もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
インターネットの急激な普及に伴って、人々の生活…… 殊、コミュニケーションにおいては様変わりした。一九九六年に開発されたICQと呼ばれるインスタントメッセンジャーの飛躍は目覚ましいものがあり、真偽は兎も角、「一千万人以上がICQに毎日ログインしている」とも言われていた。その飛躍の一端を担っていたのが、リアルタイム形式のチャットツールだった。当時はまだ現在のように一般公開されておらず、内々で完結する程度だったが、それでもメールより素早く、一度に多数の人間とコミュニケーションが取れるというメリットは計り知れないものがあった。
そういったメリットを把握してはいたものの、私は無関心を貫いていた。縁がない。利用する機会もない。そう決め込んでいた。
 
「はい、これ。パソコンくらい持ってるでしょ?」
 
ある日、小羽から英文が並んでいるノートの切れ端を手渡された。
 
「これは…… アドレスか?」
 
「うん。独会第二部室のアドレスと、閲覧の為の暗証番号。教えてないなーって思ってさ。管理してるのはドクターだから、二十四時間いつでも開いてるよ。いつでも誰かが居るってわけじゃないけどね」
 
「独会第二部室?」
 
「っていう名前のチャットルーム」
 
「なるほど」
 
私は手渡された紙切れに目を落として、対処を考えた。
教えてもらったからと言って、馬鹿正直に顔を出さなければならないという道理はないはず。いかに世間が変化しようとも、私の性質までは変化しない。
 
 
「そんじゃ、今日の夜待ってるからー」
 
小羽はしっかり私の退路を断ってから、独会の…… 第一部室とでも呼ぶべきなのか? よく分からないが、現実の部室から去っていった。
 
―――
 
《システム》:花塚さんが入室されました。
FF:きた
蝶:ようやくですね
FF:ホント遅い! 折角教えたのに
花塚:それは悪かった。
アクター:大丈夫ですよ。ボクも今さっき来たところですから。
花塚:アクターと言うと思い当たるのは一人しか居ないが、なんだか妙に……。
FF:チャットだとこうなの
二色:面白いわよね
花塚:普段からこんな夜遅くに集まって話しを?
蝶:たまに、ですよ 暇な時だけです 暇な土日の夜とか
二色:受験生なのに暇な夜があるなんて、随分と余裕なのね
FF:実際、余裕なんじゃない? アタシと違って一夜漬けとかしなさそー
アクター:大変良い事だと思います。勉学は積み重ね。慌てて詰め込んだ知識は身になりません。
FF:それってアタシへの当てつけ?
アクター:滅相もありません。
二色:でも、去年は本当に頑張っていたわ 大学なら他にも沢山あるのに変に意固地になっちゃって
FF:独会の一員なのに一人だけ別の大学なんてイヤに決まってるじゃん
虹:わかる
花塚:との事だが、蝶はどう思う? 先程から黙り込んでいないか。
二色:あんまりいじめないの
花塚:最初に弄り始めたのは誰だ。
蝶:頑張ります
二色:安心して 大学が違っても独会から外したりしないから
蝶:頑張ります
虹:がんばれ
アクター:入学して間もない御二方に教わってみるとか、いかがでしょうか。
FF:アタシと糾?
二色:悪くないわね 出題傾向くらいは覚えているでしょう? あれだけ勉強したのだから
花塚:FFだけが頼りだよ。
FF:なんでアタシに丸投げすんの もう忘れてるって 糾が教えてよ
花塚:受験勉強とは縁がなかったから。
FF:うーわ 出た出た テストの日に「いやあ、勉強してなくってさあ」って言って高得点取るタイプだよ 実際は勉強してるくせに
二色:彼は本当にしていないわよ
花塚:ここで二色が答えるのは流れとして不自然ではないか?
二色:ごめんなさい つい
虹:すとーかー?
花塚:怖い。
アクター:怖いですね。
FF:こわ
蝶:怖すぎます。
虹:おそろしい
FF:てかさ 糾だけ本名なのマズくない? 個人情報とか
花塚:そう思うなら名前を呼ばないでくれ。
アクター:しかし、FFさんの言い分にも一理あります。身内のみのチャットルームとは言っても、念には念を入れておいて損はないかと。
虹:かんがえれば? はんどるねーむ
蝶:わたしもそれが良いと思いますよ 足並みを揃える意味でも
花塚:そういうものかね。
《システム》:花塚さんが退室されました。
《システム》:化冢さんが入室されました。
FF:ナメてんのか
化冢:大真面目なのに。
虹:わるくない
二色:まあ、良いんじゃないの? 壁越しに愛しい妹の笑い声が聞こえてきているくらいだし
蝶:とりあえず、これで独会の全員が揃った事ですし、近況報告でも まずは化冢さんから
化冢:特にないよ。そもそも、毎日のように顔を合わせているのに近況報告と言われても。
蝶:それは困ります 化冢さんの事を把握しなくては
化冢:どこかの部長さんのような真似をするな。
二色:誰の事?
FF:近況って言えばさ 聞いてよ この間へんなのに声かけられて
《システム》:二色さんが退室されました。
《システム》:蝶さんが退室されました。
《システム》:虹さんが退室されました。
化冢:何だ。サーバーエラーか。
アクター:この愚痴、長くなりますよ。どうかお気をつけて。
化冢:え?
《システム》:アクターさんが退室されました。
FF:こーいう見た目してるとすぐヤれると勘違いした男がさー
 
…………
…………
 
FF:んじゃ おやすみー
化冢:hai
《システム》:FFさんが退室されました。
 
―――
 
私は、ベッドに倒れ込んだ。
初めて参加した独会第二部室とやらは結局、小羽の愚痴を散々聞かされて終わった。
 
「しばらく文字を見たくない」
 
そう呟いて目を瞑った時だった。パソコンから間の抜けた音が鳴った。チャットルームの入退室を報せる音。
そういえば、チャットルームに入ったままだった。まさかまだ愚痴を言い足りないという事はないだろうが…… 仮にそうだとしても流石に今日は付き合っていられない。
うんざりした気持ちでベッドから上体を起こすと、入退室を報せるあの音がもう一度鳴り響いた。
入ってきて、抜けた?
四つん這いの状態でモニターに顔を近づける。
 
―――
 
《システム》:アクターさんが入室されました。
アクター:化冢君。明日の午後五時、JR札幌駅北口でお待ちしています。
《システム》:アクターさんが退室されました。
 
―――
 
明日の午後五時に札幌駅。
私は念の為にチャットルームの人物と、独会のメンバーを照らし合わせていった。
二色は翼。紫色と金色の頭に因んだものだろう。実際は別の意味が込められているのやもしれないが、とりあえずは翼という認識で良い。
FFは小羽。羽をアルファベットで表現したのは勿論、先程まで聞かされた取るに足らない愚痴の内容が彼女のものだった。
蝶は鳥居。初めは繭という名前から勝手に連想していたが、会話の内容からして、これも間違いないと思う。
それから…… 虹。実はこれがまったく分からない。消去法で葛西かドクターのどちらかになるが、ほとんど会話に絡む事なく、時折ぽつりと喋っていく。限りなく低い可能性だが、独会に私の知らないメンバーが存在しているという線もゼロではない。
そして件のアクター。これは窪だ。文章になると現実と乖離が激しくなるようだが、さほど驚きはない。彼は基本的に真面目で、色々と弁えている。大袈裟な動作が目立って変人扱いしてしまいそうになるが、発言自体も決して突飛ではない。そんな彼がわざわざ呼び出すからには、相応の用事なのだろう。内容は見当もつかないが。
とは言え、こちらとしても都合が良い。鳥居の次は窪に声を掛けようと思っていたところだ。
声、感情が聞こえてしまうという彼には、とても興味があった。