大学生時分の話をしよう。
透明なガラスケースの中には、古びた木簡が展示されていた。縦書きの黒い文字が認められていたが、すっかり煤けてしまっていて読めそうにない。
そんな私の隣に居る女性――独語研究会の部長である天見翼は爽やか空色のワンピースを身に纏って、白いキャスケット帽を被っている。
私達が見て回っている『花嚴葦牙記念館』なる名前の博物館は、午前十一時という時間が悪いのか、それとも単純に人気がないのか、私と翼の他に客は一人も居なかった。二人の足音だけが響く館内で、次のコーナーに進んでいく。
 
『葛西真一は、去年の冬に、亡くなっているわ』
 
カツン、という無機質な足音に続いて翼の言葉が脳裏に蘇る。
 
『花塚君、それは些か……』
 
窪も言い淀んでいた。
 
『なんで糾が葛西ちゃんの事を知ってんの?』
 
小羽は不思議そうに小首を傾げていた。
 
『冗談でも、それは駄目ですよ。花塚さん』
 
そして鳥居の言葉。誰も嘘を吐いているような色はない。独語研究会の部室で、メンバー達が気味の悪いものでも見るような視線を私に向けていた。
 
『自分は葛西真一。四年生』
 
私が初めて独語研究会に連れてこられた際、彼はそう名乗ったはずだった。それからも、部室で彼はいつもと同じ椅子に座って、読書に耽っていた。やや短めの黒髪が睫毛に掛かって、それを払う仕草も、朧気ながらに覚えている。
不思議な能力を持つ独会の中で、鳥居と同様に除霊を担当していた。その燃焼能力…… パイロキネシスとやらを用いて。私は、この葛西真一という男が得意ではなかった。だからと言って特別苦手でもなかったが、他の面々と比べると接し難い印象が拭えない。それでも彼のひととなりを知るべきだと腹を決めた時、不可解な事実と直面した。
葛西真一は去年の冬に、不慮の死を遂げたと言うのだ。
まるで訳が分からなかった。それは私だけでなく、独会のメンバーそれぞれにも衝撃を与えた。間違いなく、私は葛西と部室で顔を合わせた。会話も交わした。他のメンバーが居る前で。にもかかわらず、部長である翼も、窪も、小羽も、鳥居も、一切その記憶がないと言う。
そんな馬鹿げた話があって良いのか? 私の知らないところで、全員が口裏を合わせて一泡吹かせようとしていると言われたほうがマシだった。そのほうが納得できた。
私はあやふやになりつつある記憶を手繰り寄せて、初日の出来事を全員に話した。翼が“入会テスト”と称して窪に曰くつきの鞄を持ってこさせた、あの日の事だ。鞄には女性の思念――霊が憑いており、それが鞄から抜け出して部室の天井を漂っていた。それを、葛西が燃やし尽くしたのである。極めて非現実的で、圧倒的なシーンだった。忘れるはずがない。そう思っていたのに、私を除く他のメンバー達の記憶は異なっていた。鳥居の“礫”と呼ばれる千葉流の除霊術で退治した事になっていたのだ。
全員から口々にそう説明されて、酷く眩暈を覚えた。
私の記憶が間違っている? いや、記憶が改竄されている。
最初に思い至った可能性は、それだった。不安そうな面持ちのメンバー達の顔を見て、私は無意識に顰めていた眉を戻す。
記憶が改竄されている。
ひとまず、その前提は合っているとしよう。では、改竄されているのは私の記憶か否か。
私の思考は高速で回転した。
ふと、閃くものがあった。
二回目に独会へと訪れた時、私は翼から詰問された。鞄に憑いていた女性の霊に寄り添うように、少女の霊が居たのである。希薄ながらも、確かに。私はそれに気づいて逃がそうと試みたのだが、葛西は明らかな殺意を以てその燃焼能力を少女の霊に向けようとした。しかし翼は、あの時の少女の霊に気づいていたのは、自分自身と私の二人だけだったと言い放った。
だからこそ、あの殺意は少女に向けられたものではなく、私に向けられたものなのではないかと勘繰ったのだが…… そうではなかったのだ。
翼も、記憶を改竄されていた。初日の部室に葛西真一が居たという記憶が消滅していたのである。思い返せば、確かに初日の彼は誰とも…… いや、初日に限らず、彼は誰とも会話をしていない。事情を知らない私を除いて。何故なら彼は、去年の冬に死んでいるのだから。
記憶の改竄は、葛西がその場に居ない時のみ発生している。そして、葛西が現れている時、全員の記憶はまるでずっと繋がっていたかのような一致を見せる。要するに、葛西真一が死ななかった世界の延長。
その切り替えのタイミングは……。
私は、ようやく全体像が把握できた。
葛西が、独会の部室に居る時である。
私は、彼をそこでしか見た事がない。私が部室に足を運んだ時、彼は既に決まった席に座っている。若しくは“いつの間にか”居る。彼が話し始めるまで、そこに居ると気づかなかった事が何度もある。影の薄い人間だとは思っていたが、こうなると別の意味を持ち始める。そして、私が部室を出る時、葛西は最後まで残っている。彼が部室を出る瞬間を見た事がない。
 
「葛西真一は、独語研究会の中でしか存在していない」
 
それが私の結論だった。
葛西が部室に現れている時、メンバー全員の記憶が改竄されて、彼が死なずに四年生になっているという世界に書き換えられる。逆に彼が部室に現れていない時は、去年の冬に死んだ世界のままなのだ。
即ち、私の記憶だけが改竄されていないという事である。
何故?
翼が、混乱する私の背中を押して部室の外へと連れ出した。薄暗い廊下で二人きりになり、私は翼にすべてを話した。これまでの事と、私の考えを。
 
―――
 
そして、翼は今日、私を北海道の道南に位置する花嚴町への小旅行に誘ったのだった。
錆びた電車に揺られて南西へ約一時間半…… 駅から歩いて約三十分の寂れた場所に『花嚴葦牙記念館』はあった。
私は何故こんな僻地まで連れてこられたのか分からなかった。翼はいつになく難しい顔をして、「順序立てて説明するわ」と言うだけだった。
 
「花塚君。花嚴葦牙について知っている事は?」
 
ゆっくりと翼が訊ねてきた。
 
奈良時代の右大臣であり、遣唐使。仔細は知らないが、時代にそぐわない知識人だったそうだな」
 
「そうね。花嚴葦牙は地方の豪族出身で、低い身分に生まれながらも七一六年に遣唐使になって、唐から多くの書物を持ち帰った。その功績と、当代随一の知識人・学者としての実績で地道に位を上げていって、遂には朝廷の中枢で辣腕を揮うまでになった。当時権勢を存分に振るっていた藤原氏と角逐しながらも、皇太子、親王時代からの教師役としての関係性から、数代に渡って天皇から庇護されて、また良く補佐をしたと伝わっているわ。さらに二度目の遣唐使を経て、七六四年に起きた“藤原仲麻呂の乱”の追討軍を指揮して、それらの功績も認められて太政官、右大臣にまで上り詰めた。学者の身でここまでの出世を果たしたのは後にも先にも菅原道真の他、彼しか居ない」
 
「そして、花嚴町のヒーローとなった」
 
「その通り」
 
翼が長い髪を揺らして首肯した。相変わらず金色と紫色のツートンカラーという奇抜な髪だが、見慣れると何とも思わなくなってくる。
 
「花嚴大臣入唐絵巻」
 
私はガラスケースに仕舞われた絵巻物の表題を読み上げた。
聖徳太子の『唐本御影』さながらの装束に身を包んだ人物が空を飛んでいるという、何とも名状し難い絵だった。説明を読むに、花嚴葦牙が飛行自在の術とやらで唐の宮殿に向かっている場面らしい。
横で翼が注釈を入れてくれた。
 
遣唐使として入唐した花嚴葦牙が、唐の皇帝から無理難題を出されながら、鬼…… つまり、鬼と化してしまった安倍仲麿の霊力を借りてそれらを解決していく、痛快な御伽噺ね。これはそのレプリカなのよ。本物はボストン美術館の所蔵」
 
「超能力を持つ英雄譚か。時代が時代なら、漫画化にアニメ化にと引く手数多だっただろうに」
 
「確かに。花嚴葦牙は陰陽道の奥義書『金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)』などを日本に持ち帰り、日本における陰陽道の祖とも言われているわ。安倍仲麿の子孫に陰陽道を説いたという話も。あの安倍晴明の源流とも言える伝説よ」
 
私は頷きつつ、次の展示品に目を移した。
 
「ハナツミチ氏、古墳、出土品」
 
ガラスケースの中を覗き込むと、土器の欠片が並んでいる。カザイには“花路”という漢字が宛てられていた。
 
「花路氏、火葬墓。青銅製骨蔵器」
 
甕のようなものが展示されていた。またも翼が補足する。
 
「花嚴葦牙は、花嚴地方に古来より勢力を持っていた花路(ハナツミチ)一族の出身なのよ。花嚴の氏を名乗る前は花路朝臣(ハナツミチノアソミ)と呼ばれていたわ。この辺りの墓は国指定史跡だし、その骨蔵器は国指定文化財よ」
 
「へえ」
 
私は、滔々と説明する翼に感心していた。
 
「花路氏は、花嚴葦牙を輩出した後、中央政権に勢力を伸ばさず、密かに陸奥国出羽国に介入を続けて、蝦夷地方の豪族として隠然たる力を保持する事に努めた」
 
次のコーナーには鎧兜が飾られていた。
そこに『葛西党』という説明書きが見えて、私は息を呑んだ。
翼はそれを見ながら、さして表情を変えずに落ち着いた声色で言葉を繋ぐ。
 
「葛西(カザイ)党は、平安時代末期に武士化した花路氏の末裔よ。主に東山道で活動していた武装勢力
 
鎧兜の隣には、モノクロの写真が置かれている。
 
「これは葛西党の首塚の発掘現場を写したものね」
 
写真の下には、蛇行刀のような物が飾られていた。それが“蛇行刀”と言い切れなかったのは、確かに剣身は曲がりうねっているいるのだが、剣先が幾重にも分かれていたからだった。これでは、まるで……。
 
「葛西党は武士集団であったけれど、基本的には呪術、祭祀を根本に据えた組織だった。先祖である花路氏からの伝統を守っていたのね。その宗家は様々な祭祀を司り、神権政治に似た支配構造を有していた。そして」
 
博物館の展示はそこで終点だった。古墳時代から続く花路一族の歴史は、戦国時代で唐突に途切れている。
日に焼けた『出口はこちら』という案内板の前で、翼は何もない空間を見つめながら続けた。
 
「葛西党の宗家は、戦国期に三つに分裂した。引き続き支配権を有する葛西宗家は神道を司った。陰陽道を司ったのは稗苗(ひなえ)家。そして呪禁道を受け継いだのが」
 
翼は私を指さした。
 
「花塚(はなづか)家」
 
思わぬ展開だったが、驚きはなかった。それが翼には意外に見えたようだ。
 
「心当たりでもあったのかしら」
 
「いや…… 流石に先祖の事は知らないが、物憑きだの何だのと言われてきた家系だからな。件の花路氏とやらは出羽国――秋田県まで手を伸ばしていたそうだし、或いは、と思っただけさ」
 
生憎と、その呪禁道は私の代まで受け継がれはしなかったようだが。
私達は案内板に従って『花嚴葦牙記念館』を後にした。空調の利いた屋内から出ると、強烈な陽射しに皮膚が痛みを覚える。
 
「次は?」
 
私は翼に問い掛けた。
この小旅行が、博物館の一つで済むはずがないと確信していたからだ。