大学生時分の話をしよう。
その日、私は朝から札幌の東警察署に足を運んでいた。明け方近くに妹が誰かと喧嘩をして補導された、という電話が寄越された為である。まったくもって訳が分からないが、電話番号は確かに警察署のものだったので、無視したくてもできない状況だった。
姉と兄は居ても、妹など居ない。私が末なのだ。両親は既に死亡している。新たに弟だの妹だのできるはずもなかった。
では、東警察署とやらで捕まっている“妹”は一体誰なのか。
嫌な予感が胸中に去来しつつも、東署の自動ドアを通り抜けると、不意に声を掛けられた。
 
「おい」
 
玄関脇の観葉植物の前で煙草をふかしていた背広姿の男が、厳めしそうな表情で柄づいてくる。
 
「百九十のタッパに、傷跡…… テメェが花塚って野郎か」
 
恐らくは警察官の一人なのだろうが、身に纏う雰囲気はヤクザに近かった。恐縮しながら頷くと、その男は端的に自己紹介をした。
 
「捜査一課で強行班係の係長をしてる波良(はら)ってもんだ」
 
波良と名乗った男は煙草を公衆灰皿に投げ捨てると、「電話は誰からだった」と訊いてきた。本人確認のつもりなのだろうか。
 
「生活安全課の田町という方から」
 
波良はすぐに玄関の真正面に位置する受付に声を掛けた。
 
「おい。田町はどこだ」
 
「ええと、まだ第二かと思われます」
 
若い警察官が起立して答えると、波良は私に向かって、「ついてこい」とだけ言って我が物顔でフロアを突き進んでいく。
薄暗い廊下を通って、取調室と思しき部屋の前に立つ。間を置かず、「黙り込んででいるだけじゃ、こっちも困るんだよなあ」という声が聞こえてきた。
波良はノックもせずにドアを開け放って、中に入った。私もそれに続く。室内には若い男女が一人ずつ…… それともう一人。若い男のほうは波良と同様の背広姿だったが、疲弊したように背中を丸めている。
 
「あ、波良係長」
 
その若い男は横目で波良を視認すると、飛び跳ねるように椅子から立ち上がった。もう一人の若い女性警察官は最初から立ったままだった。二人とも直立不動の姿勢を取って、敬礼する。
殺風景な取調室の中には、机が一つと、パイプ椅子が二つ。そのうちの一つに、不服そうな面持ちの少女が座っていた。その視線がこちらに向けられるや否や、飛び上がる。
 
「お兄様っ!」
 
その弾んだ声に、私は眩暈がした。案の定だった。
芹沢名緑。通称“緑(みどり)”という、若干十六歳の子供。
先日、私の妹を名乗って現れた少女だった。実際には妹でも何でもない。彼女の実父が昔、私の母親に入れ込んでいたという不確かな話を基に、勝手に彼女が兄妹だと思い込んでいるだけだった。
 
「来てくださったのですね!」
 
いきなり抱き着こうとしてきた緑を、咄嗟に躱す。勢い余って壁に激突しそうになった彼女は軽やかに身を翻して、頬を膨らませた。
緑は、相変わらずの派手な赤い髪だったが、今日はツインテールではなかった。白のノースリーブに、同じく白のカーゴパンツ。よくよく見てみると、カーゴパンツの膝の辺りに血液のようなものが付着している。
 
「田町。これ、何をやらかしたんだ」
 
「それが」
 
波良を前にして緊張気味の田町警察官は、事情を説明した。
彼の話によれば、「緑が繁華街で友人達を待っていたら、酔っぱらった三人の男に絡まれた」との事だった。そのうちの一人に腕を掴まれて強引に連れ去られそうになったので、抵抗していると、周囲で見ていた人間の通報によって駆け付けた田町警察官に捕まった…… という流れらしい。三人の男は警察がやってくると逃げてしまったようだ。
 
「男三人に絡まれて、一人で追い払ったのか…… しかも無傷で」
 
私は呆気に取られながら、緑を眺めた。見たところ、掠り傷ひとつ付いていない。
 
「取るに足らない方々でしたので」
 
緑はそう言って微笑んだ。彼女も何らかの心得があるのだろうか。
それとなく、身近な人物で想像してみる。鳥居なら可能やもしれない。翼や小羽は難しそうだ。武道を修めているとは言っても、人数差を覆すのは容易ではない。対多数に必要なのは技術ではなく経験だ。どこからどのように崩していくのか、というのが肝要になる。
つまり、緑はそういう事態に慣れている。人目を惹く姿だ。邪な思いで近づいてくる者は少なくなったと思うが…… それにしても、である。
 
「これの身元は」
 
「芹沢名緑、十六歳。高校は行っていないと。父親は芹沢利雄(せりざわ としお)との事ですが、連絡先を言わんのですよ。ようやく聞き出せたのが兄の連絡先だったので、身元引受人として来てもらって」
 
「芹沢利雄だって?」
 
波良の厳めしい顔つきが、一層険悪になる。
 
「テメェ、それ聞いて何とも思わなかったのか」
 
「え、と…… それは」
 
困惑しきりの田町の胸元を、波良は軽く小突いた。
 
「芹沢利雄っつったら今の源清田会の会長の名前じゃねえかよ。それくらい頭に入れとけ」
 
「源清田会の」
 
事の重大さを理解した田町の顔から見る見るうちに血の気が引いていく。傍らの女性警察官も流石に動揺の色を見せていた。
 
「おい、田町。命拾いしたな。もしこの娘が素直に父親の連絡先を吐いてたら、そのまま源清田会の会長に、『おたくの娘さんが』ってクソみてえな電話をするところだったんだぞ…… 仕方ねえな。この件はこっちで預かる。お前らは行け」
 
「は、はい。すみません」
 
田町は小突かれた胸を擦りながら、女性警察官と共に取調室を出て行った。
結局、緑は父親の芹沢利雄ではなく、組の誰かと連絡を取って迎えにきてもらうという事で落ち着いた。
私達はその迎えが来るまでの間、署内の裏手にある休憩スペースで座り込んだ。波良の姿はない。彼は、「実の兄妹かどうかは関係ねえ。テメェが見張ってろ」と言い残して事後処理に移ってしまった。休憩スペースは駐車場に面したバルコニーのようなところで、沢山の警察車両が停まっているのが見えた。背の高い手摺に両肘を突いて、忙しない街並みを眺めていると、緑が口を開いた。
 
「誠に申し訳ございませんでした、お兄様」
 
振り返ると、ベンチに座っていた緑がバツの悪そうな表情で俯いている。
 
「構わないよ。君にも、やむにやまれぬ事情があったのだろう。庇わなければならないような事情が」
 
緑がハッと顔をあげる。
やはり、十六歳の少女が男三人を相手に大立ち回りを演じるという話は無理がある。仮にそれが事実だとしたら、彼女の衣服にはもっと大量の血液が付着していなければならない。そのうちの誰かに向かってくる意思を挫くほどの負傷をさせなければならない。にもかかわらず、緑の衣服には膝にわずかな血の跡のみ…… 説得力が足りなかった。
となれば、考え得る可能性としては緑の他にも誰かが居合わせており、その人物が撃退した。そしてそれは警察に打ち明けられない立場の者。しかしヤクザではない。彼女とて、養女とは言えヤクザの世界で育ってきた。確かにヤクザが一般人に手を出したとあれば問題になるだろうが、わざわざ庇うまでもない。塀の中で多少お勤めしてもらって済むだけの話だ。
畢竟するに、それが許されない人物。明るみになってはいけない人物。
緑の人間関係など知らない…… いや、そもそも緑のひととなり自体さほど知らないが、いずれにせよ、面倒事に発展するのは御免である。余計な詮索はしない。
 
「お兄様は」
 
緑は両手を合わせて、逡巡するように時間を掛けてから訊ねてきた。
 
「クスリに手を出した事は、ございますか」
 
「……クスリ。たとえば?」
 
大麻、コカイン、ヘロイン」
 
思わず周囲を見回す。天下の警察署内で交わすには物騒な話題だった。不用意に答えて逮捕などされようものなら、笑い話にもならない。
 
オピオイド鎮痛薬は大好物だね。怪我が絶えないから」
 
「怪我…… だとしたら」
 
緑が独り合点するように頷いて、こちらを見つめた。
 
「お兄様。わたくしには、その、大切な幼馴染が居りまして…… ええと、何と申し上げたら良いのか」
 
緑は慎重に慎重を重ねて言葉を選ぶ。それを、黙って聞いていた。
 
「幼馴染は一種の興行…… エンターテインメントとして、格闘技を披露する事で生計を立てているのですが、わたくしの知らない間に、その…… いえ、申し訳ありません。忘れてください」
 
そこで緑は一方的に話を止めた。言い出せなくなったのではなく、駐車場に黒塗りのセンチュリーが現れたからだった。それが駐車場の片隅に停まると、運転席からダブルスーツの小柄な男が飛び出してきて、小走りに建物の中に入っていった。それから五分と経過せずに、私達の居る休憩スペースに姿を見せる。
あの日、緑を遠巻きに警護していた男だった。
 
「お嬢。勘弁してください」
 
男は焦燥した顔で肩を落とした。次いで、こちらに頭を下げた。どうやら今回は目を離した隙の出来事だったらしい。
 
「ではまた、お兄様」
 
日頃から苦労していそうな男に連れられて帰っていく緑の面持ちには影が差していたが、繕うように無理やり笑って見せていた。
 
『これから札幌は間違いなく荒れる。浅葱組の寝返りは、札幌を牛耳る源清田会の喉元に突き立てられた刃物。警察も止められねえ。山ほどの死体が生まれる』
 
ライター稼業をやっている男――戸野本錦二のせいで否応なく生じてしまった、朧気だった不吉な予感が、何となく輪郭を持ち始めている事を自覚していた。