もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
公園から離れて、およそニ十分。繁華街から遠く外れた場所にある路地で、薄汚れて無人と化している事が一目で判るような雑居ビルが並んでいる。そのうちの一つの前に、私達は立っていた。テナント募集の貼り紙があったが、とうに風化してしまって意味を為さなくなっている。
 
「この下です。地下に、用事があるんです」
 
そう言って鳥居は、地下へと伸びる薄暗い階段に足を踏み出した。やけに埃っぽい。案の定、無人なのだろう。誰も手入れなどしていないのだ。
階段を下り切ると、赤錆びた扉が暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
鳥居が取っ手を掴む。施錠されていない事を知っているようで、すぐに金属同士の不快な摩擦音が鳴り響いた。
地下室の中はより一層暗かった。扉側から射し込んでくる申し訳程度の陽の光だけでは一メートル先を見渡す事も叶わない。
 
「明かりは?」
 
「通っていません」
 
足音だけが室内に反響する。が、それもすぐに止まる。
 
「ほお」
 
「気づきましたか」
 
目を凝らす必要もない。この地下室には、異様な気配が満ちていた。
室内の最奥…… そこに、白い肌が薄っすらと見える。女の子だ。幼い少女が裸で座り込んでいる。髪は長く、骨張っていて、健康体とは程遠い姿。表情は窺えない。生きている人間でない事は理解できた。
はー…… はー…… という苦し気な吐息が微かに聞こえてくる。
 
「少女に、纏わりついているのか」
 
「それも見えますか。そうです。女の子の霊に、霊とも呼べない低俗な穢れがへばりついているんです」
 
少女の吐息が、繰り返し聞こえている。
 
「わたしは、こういう子供に群がるような悪意ある穢れを一匹残らず駆除したい。殺したい。殺して、殺して、殺して、この街を浄化…… ドクターの言葉を借りるなら消毒したいんです」
 
徐々に暗闇に目が慣れてきた。鳥居がスカートのポケットから何かを取り出すのが見えた。
 
「礫、だったか?」
 
「はい。千葉家では“霊石”と呼ばれる事もある魔除けの道具であり、除霊の武器になるものです」
 
鳥居は言うだけ言うとシッ、という掛け声を漏らした。石を握り込んだ右手を素早く振り抜いたのだ。蠢く穢れとやらに向かって。
次の瞬間、部室で耳にした時のような乾いた破裂音と共に青い光が弾けた。私には、それが現実に起きている物理現象なのか判然としなかった。次いで起こる穢れの悲鳴。それは先程の錆びた扉以上に不快な音だった。
瞬く間に少女の霊に纏わりついていた穢れ達は、飛び散っていった。
 
「何度見ても凄いな…… 夢でも見ているようだ」
 
「残念ながら、現実です」
 
「まだその礫なる魔除け? は残っているのかい」
 
「多少は。でも、あまり使いたくはありません。これには、わたしの血液が塗り込まれています。受け継がれてきた血で、祓うんです」
 
鳥居の説明が終わると同時に、圧迫感を覚えた。悪意。威圧。そんなようなものが、目の前から発せられている。礫によって散り散りとなったはずの穢れが影法師のように変化して、四方から私達に迫ってこようとしていた。
 
「除霊専門として、この状況をどう見る?」
 
「……下がっていてください」
 
鳥居が再び右手を振り抜くと青い閃光が奔る。大半はそれで消え失せたが、学習でもしたのか、それを躱して更に迫ってくる影があった。
鳥居と共に壁際へと退いた…… が、途中で床に転がっていた資材に足を引っ掛けてしまい、体勢を崩した。
 
「おっと」
 
転倒するのを避けるべく、右足を大きく前方へと踏み出す。さながら空手の前蹴りのような形になった。
ガタンッ、という暴力的な衝撃音がして朽ちた壁に三十センチ程度の穴が開く。
 
「あっ」
 
鳥居は油断なく迎撃姿勢を取っていたが、運悪く私の靴先に蹴りつけられた影法師の一部が、壁ごと砕け散るのを目にして、小さく声をあげた。
 
「余所見している場合ではないだろう」
 
声を掛けると、はっと我に返って鳥居は胸元から短い棒のような物を取り出した。黒々とした刀身の刃物だった。流石に刃は潰してあるのだろうが、凶器である事に変わりはない。鳥居はそれを身体の正面で構えて、何事か唱えてから、影法師に向かって鋭く振り下ろした。
その一連の動作は、私の知っている剣道の動きとは一線を画したものだった。数年前、関東へと移り住む事となった彼女のそれとも違う。対人間の動きではない。
などと考えている間にも、鳥居に切り捨てられた影法師は甲高い悲鳴をあげて霧散していく。
やがて、私の前に立ちはだかっていた穢れを鳥居が真横から薙ぐと、それも断末魔を残して消滅した。今のが最後だったようだ。強張っていた鳥居の両肩から力が抜けていくのが見て取れた。
はあっ、はあっ、と息を吐きながら、鳥居はこちらを睨みつけた。
 
「どうして、あなたに、できたん、ですか」
 
「終始、何もできずに見ていただけだったが」
 
「ふざけないで! 石も、この小刀も代々家に伝わっている物で、例外なくわたしの血液を塗り込んでいます。だから殺せた。それなのに、どうして」
 
「……契機となったのは、片目の道の時かな。それと小羽の言葉」
 
私は自分自身の右足を見下ろす。
 
「小羽は部室に現れた巨大な顔を見て、『生きていた頃の記憶、コモンセンスが関係している』と分析していた。当時は、それが正しいかどうかすら判断できなかったが、片目の道で幽霊の肩を握り潰した時に何となく感覚を掴んだ。幽霊と言えど、元々は人間。コモンセンスやメンタリティを保っているのであれば、物質的な攻撃が通用すると思った。いかに非現実的な連中だろうと、殴られたら痛い、殺されると解れば、反映される。それが不意の一撃だったら尚更。運悪く躓いて、運悪く振り上げた足が当たったりとか」
 
「そんな、ことで」
 
鳥居は呆れたような声を出した。
 
「しかし、人間の常識が通用しない本物の悪霊には通用しないだろうね。こんな場当たり的な対処法。鳥居のそれも、恐らく通用しない。遭遇しない事を祈るばかりだよ」
 
「な、なんでそんな事が言い切れるんですか! わたし達は悪霊を祓う為に存在しているんですっ!」
 
鋭く睨めつけてくる鳥居に、私は苦笑した。
 
「なにを、なにを笑っているんです。なにがそんなに可笑しいんですか」
 
「いやいや、すまない。悪意はないよ。君も存外に性質が悪いと思ってね」
 
「は?」
 
「鳥居家は悪霊を祓う為に存在している? なるほど。それは結構な事だね。だが、勧善懲悪は悪人役が居てこそ成り立つ。その悪人役を務めさせられているほうも大変だ」
 
鳥居はハッとして、地下室の最奥に視線を向ける。少女の霊は、まだそこに居た。暗闇の中で俯いて、膝を抱えて座り込んでいた。
苦し気な呼吸も、未だ続いている。
 
「あれを餌に、集まってくる穢れとやらを定期的に殺しているわけか」
 
「違うっ! 餌なんかじゃない! わたしだって、わたし、だって…… だって、わたしには殺し方しか、知らないから」
 
「なら殺せば良い」
 
「何も知らないくせに、好き勝手言うな!」
 
「知らないね、何も。だが…… いつまで続けるつもりだ? こんな事を。さっさと終わりにしないか? 殺し方を知っているのなら、できるだろう」
 
「わ、わたしに、殺せって? この子を?」
 
鳥居の顔が怯えるように歪み、ゆるゆると頼りなく視線が落ちていった。
 
「……なにか難しく考えているようだが、鳥居は不自然だと思わないのかい」
 
「不自然……?」
 
「鳥居に殺されて霧散した穢れ達はどうなった? どこへ行った? 何の痕跡も残らない不自然。君達が受け継いできたという業は、それほどまでに都合の良いものなのかな」
 
「…………」
 
はー…… はー…… はー……
地下室の、さらに最も低いところを流れてくるような少女の吐息が大きくなったような気がした。
 
「もう目は慣れているはず。なら、しっかりと確かめてみてくれ。その少女の口元を。ほら。私が指摘した瞬間、一層はっきりと浮かび上がった」
 
俯いて隠れていた少女の口元には、どす黒いものが滲んでいた。
 
「ああっ」
 
はあー。はあー。はあー。
それはもはや、吐息ではなくなり、興奮した獣の唸り声に変わりつつあった。
 
「今しがた伝えた話の通り…… 幽霊と言えど、元々は人間。人間に多種多様な在り方があるように、幽霊にも多種多様な在り方があって然るべき。狡猾な幽霊も居れば、いたいけな少女を気取って近寄ってくるものを貪る幽霊も。鳥居。これの顔をちゃんと見た事は? 俯いたその下で、一体どんな表情をしているのか、見た事はあるか」
 
はあああー。はあああああああ。
 
「気づいたようだ。気づかれた事に、気づいた」
 
「な、なにか溢れ出て」
 
少女が立ち上がっていた。視線を外した覚えはない。なのに、いつの間にか立ち上がっていた。口から黒煙のようなものが溢れ出ている。それがこちらへと向かってきていた。
 
「髪の毛が」
 
長い髪の黒いシルエットが膨れ上がり、天井に到達して、まるでそれが枝葉を広げた樹木のように見えた。
一目見て解った。先程遭遇しない事を祈ったばかりの、本物。
 
「勘弁してくれよ」
 
私が呟いた瞬間、金属音が響いた。地下室の扉が閉まったのだと気づく。明かりが完全に遮断され、鳥居の姿は勿論、自分自身の掌すら視認できない深い暗闇に包まれた。
 
「閉じ込められた?!」
 
「容赦ないな」
 
はあああああっ! はあああああっ!
荒い息遣いと、全身が粟立つような悍ましい気配だけが隙間なく襲い掛かってくる。視界が利かない。風の流れも読めない。方向が分からない。
 
「除霊担当さん。奥の手とか、そういうのは?」
 
献血した事ありますか、花塚さんは。魔除けを作る為の血抜きは本当にしんどいんですよ。一応、石の持ち合わせはありますが、それにはまだ何も施していないので」
 
すぐ側から鳥居の声が聞こえた。手を伸ばせば届く程度の距離には居るらしい。
 
「輸血なら数えきれないほどしているね」
 
「ゆけつ? どうしてそんな」
 
「まあ、色々と…… こんな時に訊くのもどうかと思うが、その血液とやらは君の、千葉流の血液でないと効果はないのかな」
 
「当然です」
 
「試してみる価値は?」
 
「試すって…… 花塚さん? 何を考えて」
 
困惑の色が窺える鳥居の声を無視して、私は右腕の袖を捲り上げた。
刃物の類など持っていないが、有難い事に多少掻き毟るだけでそれなりの血液が期待できるほどに私の前腕はボロボロだった。
 
「鳥居。石の準備を」
 
「……ああもうっ」
 
鳥居は半ば自棄になってスカートを捲り上げると、足の付け根の辺りを探った。
 
「好きにしてください!」
 
そう喚きながらも、暗闇の中でも分かるように私の目元へ手と突き出した。その手には数個の石が握られている。
私はそれを鳥居の手ごと包み込んだ。恐らくは血塗れとなった右手で。
 
「こんな量を、どうやって」
 
「いいから」
 
「やりますよ! やれば良いんでしょう!」
 
そう叫んで振りかぶった鳥居の後方から…… 前方ではなく、後方から強烈な気配がした。
 
「違う、真後ろ!」
 
すると鳥居は器用に身体を反転させて、振り向きざまに右手を薙ぎ払った。
ああああああああッ!
今までにない凄まじい悲鳴。炸裂した赤黒い火花。連続する破裂音。それらが同時に起こって、思わず私達は目と耳を塞いだ。
それらが収まった後で、私は鳥居の右手首を掴んだ。
 
「今のうちだ」
 
鳥居が放ったそれとは異なる赤黒い光の中で一瞬だけ見えた、錆びた扉。その方向へと走り出す。扉に飛びついて、力を込めるとギギギという軋みと共に外の光が射し込んできた。
急いで地下室を出る私達の背中に、黒い霧が迫ってきていた。
 
「早く!」
 
「わかっています!」
 
もつれそうになる足を奮い立たせて階段を駆け上がり、夕暮れの街に飛び出した。そしてしばらく走ってから、私達は徐々にスピードを緩めて、立ち止まった。
 
「はあっ、はあっ」
 
「ここまで、くれば、平気か」
 
生きた心地がしない。流石に甘く見ていた。片目の道に現れた幽霊とは、まるで比較にならない。今回は例外だとしても、毎度毎度あんなものを相手にしていたら……。
憂鬱な思いを抱く私の隣で、鳥居のポニーテールが跳ね上がった。
 
「……それ」
 
鳥居の視線が、私の右腕に向かう。雨に降られた後のように大量の水分を吸い込んだ袖は、前腕に張り付いて、なかなかの不快感を齎してくれている。黒のワイシャツなので、それだけであれば汗だの何だのと言い訳もできたやもしれないが、袖口から覗く右手は肌色の部分を見つけるほうが難しいくらいの血液に染まっていた。
 
「うん…… まあ、そういう事もあるさ」
 
「ありませんよ。でも、わかりました。それに関しては訊きません、今は。その代わりに他の質問に答えてください」
 
「なにかな」
 
「どうして判ったんですか、あの子が……」
 
「本物の悪霊だと? 判ったわけではないよ。ただ単にカマを掛けただけ。それが見事に、引っ掛かってくれたという話で」
 
「嘘です。わたしも見る力には自信があります。子供の頃から、訳の分からないものを沢山見てきました。なのに花塚さんは…… 花塚さんの目は、わたしよりずっと優れていた。きっと、わたしより鮮明に見えている。最後もそうです」
 
「買い被りだよ」
 
私は首を横に振った。
 
「部長達が、『あなたを待っていた』と言っていましたが、わたしには理解できません。独語研究会自体が、花塚さんの為に作られたって、どういう事なんですか」
 
「ああ。翼が予知してという件か…… ん? 独語研究会は私の為に作られたのか?」
 
「わたしは、そう聞いています」
 
鳥居は険しい表情で続ける。
 
「独語研究会のエースは葛西さんだった。あの人の除霊能力は誰よりも凄かった。それを継ぐのが花塚さんだって、部長が言っていました。花塚さん。あなたが葛西さんに比肩する人間だと言うんですか」
 
私の脳裏に、天見翼と葛西真一の顔が浮かんだ。どちらも腹に一物抱えていそうな人物。
 
「あなたは、何者なんですか」
 
「……さあ」
 
私は、南北連絡通路以来の肉体労働で悲鳴をあげた足を揉み解しながら、傍らの女子高生に目をやる。
悪霊を殺す、という物騒な使命を全うしようとする少女。凛とした顔の下に、そうあるべきという自分自身の理想像を必死で演じている幼心が、垣間見えた気がした。
 
「花塚さんは、わたしの事が知りたいと言っていましたよね」
 
「言ったね」
 
「わたしも知りたくなりました、あなたの事を」
 
初めて見せるその不敵な笑みは、眩い夕陽を受けて光輝いていた。