もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
「――ほら、早く起きろ。朝食が冷めるぞ」
深い水底から浮き上がるように、意識が覚醒した。暴力的な陽射しがカーテンと瞼を難なく透過して、油断しきった瞳孔に入り込む。
薄っすらと瞼を開けて周囲を探ると、ベッド脇に映が立っていた。
いつかの再現のようだと思ったが、よくよく見ると、彼女の顔に疲労の色があった。あの時にはなかったものだ。
被っていたタオルケットを払い除けて上体を起こすと、両肩に気怠さを覚えた。疲れているのは、私も同じらしい。
もう、あの時とは違う。何もかも。
私は昨日、哲学の家で夜遅くまで話し合っていた。釈迦郡も交えて。彼女は、そのあまりの非現実的な話の数々に初めこそ疑いの態度を示していたが、曽根の死が哲学の指示によるものだと告げられた時は言葉を失っていた。さらに哲学自身が犯罪組織の構成員だと知らされてからは、こちらが居たたまれなくなるくらいに悲痛な面持ちで涙を流した。一方で哲学も、父である学文の倒錯的な行為を知って青ざめていた。しかし安良城の目的を伝えると、一転して憤慨した。私には哲学の怒りの源泉が分からなかった。父親を拉致されたから? 相手が安良城だから? 次の標的にされたから? どれも微妙に違うような気がした。
兎も角、あらかた話し終えてから対策を考えた。このままでは座して死を待つのと変わらない。攻勢に出られるような有益な情報を哲学に期待したのだが、得られたものはほとんどなかった。曽根を始末する際に利用したという構成員とも、連絡は取れなかった。使い捨てのプリペイド携帯で“船頭”と呼ばれる仲介役を通じて連絡を取り合うのが決まりらしい。ひとたび指示を出したら、二度と繋がらなくなるそうだ。身元確認が要らず、幾つでも所有できる携帯電話…… いずれ規制されるだろうが、犯罪として利用するにはこれ以上ないほど便利な代物だ。
結局、対策らしい対策は立てられず、「可能な限り早く大元を断つのが良い」という短絡的な結論に辿り着いた。
大元を断つ…… 即ち、安良城遍を殺すという事だ。
とは言え、言うは易く行うは難し。相手は、自らの命すら顧みず特攻してくるような構成員を持っている。それに、それらを取り纏めているのは他でもない容だ。自分自身と娘に刃が向けられる事も見越して、幾重にも罠や逃げ道を仕掛けているに違いない。
憂鬱な思いと、眠気に後ろ髪を引かれながらベッドから抜け出すと、映は若干驚いたような顔をした。
「今日はやけに素直じゃないか」
「いつも素直だよ。それより、今日は休み?」
「その予定だが、目良さんが居なくなったからな…… いつ駆り出されるかも分からない」
「本当に大変な仕事だね」
軽口を叩いてリビングに向かう。
テーブルには既にトースト、ハムエッグ、サラダ、コーンスープが用意されていた。有難い事だ。映も疲れているだろうに。
映が帰宅したのは日付が替わってからだった。詳細は聞かなかった。上司である目良が死んだ事で、部下の映に様々な雑務が押し付けられたのは想像に難くない。私のせいで目良が死に、映が迷惑を被った。
つまるところ、彼女の疲労は私のせいでもあるのだ。それを思えば、ベッドで駄々を捏ねるわけにはいかない。
椅子に腰を下ろして、手を合わせた。
「いただきます」
トーストに齧りついた時、口内に鋭い刺激が奔った。昨日噛みちぎってしまった箇所にトーストの破片が刺さったようだ。次いで、その直後の出来事を思い出す。
思わず、向かい側に座っている映を覗き見た。眠そうな目でコーンスープを傾けている。
あれは…… 浮気に入らない、よな? 私からしたわけではないし…… という言い訳は通用しないだろうな。あえて伝える事でもないし、黙っていよう。
後ろめたさに視線がテレビのほうへ流れていく。映し出されていたのは地方のニュースだ。女性キャスターが深刻そうな顔を作って原稿を読み上げていた。
『捜査関係者によりますと、行方が分からなくなっているのは手形扇田に住む十七歳の女性――百雲往子さんで、一昨日の未明、連絡が取れなくなったと警察に相談がありました。行方不明の届出を受けて警察が捜査したところ、自宅からおよそ二キロほど離れた広面二階堤の住宅街で所持品と思しき鞄が発見されたそうです。警察は何らかの事件に巻き込まれた疑いがあると見て、捜査を進めて――』
手形扇田と言えば、私達が住む広面二階堤(ひろおもてにかいつつみ)のすぐ近く…… 通っている高校の隣の街だ。百雲はそこに居たのか。そしてこの街で行方不明となった。
「今のニュース…… 百雲往子って言っていたが、ちょっと前に送り届けた娘がそうじゃなかったか?」
コーンスープの入ったマグカップをテーブルに置いて、映が訊ねてきた。
「……そうだね」
「そうだね、って…… お前、まさか知っていたのか? 報道されるよりも早く」
ドレッシングを掛け忘れたサラダを咀嚼しながら、頷く。
どうしてこうもサラダというのは飲み込み難いのだろう。無駄に咀嚼する回数ばかり増えていく。しかし、今更ドレッシングを冷蔵庫まで取りに行くのも面倒臭い。
「助けられなかった。どうにかしてみせると大言を吐いておきながら、この体たらく。無様だろう?」
半ば自棄を起こしたような私の愚痴に、映は何も言わなかった。
結果を見れば、百雲が想像する終着点から近い場所に着地しただけ。
それを助けられなかった? 救えなかった? 思い上がりも甚だしい。
私は自分自身の目的の為、使えるものを使えるだけ利用した。それだけの事だろう。成果を得るまでの過程で、副産物的に彼女の人生に触れたに過ぎない。そのわずかを食い物に、感傷に浸るという善性を今更求めるなど……。
残ったトーストを口の中に放り込んで、それをコーンスープで流し込む。ハムエッグを食べる気力はなかった。
『今頃は樽の中で塩漬けになっているんじゃないでしょうか。あたしには分かりませんけど、子供の…… それも女子の肉は結構需要があるみたいなんです』
あの話を聞いてしまった後では。
しかし、捨てるのも勿体ない。映が作ってくれた料理だ。椅子から立って台所の棚からラップを取り出し、皿ごと覆い被せてから冷蔵庫に仕舞った。彼女の料理も、あと何回食べられるか分からない。
「そういえば、テーブルに置いてあるお前の携帯電話。夜中に鳴っていたぞ」
「携帯……?」
ぼんやりと昨晩の記憶を辿る。確かに、哲学達との会話を終えて帰宅した後、私は携帯電話の電源を入れて釈迦郡の番号を登録した。あれから電源を落とした覚えは、ない。慣れない手つきで着信履歴を確認すると、やはり釈迦郡からの着信だった。まさか本当に掛けてくるとは。
ただの世間話がしたかっただけなのか、それとも重要な話があったのか。判然としないが、留守番電話にメッセージが残されていないので大した用件ではなかったのだろう。
どうせ、近々また顔を合わせる。用件があるならその時に聞こう。それまで何事もなければ良いのだが……。
「はゆる」
「ん?」
「お互い、ままならないものだね」
「……あえて訊かないけど、何かあればすぐに頼るんだぞ」
眉尻を下げて覗き込んでくる映に頷いて応えた。
その後、シャワーを浴びて、着替えて、いつもより早く家を出た。珍しく携帯電話を持って。時刻はまだ午前六時を過ぎた頃…… 学校へと向かうには早いが、今日は火曜日。となれば、『精神病態医学研究所』の通院がある。だが行く必要はなかったやもしれない。この一週間、処方してもらった薬を一切飲んでいない事に気づいたのは昨晩だ。一週間分の在薬があるのだから、わざわざ追加で処方してもらう意味は…… 意味なら、あるか。水主は私を研究対象として診ている。だからこそ、一ヶ月分や二ヶ月分と大量に処方せず、一週間ごとに足を運ばせている。一週間ごとに情報を更新していく為に。
それからもう一つ。烏合之衆の主だった手段が毒殺であり、烏合之衆のトップが容だと判明した時点で不思議には感じていた。
容は、医学・薬学の道には決して手を出さなかった。修めようと思えば容易く修められるだろうが、私の知っている容はそうだった。全環と比べられてしまうからと。
だから、烏合之衆には医学・薬学に長けた人間が居るのではないかと思い至るのは当然の帰結だった。
そして哲学が教えてくれた“船頭”なる仲介役……。
「それが、あたし…… 水主だと?」
西向きにしか窓のない診察室は薄暗く、デスクで気怠そうに椅子の背もたれに身体を預けている水主は静かに微笑んだ。それは自嘲しているようにも見えた。
「すべて私の憶測に過ぎません。御存じだとは思いますが、船頭(せんどう)という熟語の成立時期は古く、『万葉集』の中にもその記述があるほどです。当時は梶取りの子という言葉が略されて船頭(かこ)と読まれていましたが、時代が下って『平家物語』が世に現れる頃になると、船頭(すいしゅ)と読まれるようになりました。水主と船頭…… この符合に関連性を見出すなというほうが難しいかと」
「考え過ぎではないかしら」
「そう捉えて良いのですね?」
念を押すように問い掛けると、水主はまったく関係のない話を喋り出した。
「あなたは、不要電波問題対策協議会が四年前に作成した『携帯電話端末等の使用に関する調査報告書』という実験データを知っている? 医用電気機器への電波の影響を防止する為の携帯電話端末等の使用に関する指針とも呼ぶのだけど、端的に言うと、医療機器が携帯電話による電波干渉を受けるかどうかを調査したもの。聞いた事はあるでしょう? 身体に埋め込んだペースメーカーが誤作動を起こしたとか、そういう事件。仔細は省くけれど、現在市井に出回っている携帯電話は送受信の際の出力が大体七百ミリワットから八百ミリワット。一方でPHSはその十分の一程度の出力だから、総合病院などの大きな医療施設の医療従事者はPHSを利用している事が多いの。携帯電話による医療機器の誤作動が死亡事故に発展したケースは未だ報告されていないものの、病院としては、『患者に配慮しています』というポーズを取らないといけないからね」
水主が湛える笑みも、落ち着いた物腰も変わりはない。なのにそれは、普段の彼女から感じられる温かみのある表情ではなく、冷たく不清なものへと変貌していた。優しく、残酷で、吸い寄せられそうだった。
「この『精神病態医学研究所』の屋上を見た事は?」
静かに頷く。
「携帯電話とPHSの最も大きな違いは通信方式の違い…… それと、手軽さかしら。PHSを利用するのに不可欠な基地局の設置は業者に任せれば数分で済むけれど、携帯電話の基地局は規模が大きくて、とても時間が掛かるの。今度機会があれば屋上まで連れていってあげるわ。携帯電話用の基地局があるから」
そう言われて、先週の通院の時に見た屋上の鉄塔を思い出す。沢山の雀が集っていて、警告するように鳴いていた。
「……精神科とは言え、ここは病院でしょう? それなのに携帯電話の基地局が? それに、失礼やもしれませんが、医療従事者同士で携帯電話のやり取りを行わなければならないくらい大きな病院には見えません」
率直な意見を述べると、水主はゆったりとした動作で口元を抑えて、「ふふ」と笑った。
「優しいけれど、意地悪な子。あなたの中ではもう答えが出ているのに、あたしの口から言わせたくて仕方がないのね」
水主の言葉には、疲れが滲んでいるように感じた。
「仲介役を担う為には、携帯電話の繋がる環境が必須だったの」
遂に、言った。遂に……。
しかし、水主の自白だけではこの一連の事件は終わらない。ここで鬼の首を取ったように勝ち名乗りをあげる事に意味はない。
水主は口元を覆っていた手を下ろして、床下を指差した。
「烏合之衆の“箱”は、ここの地下」
そして背もたれから身体を起こすと、そのままの勢いで立ち上がる。
「行きましょう。容さんも、あなたを待っているわ」
そう言って私の横を通り抜けていった。私はその背中を見失わないよう、慌ててついていく。
「容が居るのですか。今、ここに。そもそも、水主先生ほど分別のある女性が何故あいつに加担したのです」
「買い被り過ぎよ。でも、そうね…… 一言で表すなら、あたしもあなたのファンだから」
「ファン?」
水主は病院の最奥にあるスタッフルームのドアを開け放って、室内に足を踏み入れた。同じ様に続くと、なかは簡素なロッカーが三つ並んでおり、さらに奥に重厚そうな扉があった。鍵穴は二つ。頑なに侵入者を拒むように立ちはだかっている。
「言ったでしょう? あなたはとても魅力的なのよ、研究対象として。容さんからあなたの話を聞かされた時から、あなたの事しか考えられなくなっていた。あなたがこの街に訪れて、この病院に顔を出す日を、今か今かと待っていたわ。あとは流れのままに…… あなたを診る権利を得る代わりに、あたしは容さんの協力をした」
「……釣り合っているとは到底思えませんが」
水主がポケットからキーケースを取り出して、二箇所の鍵を開錠した。やけに重々しい音がスタッフルームに響く。そしてドアノブを捻ると、地下へと続く階段が現れた。悪意が口を開け広げている。そう表現して差し支えのない嫌な予感が、全身を駆け巡った。
「取引が常に対等であるとは限らないの。それに、あなたは自分自身を過小評価している」
水主は躊躇なく階段を下りていくと、その中程でこちらに振り返った。
「誤解しないでね」
と言いつつも、水主に誤解を恐れる様子はなかった。
「容さんとの取引は、あたしのほうが有利だった。たったの四ヶ月弱だったけれど、あたしにとってはとても有意義な時間だったわ。本当に。眠れなくなるくらいに」
水主は笑っていた。それは先程のような微笑みではなく、侮蔑の入り混じった笑顔。
再び正面に向き直って階段を下る。私もその後をついていった。物凄く長く感じた。底などないのではないかと錯覚してしまうほどに。しかしすぐに階段は途切れた。
暗い。最低限の照明しか点いていない廊下は、地下牢と呼ぶに相応しい様相を呈していた。廊下を真っ直ぐに進んで右に折れ曲がった時、強烈な死臭のようなものが鼻を衝いた。臭いのするほうへ視線を向けると、やや小さめの扉があった。鍵穴らしきものは見当たらないが、施錠はされていないのだろうか。
「そこは駄目」
先導する水主が短く告げた。
そう言われると余計に想像力が掻き立てられるが、どう考えても最悪な光景しか浮かんでこない。触らぬ神に、というやつだ。
しばらく歩いていくと、一際厳重そうな扉に突き当たった。ここも鍵穴が二つ。しかし水主は開錠する素振りを見せなかった。廊下の端に寄って、先に行くよう促してくる。
もう開いているという事か。そしてこの部屋の中に……。
「さようなら」
この数日で、顔見知りが一気に減った。水主もそのうちの一人になる。それが理解できた。
私は別れを告げる彼女に何も応えず、扉のドアノブを捻って押し開けた。