大学生時分の話をしよう。
夏期休業を間近に控えた北星学園女子高等学校の正門前は、やけに騒がしかった。女子高は得てして騒がしいものだと言われたらそれまでなのだが、所謂“姦しい”様子ではなく、どこか不穏な喧騒に包まれている。
私は歩く速度を心なしか早めて、正門から校舎を覗こうとすると、運良く目的の女子生徒が帰路に就こうとしているところだった。
 
「奇遇だね」
 
白々しく声を掛けると、女子生徒――鳥居繭が唖然として立ち止まる。
 
「なっ、なっ、なんで居るんですか、花塚さん!」
 
「いや。ふと鳥居の顔が見たくなって」
 
咄嗟に出た言葉だったが、あながち嘘というわけでもない。
恐らく、鳥居は知らない。数日前に命を狙われていた事など。ひょっとしたら、全環のハッタリだった可能性もあるが、私があの訳の分からない思考実験で負けていたら、鳥居か、若しくは小羽が殺されていたやもしれないのだ。結果として白星を掴めたものの、実際にこうして顔を見るまでは安心できない。小羽とは既に大学キャンパス内で顔を合わせている。残るは鳥居だった。
 
「……は? え? は?」
 
理解の追い付いていなさそうな鳥居が、素っ頓狂な声をあげる。
いちいち説明する意味はないと思って、必要な事だけを率直に訊ねてみた。
 
「この数日間のうちに、不審者を見かけなかったかい。身長百九十センチくらいで、傷跡だらけの男なのだが」
 
すると、鳥居はしかめっ面でこちらを指さした。
 
「いま、まさに」
 
「そうではなくて……」
 
確かに伝え方が悪かった。今のでは、私も含まれてしまう。どうしたものかと言葉を選んでいると、校舎のほうから無数の視線を感じた。女子生徒達が校舎の窓から身を乗り出して、こちらを窺っているのだ。
 
「うっ」
 
私よりも先に、鳥居が気まずそうな顔をした。
 
「ああもう! とりあえず、こっち! はやく!」
 
鳥居は駆け足で正門から離れる。私も拒む理由はないので、それに続いて走っていった。
しばらく走ってから、横道に入り、周囲に知人・友人が居ない事を確認してから鳥居は一息ついた。そして、こちらに向き直る。
 
「もう一度訊きますが、何なんですか。何で居るんですか。学校には来ないでくださいって言いましたよね?」
 
「まあ、そうなのだが…… 風の便りで今日は千葉流の稽古があると耳にしたもので」
 
私の言葉を聞いて、鳥居があからさまに驚く素振りを見せた。
 
「情報源は翼だよ。ほら、たまにあるだろう? 鳥居が独会に来ない日。或いは、来てもすぐ帰ってしまう日。何となしに翼に訊いてみたら、『そういう日は千葉流の稽古日なのよ』と」
 
「だ、だったら何なんですか」
 
「その千葉流とやらが一体どういう鍛錬を積んでいるのか、知りたくて」
 
「それだけで、わざわざ……?」
 
「うん? ひょっとして、あれか。門外不出だったりするのかい? 昔は門弟を沢山抱えていたのだと翼から聞いたが」
 
「……はぁああああ」
 
鳥居は額を手で覆って深い溜息を吐いた。
 
「頼む。一度で構わない。是非とも体験させてほしい。千葉流を。どうしても知りたい。千葉流の事と、鳥居の事を」
 
「う、ううっ」
 
祈るように両手を合わせて懇願すると、鳥居は返答に窮したように視線を泳がせるて、小さく呻いた。が、すぐに視点が定まる。
 
「両手、どうしたんですか」
 
鳥居の目が私の両手を捉えた。私の両手は包帯によって指先まで白く覆われている。
 
「体験させてもらうつもりだからさ。万が一の為のグローブ? 的な? 専門的な道具は持っていなかったから、包帯で代用してみた」
 
私は拳を作ったり広げたりして、何もない事を装いながら、嘘を吐いた。
事実を説明したところで理解は得られない。あの思考実験とは名ばかりの兄弟喧嘩で負った傷だとは、言えるはずもない。
とは言え、その場しのぎの嘘はそれなりの効果を発揮してくれたようで、鳥居はしばらくしてから、「分かりましたよ」と観念したような声を出した。
 
「でも、お祖父ちゃんがダメって言ったら、本当にダメですからね」
 
―――
 
鳥居の家は札幌市に流れる石狩川の側にあった。城跡なども点在しており、古い日本家屋が立ち並ぶ一角だった。歴史ある家柄の旧家が多い地域だと、余所者の私でさえ判る。鳥居の家も、ご多分に漏れず、大きな敷地の家だった。
 
「立派だ」
 
私がその門構えの造りに感心していると、鳥居はそそくさと門を潜り抜けて、「お祖父ちゃんに聞いてくるんで、ちょっと待っててください」と言い残していった。
その時、目の前に一台の自転車が止まり、坊主頭の青年が片方のペダルから足を外しながら、「うそだろ」と言って私達を交互に見やった。
まず口を開いたのは鳥居だった。
 
「正之介(まさのすけ)…… あんた、なんでこんな時間に帰ってきてんのよ」
 
「はあ? ユニフォーム忘れたから取りに戻ってきただけだっての。そんな事より、誰だよ、こいつ」
 
「し、親戚の…… 叔父、は無理があるか。ええと、兎に角、ただの知り合い」
 
「あぁあああ? 知り合いぃぃ? ふぅん」
 
鳥居から“正之介”と呼ばれた青年は無遠慮な視線をこちらに向けながら、自転車を降りて、玄関の門をくぐった。背格好としては鳥居と変わらないくらい。百七十と少し。
 
「知り合いぃぃぃぃぃ?」
 
声が遠ざかって完全に聞こえなくなるまで、青年はその言葉をひたすらに繰り返していた。
 
「弟さんかい?」
 
訊ねると、鳥居は溜息を吐いて答えた。
 
「そうです。同い年ですが、わたし、鳥居家の養女なので。あいつはこの家の子です」
 
「なるほど。弟の正之介君か」
 
私は幾つかの想定し得る将来を脳裏に過ぎらせたが、何を勘繰ったのか、鳥居はもう一度溜息を吐いて、「やめてください。兎に角、ここでちょっと待っててください」と言い置いて、さっさと家の中に消えていった。
それからおよそ十五分後…… 私は、鳥居家の中に設けられている板張りの道場の中に立っていた。
かなり広い。翼の情報通り、昔は沢山の門弟を抱えていた事が窺える。道場の最奥には『千葉流』と記された看板がある。相当年季が入っているようで、立て掛けられているだけでも厳かな雰囲気を放っていた。
その道場の中程で、私と向かい合っているのが鳥居の祖父にあたる、鳥居像守(とりい かたもり)だった。
白い道着と、黒の袴。合気道で見るような恰好をしている。いかにも古流武術という出で立ち。腰から下…… 主に膝の動きが重要となる流派なのだろう。それを袴で隠している。
その鳥居像守は、武道家らしく短く刈り上げた白髪交じりの短髪で、六十過ぎだと言う年齢に相応しい年輪が顔に刻み込まれていた。だが、道着から覗いている肌の張り、筋肉量には目を見張るものがあった。勝手なイメージで申し訳ないが、古流武術の達人は枯れ木のようにせ細っているものと決め付けていた。それでも尚、襲い来る大男を雑草さながらに毟り取り、華麗に投げ飛ばす。そんな先入観があった。しかし、この鳥居像守は今現在でも土木作業員顔負けの肉体派のようだった。
 
「ううむ…… 見学とやらも、何年振りとなるか。花塚君と言ったか。何を嗜んでおるのかな。まったくの素人でもあるまい?」
 
立ち姿だけでも絵になる像守が、落ち着いた声色で問い掛けてきた。
 
「実戦格闘術に、詐術と呪術を少々」
 
対する私は私服…… 長袖のワイシャツにスラックスのまま。靴下は脱いで、裸足だった。道着を貸してくれると言われたが、私の背丈には合わなかった。
壁際には同じく道着姿の鳥居と、その弟である正之介が立っていた。
 
「ちょっと。あんたまでどうして道場に居るのよ。野球はどうしたの。ユニフォームを取りに来たんでしょ。さっさと戻りなさいよ」
 
ひそひそと鳥居が同い年の弟に言う。
 
「別にいいんだよ。今日は監督も居ないし、内野組は自主トレ」
 
「そんな中途半端だからレギュラー取れないのよ」
 
「ざけんな。春の新人戦、セカンドでスタメン張ってたっての」
 
「だったら余計に頑張らないといけない時期じゃないの」
 
ぎゃあぎゃあと、何やら言い争いをしている。仲睦まじい事だ。
 
「あれらは放っておいて…… 今日は稽古が見たいという事で良いのかな?」
 
像守が温和な表情で訊ねた。
 
「ええ、勿論。それよりも申し訳ありません。突然押しかけてしまいまして」
 
「いやいや、構わないよ。ただ、今はもう他人様に見せられるような演舞などはやっていないので、面白味はないかもしれないが」
 
ははは、と気恥ずかしそうに頬を掻く像守の言葉に、正之介が口を挟んだ。
 
「てかさ、これって道場破りじゃねえのか?」
 
「正之介。急に何を言い出すの」
 
「うっせえな。そもそも、繭の何だって言うんだよ」
 
「だから、通っているサークルの先輩…… いや、後輩? 兎に角、お世話になっているの」
 
「世話ぁ? 繭が行ってんのって独語研究会とかいう文化系サークルじゃねえか。なんでこんなのが入ってきてんだ」
 
いかにもな喧嘩腰で、正之介がこちらへと近づいてくる。身長は私のほうが十センチ以上高いので彼が見上げる形になるが、それすらも気に食わないようだった。
 
「なあ、祖父ちゃん。俺がやっていいだろ。そこのあんたも千葉流ってのが見たくて来たんだよな? 稽古見るより、身体で覚えていけよ」
 
「な、なに言っているのよ。もうずっと稽古していないくせに、こんな時だけ出しゃばってきて」
 
「稽古しなくたって、まだ繭には負けねえよ!」
 
「はあああ? あんた、わたしに勝てる気なの?」
 
仲睦まじい…… のか? よく分からないうちに二人がヒートアップしてきてしまったので、何故か私が仲裁に入る形となった。
 
「まあまあ。教えてもらえるのであれば、一手ご教授願おうかな。正之介君に」
 
「ほら。向こうもそう言ってんだから良いだろ、祖父ちゃん」
 
像守は愉快そうに笑っている。
 
「よかろう。ただし、怪我には細心の注意を払うように。首から上への攻撃もナシだ。噛みつきも。それでよいかな」
 
私と正之介は顔を見合わせてから頷いた。
 
「では、繭」
 
像守が、まだ何か言いたげな鳥居を促して、一緒に道場の壁際まで下がる。
静謐な空気が流れている道場の真ん中で、私と正之介が向かい合った。像守の号令が飛ぶ。
 
「互いに礼。では、始め」