もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
私の前に現れた少女は、まだ高校生くらいに見えた。ツインテールの髪を真っ赤に染め上げて、半袖のジャケットを着ている。下は紺色のカーゴパンツに、動き易そうなスニーカー。
今更、奇抜な髪の色に抵抗はない。だが剥き出しになった両腕に施されたタトゥーが周囲の視線を集めていた。手の甲を起点に、二本の紐のような曲線が絡まり合いながら腕の外側を通り、上腕まで伸びている。そんなデザインだった。
 
「――花塚糾様とお見受けしますが、相違ございませんか」
 
陽も暮れ始めた時間帯の駅前だった。周囲は多種多様な人間で溢れ返っている。私は側の郵便局で用事を済ませて、特に目的もなく駅前を闊歩していた。すると突然、見た事のない少女が話し掛けてきたのである。不良めいた外見からは想像もできない、礼儀正しい言葉で。
 
「……相違ない。だが、君は今、何と言った?」
 
少女の言葉遣いにつられて同様の言い回しをしつつ、私は必死に記憶を手繰った。思えば、こちらに来てからというもの、いきなり話し掛けられてばかりだ。それも何故か相手だけがこちらを知っていて、私は知らない。
折角、田舎街から飛び出してきたというのに、まるでこの街の人間すべてが私の事を知っているかのような錯覚さえ抱いてしまう。
 
「花塚糾様とお見受け」
 
「そのひとつ前」
 
「お兄様」
 
私は口元を押さえて、少女の全身を改めて眺めた。かつて姪が居た事はあったが、妹は…… 有り得ない。いや、有り得ないと言い切れないのが恐ろしい。蒸発したと思しき父親は兎も角、あの母親の事だ。一体どれだけの男と関係を持ったか……。
ひとまずのところ、眼前の少女に母親の面影はない。黒目がちな瞳はやや細く、日焼けした肌と相俟って異国情緒が漂っていた。
 
「申し遅れました。わたくしは、緑(みどり)と申します。本名は芹沢名緑(せりざわ なづな)ですが、あまり…… ですので、どうか緑と呼んでいただければ」
 
「芹沢…… 人違いなら申し訳ないが、劇団ミツボシとやらで団長・脚本家を務めている芹沢緑?」
 
恐る恐る訊ねると、緑は淑やかな動作で両手を合わせて、笑顔を浮かべた。
 
「光栄です。覚えてくださっていたのですね。わたくし、実はあの日、舞台袖からお兄様をお見掛けして、それからずっと探し回っておりました」
 
興奮気味にずい、と一歩踏み出して下から覗き込んでくる。背が高い。恐らく鳥居よりも。百七十の半ばくらいか。
 
「わたくしのお父様は若草青と申しまして、粗暴な方々を取り纏める、その、管理職のようなものに就いておりました。十年前に他界して、お会いしていただく事も叶いませんが…… わたくしにはそのお父様しか居りませんでしたので、お父様とは旧友だったと言う芹沢さんの養女になりました。芹沢さんは優しい方で、何不自由のない生活を与えてくださいました。ですが、わたくしの生い立ちに関する事だけは、何も。それが近頃になって色々と判明してきたのです。生前、お父様には入れ込んでいた女性がいらっしゃったのだと。組の、いえ…… あの、若い方々が仰っていました」
 
ヤクザという言葉は意地でも使いたくないらしい。
私は緑が、ヤクザの…… どの程度の立場か知らないが、それなりの地位に就いているであろう人間の養女と聞いて、納得するものがった。こんな年端も行かない少女が派手なタトゥーを入れて許すのだろうかと、真っ先に考えたからである。
 
「その入れ込んでいた女性とやらが、私の母親だとでも?」
 
緑は慎重に頷いた。
 
「花塚初さん、ですよね」
 
ちゃんと知っているようだ。はてさて、どうしたものやら。今のところ、彼女の話に矛盾はない。ヤクザの情婦だったとしても何らおかしくない母親である事も解っている。しかし、母親が私を産んでから身籠った記憶もない。私が一歳、二歳の頃にあったとしたら、覚えていなくても不思議ではないが……。
 
「わたくし達は実の兄妹だったのです」
 
緑はそう結論付けて、さらに一歩近寄ってきた。
現状、お手上げだ。一方的な彼女の言い分が誤りであると指摘しようにも、その方法がない。仮に母親の戸籍を取ったとしても、そこには何の名前も記載されていないだろう。民法における、『分娩の事実によって母子関係は成立する』という規定など、あの閉鎖的な田舎では通用しないのだから。村八分に遭っている人間は医者にも役人にも相手にされない。そういうところだった。
 
「……面倒だな」
 
口を衝いて出たその言葉が、私の本心だった。今こうして語り掛けてくる少女も、先程から遠巻きに様子を窺ってくる視線も、すべてが面倒だった。
 
「お兄様。幸運にも離れ離れだった兄妹が出会ったからには、もっとお互いの事を知るべきだと存じます。お兄様もそう思いませんか」
 
と言いながら緑は私の腕を掴んだ。
 
「それに、ほら。もう陽が暮れます。この近くに、いつも懇意にしてくださるお店がありますので、場所を移しましょう?」
 
そう言われてみると、気づけば辺りは薄暗くなっていた。
 
「さあ、さあ。参りましょう」
 
言葉こそ丁寧で奥ゆかしいが、緑は強引に私を引っ張っていった。
渋々ついていく事にしたものの、美人局だったらどうするのかという疑念が渦巻いていた。いくらその筋の人間と繋がっていても、そんな前時代的なシノギはしないだろう。未成年相手に。それも経済力の欠片もない学生に。
私は既に様々な事が起こり過ぎて、前途多難な大学生活に更なる面倒事が加わってくる予感を禁じ得なった。
 
「こちらです」
 
緑が案内したのは、所謂“ナイトクラブ”と呼ばれるような場所だった。時間帯が早いせいか、客の姿は少ない。しかし店内は凝った衣服を身に纏った者ばかりで、ワイシャツにスラックスという飾り気の一切ない私は場違い極まりなかった。気質的にも場違いだと解っている。今も、風俗営業法上の届け出を行った正規店舗か否かを気にしているくらいだ。
暗い店内では、流れているクラブミュージックに合わせて何人もの男女が躍っていた。落ち着いた会話などできそうにもない音量で。
 
「わたくし達も踊りましょう」
 
緑が勝手知ったるとばかりにこちらに身体をぶつけながら、リズムに乗ってはしゃぎだした。
口調からは想像もできない。
とは言え、外見だけで判断するならばピッタリだった。陽に晒された街中では違和感のあったタトゥーも、こういう場所では何の違和感もない。
 
「……遠慮しておくよ」
 
と暗幕の垂れた窓際に下がると、緑は一瞬何か言いたげに頬を膨らませたが、すぐに笑顔を作って、「では、ご覧になっていてください。これでも幼少の頃から踊るのは得意なのです」と言い置いて店内のステージのほうへ向かった。すぐに、「ミドリ」「ミドリ」と呼び掛ける声があがった。彼女は有名人らしい。
そして緑はステージ上から一度こちらに視線を送ると、曲の始まりと同時に踊り出した。ツインテールの髪を振り乱し、高々と足を振り上げて、回転する。艶めかしく腰を振る動きに入ると、他の女子達もステージに上がって踊り始めたが、緑だけが別格のパフォーマンスを披露していた。ステージ脇のDJも心得たもので、盛り上がるフレーズを何度も繰り返す。ステージに叩きつけられる歓声はいつまでも続いた。
私は壁にもたれ掛かって、そのどこか現実感のない光景を不思議な気持ちで眺めていた。
やがて移動もままならないくらいに客が増えて、窮屈に感じ始めたところで、ひとしきり踊って満足した様子の緑は私を外に連れ出した。
店の外に出てから、ようやく私は支払いなどをしていない事に気づいた。緑にもそういう様子がなかった。しかし彼女は、「構いません」と言って笑った。
 
「わたくし、この時間が好きなのです。喧騒で麻痺した耳が、すっと機能を取り戻していくこの時間が」
 
私達は店の側にある駐車場の自販機で、コーラを買って飲んでいた。
しばらく沈黙が降りた。夜空はぼんやりと煙っていて、星の姿は見えなかった。
 
「お父様が亡くなったのは六歳の頃でした」
 
ふいに緑が言った。
 
「芹沢さんには、本当の親子のように良くしていただいております。ですが、こんな事を申し述べるのは贅沢で、酷く罰当たりなのでしょうが…… 孤独でした。血の繋がっている、本当の家族が居ないという思いは拭えなかったのです」
 
声が、微かに震えている。
 
「家族が居るとは、一体どういうものなのか…… ずっと考えていました。ずっと。だから嬉しかった。生き別れの兄が居るかもしれないと判った時は」
 
「悪いが…… やはり」
 
私が口を開き掛けた時、緑はいきなり空になった缶を放ってこちらの胸に飛び込んできた。カラン、と乾いた音が駐車場に響く。
 
「承知しています。ですが、今だけは、わたくしのお兄様で居てください」
 
そう言って、両腕を背中に回してきた。そして俯いていた赤いツインテールの頭が胸元から喉のほうへと、上ってくる。
緑はさらに背伸びをして、戸惑う私の顎先を掠めて、その唇を近づけた。
反射的に顔を左へと背けたが、距離はどんどんと縮まっていった。生々しい吐息が頬を撫でている。
右耳のすぐ近くから、緑の声が聞こえる。
 
「つかまえた」
 
そう言ってゆっくりと顔を離した緑の唇には青白いものが咥えられていた。それは生物のように蠢いていたが、緑によって噛み潰されると、手品で使われるフラッシュコットンのように一瞬だけ燃え上がり、消滅した。
 
「今のは……?」
 
緑は私に抱きついたまま、妖しく嗤う。
 
「魔除けの御守り、のようなものです。何か憑いているとは思っていましたが…… どうやら、ボディガードがいらっしゃるのですね」
 
「魔除け?」
 
狼狽える私に、緑が挑発的な口調で言った。
 
「そう、魔除け。邪な思いを持って近づいた人間に反応するのでしょう。ただ、お粗末な代物ですね。こんなものでは無いも同然。到底お兄様を守れません。わたくしが代わりにボディガードを務めましょうか?」
 
言葉遣いは依然として丁寧だが、先程とは明らかに違う。纏っている雰囲気も。
私は混乱していた。
緑は、混乱したままの私を解放すると、一歩下がって両手を挙げて見せた。
 
「そんなに怒らないでください。今は、何もしませんから。今は」
 
私ではない、誰かと話しているようだった。魔除けを憑けた人物と関係しているのか。
 
「今日のところは、これで失礼致します。お兄様。また次の機会に」
 
と言い捨てて、あっという間に夜の街へ去ってしまった。
現れた時と同様に、最後も唐突だった。
その緑の去り際に、ひとりの男がこちらに歩み寄ってくると深く腰を折った。
 
「本日はご無礼を」
 
ダブルスーツを着た小柄な男だったが、私は一目見て彼が堅気でない事を悟った。
 
「お嬢を悲しませないでくれて、ありがとうございました」
 
男は両膝に手を当てて、一層深く頭を下げる。
 
「この礼は、いずれ必ず」
 
そうして男もまた駐車場から消えた。
 
「……訳が分からない」
 
残された私は、わずかに残っているコーラを一気に煽った。
 
―――
 
翌日、独語研究会の部室に顔を出すと、鳥居がいつになく憤慨していた。私が女子を連れて歩ているところを偶然目撃した、という事になっていた。
 
「あれは誰ですか、花塚さん」
 
底冷えするような声だった。幸いにも…… と言えるかどうかは分からないが、鳥居は昨日の出来事を他の誰にも話していなかった。話していれば、もっと恐ろしい事になっていた可能性がある。
 
「私が知りたいくらいだよ」
 
「誤魔化すんですか」
 
「いや、本当に」
 
「花塚さんは不良です」
 
「それより魔除けの件だが、いつの間に……」
 
「知りません。花塚さんは不良です」
 
と言って憚らない鳥居を宥めながら、私は、退屈とは程遠い生活が待っている事に半ば諦観していた。