大学生時分の話をしよう。
その店は、札幌市の繁華街から程近い大通りに面していた。
映画館やゲームセンター、大型商業施設などが側にあって、平日の昼間にもかかわらず、若者達で溢れ返っている。
 
「――で、今日は一体何の用だ? また花嚴葦牙ゆかりの地でも巡るのかい」
 
私は隣で澄ました顔をしている翼を見やった。桜色のブラウスにフレアスカートという恰好…… 似合わないという事はないものの、紫と金という奇抜な髪色のせいで微妙に浮いている気がした。あえて訊かないが、彼女とて何らかの拘りがあってツートンカラーに染めているのだろう。
 
「今日はこのお店で服を買いましょう」
 
「誰の」
 
「あなたの」
 
改めて、傍らの店を眺める。薄暗くて、どこか妖しい雰囲気のアパレルショップだった。看板には洒落たフォントで『etude』とある。フランス語だ。意味は確か“習作”だったはず。
それにしても、服…… 服か。
 
「悪いが、服なら間に合っていて」
 
と話し掛ける私を置いて、翼は店内に足を踏み入れてしまった。仕方なく私も続く。こじんまりとした店で、奥のカウンターで居眠りをしている女性が目に入った。恐ろしい事に立ったままで。周囲を見回したが、店員と思しき人間は彼女しか見当たらない。
よほど疲れているのか、私達二人の来店にも一切反応する事なく舟を漕いでいる。
彼女を起こさないように店内の衣服を見た。男性向けも女性向けもあるが、値札を見る限り、私のような無頓着な人間が来て良い場所ではないような感じだった。桁が一つ違う。なかには二つ違うものも。安物はひとつもない。高級ブティックと言って差し支えない品揃えだ。もう一度女性店員を見やる。相変わらず夢の世界を満喫していた。今日に限っての事やもしれないが、普段からそれだと盗まれ放題なのではないか……?
 
「ちょうど良いわ」
 
翼が私を手招きすると、耳元に顔を寄せてくる。
 
「あそこでウトウトしている女性ね。私より一つ年上で、去年まで私達の大学に通っていたOGでもあるの。名前は古美門一門(ふるみかど いっと)」
 
「古美門、だと……?」
 
頭痛がする。どうしても駄目だった。条件付けで躾けられた犬のように、私はその単語を聞くと、頭に血が上って仕方なかった。
 
「そう。私達、独語研究会のオーナーである古美門間人(ふるみかど はしひと)の娘さん。だから私達とは…… 特に、あなたとは縁がある」
 
すべてを見透かしたような目で翼が事実を告げる。
彼女がどこまで把握しているのかは未だ分からない。だが確かに、私は古美門と因縁があった。高校生の頃から。ひょっとしたら、ずっと前から。
古美門一門という名前のその女性は、背中まで伸びた黒髪で、とても整った顔立ちをしている。落ち着いた風貌と、微笑みを浮かべたような表情のまま、静かに寝息を立てていた。
私が彼女の祖父――古美門大間(ふるみかど はるま)を殺した張本人だと教えたら、一体どのような顔を拝ませてくれるのか気になったが、別に彼女そのものに因縁はない。憎い血筋だろうと、無関係なら無関係を貫くべきだ。
その時、カウンターの奥からもう一人、女性が現れた。
 
「イット。お前また眠って…… あ」
 
背の高い、銀髪の女性だった。ショートヘア。目の下にはクマ。
 
「……どうも」
 
目を逸らしながら頭を下げると、その女性――桐生未空が足早にカウンターから飛び出して、こちらに近寄ってくるなり強引に頭を抱え込んできた。
 
「なにが“どうも”だ、コラ。連絡しろって言ったよな」
 
「い、一週間以内に、でしょう? まだあれから三日しか経っていませんよ」
 
「三日も経ってんだろが。あと一日、オレをほったらかしにしやがったら大学に殴り込んでやるところだったぞ」
 
「へえ。本当に彼と仲良くなったんですね、桐生さん」
 
感心したように翼が呟く。
未空は私の頭を抱きかかえたまま首を捻って、翼のほうを向いた。
 
「おう。お前のおかげでな…… おい」
 
ドスの利いた声が聞こえてくる。
 
「オレに連絡なしで、女連れってどういう事だ。舐めてんのか」
 
「翼とはそういう関係ではないと知っているでしょうに」
 
私は未空の腕を引きがして、一歩退いた。ついでに横目で古美門一門の様子を窺った。
驚くべき事に起きていない。これだけ騒いでいるのに。或いは、最初から起きている? いや、そのほうが怖い。
 
「未空さんがアパレルショップの店員だとは聞いていましたが、ここに勤めていたのですね」
 
「店員も何も」
 
と翼が口を開く。
 
「桐生さんがここの経営者よ」
 
「経営者様だ。敬え」
 
何故か未空が胸を張る。
経営しているとまでは知らされていなかったが…… まあ、店員でも間違いではないか。
 
「桐生さん。今日は彼の服を」
 
「あ? なんだ。それならこっち」
 
そう言うと、男性向けのコーナーまで案内してくれた。全体的に色合いが黒い。未空が着ていたようなヴィジュアル系とも趣は異なるが、十代の子供が身に纏うには少々大人びているような。
 
「これはどうかしら」
 
「それなら、こういうジャケットと合わせると良いかもな」
 
女性二人は、姿見の前に私を立たせて、案外真剣に服を選んでいた。次から次へと様々な衣服を身体に当てがって、ああでもにこうでもないと話し合っている。そして残念ながら、やはり私には良し悪しが理解できなかった。
そうして一時間以上も立ち尽くしていると、店内にある沢山の衣服の中から五着に絞られた。そこからさらに絞っていくのだろうと思っていたが、未空は手を振って、「全部持ってきな」と気前良く言い放った。
 
「全部……」
 
値札を見る。一着だけでも大した値段なのに、五着全部となると、中古の軽自動車くらいなら買える金額だ。だからと言って、払いますとも言えない。
 
「お言葉に甘えさせてもらいなさい」
 
翼が、他人事だと思って気安く背中を押してくる。
 
「では、有り難く頂戴します」
 
 
未空は手際良く衣服を折り畳んで、専用の手提げ袋に仕舞い込んでくれた。その袋からして高級そうに見える。それをこちらに手渡そうとした時、未空が囁きかけてきた。
 
「今度は一人で来いよ?」
 
「……善処します」
 
「イイコだ」
 
そして未空は踵を返してカウンターへと歩いていく。その途中、古美門一門の尻を引っ叩いた。小気味良い音がして、「ひえっ」と彼女が短い悲鳴をあげる。
 
「いつまで寝てんだ。仕事しろ」
 
「あ、えっ、も、申し訳ありません。お客様。本日はどういった物を」
 
「もう済んでる。あと、客ならあっちだ」
 
「えぇえええっ?!」
 
素っ頓狂な声を出して、慌てふためきながらこちらに振り返る。
くっきりとした一重瞼。不思議な目力がある女性だった。
 
「すみません、すみません!」
 
数メートル離れた先で、眉尻を下げて必死に何度も頭を下げていた。その仕草が妙に熟れており、普段から謝ってばかりなのだなと思わせてくれる。敵意だとか、殺意とは無縁そうな女性に見えるが…… 彼女も、その衝動に駆られる時が来るのだろうか。父親の間人がそうであるように。祖父の大間がそうであったように。
 
『花が花の本性を現じたる時に最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するのだ』
 
かつて耳にした、古美門大間の言葉だ。これは日本の哲学者である西田幾多郎が自著の『善の研究』で述べていた言葉でもある。
たとえ本性がどうあれ、今はただ、人畜無害そうな彼女の人生が平穏である事を願うばかりだ。
 
『古美門の人間は、代々“間”を受け継ぐ。それは日と月を併せ持っている。不思議に感じた事はないか? 門構えに日で構成される“間”の旧字は、門構えに月と書く。同じ漢字でありながら、まったく逆の性質を持つのだ。古美門には表の顔がある。古美門には裏の顔がある。もし、この先“間”を受け継がぬ者が古美門に現れた時は…… 注意するのだな。訪れるぞ。昼も夜もない刻が、訪れる』
 
不意に再生された、古美門大間の遺言が脳裏を過ぎっていったのを無視して、私は翼と共に大通りを歩き始めた。
 
―――
 
その翌日、独語研究会の部室で小さな騒動が持ち上がった。
 
「お姉ちゃんんんんんっ!」
 
声を荒げる小羽の視線を避けて、翼は素知らぬ顔をしていた。
私は何も言えなかった。
部室には独会のメンバーが全員揃っており、それぞれが、それぞれの表情を浮かべている。
 
「なんで! こんなコトに! なるのさ!」
 
比較的のんびりとした気質の小羽が柄にもなく怒鳴っている。無理もない。
今まさに小羽が着ている服は『etude』のものだった。あの後、翼は小羽を連れてもう一度あの店に行ったらしい。そして私の物と対になる、ひと揃いの衣服を買い与えたのだった。
期せずして…… いや、ハメられてペアルックとなってしまった私達を見て、窪は驚き、鳥居は怒り、葛西は笑い、そして翼は我関せずとばかりに連絡ノートに絵を描き始めた。