないものが映るようになるのだが、それは別の機会に話そう。