大学生時分の話をしよう。
私は、知識のない流派が相手という事もあって相応の距離を取り、慎重に両腕を構えた。
 
「左構え…… 彼は左利きか。それに、あの腕から指先まで覆い尽くしている包帯は何だ。凶器を仕込むにしろ、あからさま過ぎるが」
 
像守の呟きが聞こえた。
対する正之介は両手を腰の位置に下げたまま、べた足で立っている。
私が両手の拳を作った状態で、上半身でリズムを取っているのを見て、また像守がぼそりとこぼした。
 
日本拳法? いや、喧嘩か」
 
「あっ」
 
鳥居が声をあげた。先に仕掛けたのは私だった。リーチ差を活かす為に取っていた距離を一気に詰めて、右の拳を胸元目掛けて突き出した。正之介は余裕をもってそれを躱す。相手の出方が判然としない以上、私の踏み込みも様子見程度だった。
互いにまた距離を取った後で、今度は正之介が踏み込んだ。
いや、実際には踏み込んでいない。袴に隠れた膝の動きを見ようとした隙を狙われたのである。
見た事のない動作で、瞬く間に距離を潰された。
直突き。
繰り出された正之介の右拳は捻りを加えない縦拳だった。
正確に鳩尾を狙ってきたそれを右手で払い、間断なく前蹴りを放った。倒す為の蹴りではない。仕切り直す為の、間合いを取る為の押すような蹴り。正之介もそれを理解した上で冷静に受け止めて、身体を後方へと流した。
 
「やるなあ…… 今ので終わらせるつもりだったってのに」
 
正之介は余裕の表情で、再度距離を潰してきた。
今度は私もそれを視認できた。やはり膝だった。膝を抜いて、前に倒れ込む動作を利用してきたのだ。
縮地と呼ばれる古武道の足運びだった。知識としては頭に入っていても、こうして目の当たりにするのは初めてだ。
人知れず妙な感動を覚えていると、あっという間に懐に入られた。両手で捻じるようにワイシャツを掴まれて、さらに身体ごと回転させようとする。
担ぎ技…… 身長差の有利不利を活かしたわけか。
背負い投げに入ろうとしていた正之介に対して、咄嗟に後方に体重を掛けて抗う。正之介は即座に投げられない事を悟って体勢を戻す。その隙に抜け目なく脇腹に肘鉄を入れようとしていた。
 
「うそだろっ」
 
私も同時に身体を反転させてそれを弾く。体格差や体重差はどうしたって無視できない要素である。体重の軽い正之介は私に弾かれただけで、壁際までつんのめるようにして転がっていった。
当然の結果だった。
 
「まだまだ!」
 
正之介は、そのまま威勢良く立ち上がる…… 事ができずに、壁にもたれ掛かって、「あれ?」と崩れ落ちてしまった。
 
「それまで」
 
残心で待ち構えていた私は、像守の声で構えを解いた。
 
「平気? 正之介」
 
鳥居が声を掛けて、道場の床に寝かせる。
当の正之介は焦点の定まらない目をしていたが、やがて恨めしそうに、「クッソ痛ぇ」と背中に手を回した。
私は身体を反転させた瞬間に、どさくさに紛れて正之介の腎臓を打った。さらにダメ押しとして、頚椎に鉄槌を入れた。
腎臓へのキドニーブローは狙ったものだったが、頚椎への鉄槌はほぼ無意識だった。首から上はナシと言われていた事にギリギリ抵触してしまっているような気がして、後ろめたい気持ちで像守を見ると、むしろ感心したように頷いていた。
 
「大したものだ。失礼した。自分が相手をしよう」
 
像守が道場の中程に進み出た。私は呼吸を整えながら、油断なくその真向かいに立つ。
像守は、正之介と変わらない体格だったが、立ち姿にまるで隙がない。
言葉に出さず、感嘆する。
頭の先から踵まで、一本の鉄芯が入ったような安定感のある姿…… 二人目だった。こういう姿勢を見るのは、これで二人目。
一人目は、東方正教会でシスターをやっていた変わり者であり、私にキリスト教の洗礼を与えて、戦い方も教えた。
結局、その人間には一度も勝てなかった。
私は、先程何度も見せられた独特な足運び――縮地を警戒していた。リーチを活かそうとするのは下策。千葉流は一気に間合いを詰めてからの技の選択肢に自信があるらしい。
ならば、機先を制する。
私が駆け出そうとした瞬間、「待てッ!」という鋭い声に押し留められた。
 
「武道は礼に始まり、礼に終わる。礼を失してはいかんな」
 
「……失礼しました」
 
狸爺が。
私は気を取り直して一礼しながら、胸中で毒づく。本当は礼など気にしていないくせに。
 
「では」
 
私が下げた頭を戻そうとした時だった。
目と鼻の先に、像守の掌底が迫っていた。
だろうな。
身体の正中線を守るように両腕で受け止めるも、想像以上の衝撃だった。単なる腕力で殴ってきたのではない。足から手まで一直線になるように半身の態勢を取っての完璧な掌底。自分自身の体重のみならず、推進力までも威力に変えるような、一朝一夕では会得できない身のこなし。
 
「今のを防ぐか」
 
底意地悪そうに口角を吊り上げる像守の顔は、それまでの温和な印象を払拭するに充分なインパクトを持っていた。
 
「我が千葉流は、元より水天宮の下男(げなん)である戦闘集団。人々から蔑まれ、汚れ役を担う事を好む、実戦流派…… 小僧。こういう事を、体験したかったのであろう?」
 
言うだけ言うと、像守は縮地を自在に操って一瞬で距離を詰めてくる。
正之介のそれとは格段に練度が違う。より一層動き出しが分からない。詰める距離も長かったり、短かったり、そこへ通常の摺り足を巧みに織り交ぜている。
後手に回るのは良くない。そう判断して右拳を突き出したが、その手を易々と掴まれた。そして像守は腰を切って真横に回り込み、腕を捻って床へと落とすように投げた。
堪えられない事はなかった。だが、堪えた先に幾つもの罠が張り巡らされている事を予感して、素直に投げられた。
背中から後頭部に掛けて、今度は想像通りの衝撃。ダメージはない。私は間髪入れず立ち上がった。
 
「怪我か、小僧」
 
像守が己の掌と、私の両腕を見比べた。気づけば私の包帯には血が滲んでいた。
 
「気にするなよ、爺」
 
「そうか」
 
答えるが早いか、像守はまた縮地を使う。すぐにサイドステップ。だが追い付かれた。膝を抱えるようにして、タックルと同時に掌底を受ける。
首から上も、アリ。
そのまま後ろ倒しになる間際、振りかぶられた拳が視界に入った。狙いは下半身か。
倒れ込みながらも咄嗟に上げた右足による防御が間に合った。
先程のように、強かに背中を打ち付ける。
マウントを取られると思って、直ちにガードポジションの準備をしたが、像守は覆い被さる事なく、腰を浮かせた。
飽くまでも金的狙いらしい。
再び振りかぶられる拳。その付け根である肩を、横たわった状態のまま左足で蹴り込む。
像守としてもそれは織り込み済みのようだ。二の矢として、もう一方の拳を放とうとしていた。
 
「お祖父ちゃんっ!」
 
鳥居が叫んだ。振り下ろす前に拳を止めた像守はゆっくりと姿勢を正す。
 
「どこ狙っているのよ!」
 
「ん…… おお、すまんな。睾丸はいかんか」
 
未だ壁にもたれ勝っている正之介が吼えた。
 
「遠慮しないで潰しゃあ良いんだよ、祖父ちゃん!」
 
「あんたも何言ってんの、馬鹿」
 
「ほほう? 繭のものだったか、小僧の睾丸は」
 
「ち、違う!」
 
家族全員で私の睾丸の話をしている。滅多にお目に掛かれない光景だ。
私は変に感動的な思いで立ち上がると、その間に呼吸を整える事に注力した。
像守は破顔しながら私に正対した。
 
「なるほどな。繭は、千葉流の後継者。ただではやれん。この老いぼれに勝てたら、という事でどうかな」
 
「だから、違うったら!」
 
「……それは良いね。褒美の有無はモチベーションに大きく関わる」
 
「いくぞ」
 
像守の構えが代わった。正之介のような自然体に近いものから、今度は身体をわずかに捻り、右手を腰に当てて、左手でその甲を掴んでいる。まるで居合い。言うまでもなく刀など差していないが、異様な迫力に満ちている。
カウンター狙い?
しかし、像守はその構えのままで、べた足で擦り寄ってくる。袴の下で一体どういう動かし方をしているのか…… 考えていても仕方がない。
縮地よりは遅い。間合いに入られる前に、私が前蹴りを放った瞬間、眼球に痛み。瞼の上から叩かれたのだ。しかし、何故? そこまで間合いを詰められたとは思えなかった。像守のリーチを見誤った? 虚を突いて懐に入り込んだ像守の掌底が顎に迫る。あきらかなブラフだった。狙いは未だ睾丸だろう。身体を捻って躱し、背後に跳んで距離を取る。像守の力なく垂れ下がった右腕を見る。
 
「まさか」
 
肩を外したのか。間合いの外からこちらの視界を奪う為に。
そういう鍛錬を積んできたからとは言え、筋繊維や腱、関節に負担が生じないはずはない。痛みもあるだろう。
恐ろしいな、恐ろしい。
勝つ為なら、自分自身を壊す事も厭わない。間違いなく同類だった。
像守は肩を入れる様子もなく、左手で誘うような仕草をして見せた。
私が挑発に乗って突進すると、その動きに合わせて像守が一瞬のうちに消えた。
横移動にも縮地は使えるらしい。並ぶように腰を当てられる。袖を掴もうとする気配。投げ。
私は防御を捨てて床を力の限り踏み付けた。道場が揺れる。その反発力の向きを変えて、上半身を像守の身体に激しくぶつけた。
像守は宙に浮いて、正之介の比ではないほどに勢い良く道場の壁まで吹き飛んでいった。
 
「震脚! 少林拳も嗜んでいたか」
 
壁際でくるりと向き直った像守は、子供のように笑った。
残念ながら、嗜むと言えるような練度ではない。ただの体当たりに毛が生えた程度。近接戦における不意打ちに使えると考えて、体当たりの種類だけはそれなりに揃えていただけの事。
像守の右腕はまだ利かないようだ。私はもう、距離を詰めていた。そして全力で左拳を振り抜く。間合いの外から。
 
「なっ」
 
左手を添えて防ごうとしていた像守の目元に、鮮血が飛び散った。私の手から滴っている血液だ。
 
「意趣返しさ」
 
視界を奪われている像守の首を両腕で抱え込み、頚椎ごと首を捩じ切ろうとした。単純な腕力ならこちらに分がある。像守も力比べに付き合いたくないようで、腰を落として倒れ込もうとした。それに合わせて沈み込みながら、私は身体を反らせて両足を跳ね上げる。
 
「飛びつき三角! ほどけ! はやく、祖父ちゃん!」
 
正之介が叫ぶ。
 
「無理よ。いくらお祖父ちゃんでも、あれは」
 
鳥居も立ち上がった。
像守の目論見通り、私達はその場で倒れ込む事になったが、首を締め上げている腕と足から一切力を抜かなかった。
やがて相手は動かなくなる。
 
「そこまでです」
 
鳥居が私の肩に触れた。そっと、私は絡みついた手足を解いていく。
 
「祖父ちゃん? おい、大丈夫かよ」
 
正之介が私の血液で血塗れになった像守の頬を叩く。それを見ながら、私は奇襲に備えた。
 
「花塚さんの勝ちです」
 
鳥居が興奮した顔で告げた。
 
「お祖父ちゃんにはわたしでも敵わないのに、凄いですね」
 
―――
 
そうして私は、程なくして起き上がった像守から、「約束通り、繭をやろう」と言い始めたので、固辞した。
終わりの見えない押し問答が続く中、何故か正之介まで参戦してきて、収集がつかなくなったところを鳥居に促されて、逃げ出すように鳥居家を後にした。
 
「いたい」
 
帰り道、周囲に誰も居ないのを確認してから情けなく弱音を吐いた。何重にも巻きつけたはずの包帯は真っ赤に染まっていた。ガラス窓を殴り続けたせいで、大小様々な創傷が両手にできてしまっていたのだ。それ自体は別に構わない。自傷行為の延長と思えば、何の事はない。だが、細かなガラス片を取り除ききれず、未だ皮膚の中に潜り込んでいるものもある。それがやけに痛んだ。
私は足を止めて振り返り、鳥居家を眺めた。
 
「本当に恐ろしかった」
 
漏れる声には実感が伴っていた。
最後の三角締めは極まっていなかった。像守は落ちてもいなかった。なのに、落ちた振りをして私に勝ちを譲ってきたのだ。恐らく、私を後継ぎにする為に。あのまま逃げ出さなければ、流されるままに、千葉流の後継者にされてしまうところだったのである。
 
「狸爺め」
 
私は川沿いの街並みに吹き抜ける夏の風に向かって、愚痴をこぼした。