もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
小羽の様子がおかしいのは一目瞭然だった。普段から決して騒ぎ立てるようなタイプではない。どちらかと言えば気怠そうに髪や爪を弄っては、携帯で友達とやらと連絡を交わしている事ばかり。それでも話し掛ければ答えが返ってくるし、メンバー同士の会話にも混ざろうとする。それが今日は、いつにも増して上の空だった。
 
「ちょっと、小羽? 夜更かしでもしたの?」
 
翼に声を掛けられて、小羽はようやく目が覚めたような反応をした。
 
「んえ…… あー、そんなカンジ。何かあった?」
 
「昨晩、花塚さんが第二独会部室に来なかった事についてですよ。絶対来てくださいと言ったのに」
 
「いやいや、そんな毎晩話すような事もないだろうに…… 小羽もそう思わないかい」
 
何となく小羽に話を振った。彼女はしばらく私と目を合わせていたかと思うと、「うーん」と唸って、それきり黙り込んだ。
 
「これはなかなかに重症のようだねっ」
 
窪が努めて明るい声を出す。
 
「てかさー、皆は見えないの? 窓の外に居る幽霊」
 
小羽に言われて私達は一様に部室の窓へと視線を向けたが、爽やかな青空が広がっているだけだった。幽霊は勿論、人間も居ない。ここは三階なのだ。
 
「わたしには、何も見えませんが」
 
「うそ! ほら、そこに! 恨めしそうな女が!」
 
「……私にも見えないわね」
 
と翼が怪訝な顔で言うと、それに窪も首を縦に振る。
 
「糾は? アンタなら見えるでしょ」
 
「悪いが」
 
突き放されたと思ったのか、途端に小羽の表情が悲し気に歪んだ。
 
「なに…… 皆して。やっぱり、うそつきはアタシだって言いたいの? 腹立つ」
 
小羽は吐き捨てるようにそう言って本当に部室から出ていってしまった。
 
「一体どうしたのかしら」
 
「季節の変わり目は情緒不安定になり易いと聞く。小羽君も、自覚していないだけで精神的に疲れているのではないかな!」
 
「それもそうですね。鞄の霊とか、片目の道とか、この短期間で色々ありましたし」
 
独会のメンバーそれぞれが心配したような発言を交わしているのを、ぼんやりと聞いていた。
 
―――
 
その夜、私は自宅でパソコンを立ち上げて第二独会部室ことチャットルームに入ってみた。
小羽がまた愚痴でも吐き出しているのではないか、と思ったのである。
するとハンドルネーム“二色”が、「妹が帰ってこない」と書き込んでいた。私はすぐに、「連絡は?」と問い掛けると、「メールも電話も駄目。電源自体を切っているみたい」と返してきた。
そんなやり取りの後、私達は再び現実の部室に集まる事となった。
真夜中のサークル棟は幾つかの窓から明かりが漏れており、麻雀牌を混ぜるような音、酔っ払いの奇声などで存外に賑やかだった。
 
「小羽先輩が言っていたのは…… この辺りだったでしょうか。幽霊が見えたとか」
 
鳥居が呟きながら、部室の窓際に歩み寄る。
 
「やはり何も見えない」
 
私も一緒に近づいて試しに窓を開け放った。微かに湿り気を含んだ冷気が入り込んでくる。ぐっと身を乗り出すも、異変らしきものはない。
 
「おや? これは?」
 
ふいに窪が腰を屈めて何か拾い上げた。
 
「何か見つけた?」
 
「翼部長。小羽君が座っていたところに、このような物がっ」
 
拾い上げたそれを、窪が掲げた。
 
「ふうん…… 目薬、かしら」
 
確かにそれは目薬の容器に見えた。ラベルなどは一切貼られておらず、透明な容器に、透明な液体が入っている。
思い当たる節でもあったのだろう。傍らの鳥居が、「あっ」と声をあげた。
 
「もしかして、ですが…… いま女子の間で流行っているという“幽霊が見える目薬”かもしれません」
 
「いかにも怪しいね! 眼球を傷つける薬物の類かもしれないっ!」
 
「だけど、一応は手掛かりと言えるわ」
 
翼が顎の下に人差し指を当てて、神妙な顔をした。
私は左の掌を窪に向ける。
 
「私が注してみよう」
 
すると窪は驚きに目を見開いて、「それは」と口籠った。
 
「む、無害だという保証はないのだぞ?!」
 
「そうですよ、花塚さん。危険です」
 
「こうして手をこまねいていても埒が明かない」
 
「それはまあ…… でも、気をつけるのよ」
 
「気をつけられたら、気をつけるよ」
 
窪から目薬を受け取ると、まずは数滴だけ指先に垂らして匂いを嗅いだ。無臭だ。次にそっと舐めてみた。味もしない。常温で液体を保っているわけだから、ヒ素タリウムといった毒物とも違う。揮発性もなく、溶剤・燃料、サリンの類でもないだろう。混ぜ物がしてあったらその限りではないが…… 腹を括るしかあるまい。
私は上を向いて、一思いに目薬を注した。
水滴が眼球に触れた瞬間、波紋が広がっていくような感覚があった。
 
「平気か? 痛みなどはないかっ?」
 
慌てふためいている窪の側で、「わたしも」と鳥居がこちらに手を伸ばそうとした。
 
「止せ!」
 
思わず叫んでしまった。目の前に、理解し難い光景が広がっていたから。
窓に、人間らしきものが張りついている。それは血液の通っていない土気色した肌をしており、輪郭も朧気。明らかに生きてはない。
居た。本当に。小羽は嘘など吐いていなかった。
私はそのまま周囲を見回した。
 
「まさか、本当に、本物なのでは……」
 
窪は怯えた様子で自分自身の肩を抱く。
 
「窓もそうだが、いま、廊下にも居る。それも無数に」
 
「ひぃっ」
 
窪が短い悲鳴を飲み込むと、鳥居はすぐにスカートのポケットに右手を差し込んで身構えた。
 
「悪霊ですか」
 
「いや、先日のアレとは少し…… 悪意は感じられない。だが」
 
私は目に見えないエネルギーの奔流のようなものを感じて、先程開け放った窓から身を乗り出して外を眺めると、地面の上におびただしい数の幽霊が蠢いていた。尋常ではない。これほどの数を一度に見たのは初めてだ。しかも、どれも現代の人間とはまったく異なった出で立ち。古い霊なのだと、直感する。具足を纏っている者。裃を着用している者。見ようによっては時代劇の舞台に入り込んでしまったかのようだが、いかんせん数が多過ぎる。現実感のない光景には慣れているつもりだったが、これは異質である。
翼がこわごわと問い掛けてくる。
 
「そんなに見える、の?」
 
「……ああ。見え過ぎて、気分が悪い」
 
「ですが、花塚さんは元々見えますよね」
 
鳥居が指摘する。
私は、掌の中に収まっている目薬を見下ろした。
 
「これは“幽霊が見える目薬”という触れ込みだったな。つまり、元々は見えない人間が見えるようになるまでに感度を上げるのだろう。どういう仕組みか想像もできないが。兎に角、私や小羽のような見える人間が注せば途轍もない事になる。鳥居が注しても同様だったはず」
 
「自分自身の姿が保てないくらい昔の霊とかも見えるようになってしまう、というわけね」
 
翼が頷いている。
感度が上がって、古い連中も見えてしまう。それは解る。だが、最初に感じた嫌な気配…… この奔流は何だ? 奔流? 流れがあるのか。
もう一度窓から無数の幽霊達を観察する。
 
「幽霊達の動きに規則性がある…… 移動している? 霊道とやらか」
 
窓から離れて、部室を出ようとする私に窪が声を掛けてくる。
 
「どこに行くつもりだい!」
 
「地上で蠢いている連中の行き先を追う」
 
「待ちたまえっ! そんなものを追って、また連れていかれそうになったら…… 片目の道の事を、忘れたわけではないだろう!」
 
「そこに、小羽が居るやもしれない」
 
「た、たしかに」
 
その時、パンッ、と翼が柏手を打った。儀式が始まったあの時のように。
 
「全員で行きましょう」
 
翼は厳かに、そして慎重に告げた。
 
「皆がそれで構わないなら。場所は私が案内する。この目薬は、誰も注さないほうが良い」
 
私はそう言って、独会のメンバーを先導してサークル棟の外に出た。どこもかしこも幽霊ばかりだ。これだけの幽霊に囲まれながら、普段から活動していたのかと思うと、もはや笑いが込み上げてくる。
のろのろと動く幽霊達の動きを読んで、その通り道を、先へ先へと急いだ。メンバー達も息を呑んで私の後についてくる。
霊道と思しきそれは、札幌キャンパスの敷地を越えて、藻岩山と呼ばれている丘陵地帯へ続いていた。