もうすっかり猛暑期を越えた…… はずなのだが、依然として暑いので高校生時分の閑話でもしよう。
携帯電話の登場は間違いなく人類のあらゆる進歩に貢献したと言えるが、私にとっては無用の長物でしかなかった。いついかなる時でも連絡が取れるメリットにばかり注目されて、いついかなる時でも面倒事が舞い込むデメリットは無視されている。
どう考えても、デメリットのほうが大きい。
映と共同生活を送ると決まった時、一度だけ彼女から携帯電話の利用を打診されたが、にべもなく断った。私には必要ないからと。
なのに、結局は持たされている。去年の十月頃に登場したというプリペイド携帯なるものを。いま流行りの多機能化したものと比べれば大変簡素な作りだったが、購入するにあたって身元確認が不要らしく、利用したい時に利用したい分だけの料金を前払いすれば良いとの事だった。無論、利用したい時など来るわけがない。携帯電話を携帯しないという本末転倒な用途で終わる…… はずだったそれを引っ張り出し、リビングのテーブルに置いた。
灰色にカラーリングされた携帯電話の電源ボタンを長押しすると、およそ二ヶ月にも及ぶ長い眠りから覚めた。そして然るべき番号を入力して、電話を掛ける。そっと耳に当てると無機質な音声ガイダンスが流れ出し、まだ発信利用権が生きている事と、残高が残っている事が一方的に告げられた。
通話を切り、再びテーブルに置く。その横には、安良城から手渡れたノートの切れ端。先程内容は確かめたが、十一桁の数字が羅列されていた。
腕を組み、ぼんやりとそれらを眺めた。
安良城との関係強化が今後に役立つやもしれないのは理解しているし、こちらとしても悪印象を持たれていないのは都合が良い。だが、電話を通じて深めなければならないほどかと言うと、そうでもない気がする。そもそも一手目から誤っていたのだ。携帯電話など持っていない、と切り捨てればそれで良かったのである。事実、比売宮や幸生親子にはそれで押し通してきた。携帯する事もないので、その嘘が露呈する心配もない。
認めよう。あの時は頭に血が昇っていた。小金井の爺に見透かされて、動揺していた。安良城にさえ警戒されていた。これは明らかな欠点。自分自身の欠点を自覚せざるを得ない。
私には、周囲の人間を見縊る悪癖があるらしい。
侮っていた。嘗めていた。対峙する相手が兄の全環ならば、姉の容ならば、そんな馬鹿げた失敗は犯さないかったはず…… という慢心すら危うい。
変身願望者に自殺願望者、我執に囚われて知的好奇心を満たそうとする人間、虎の尾を踏んだと自覚しながら近づいてくる人間。
 
「何故こうも化物しか居ないのかね、私の周りには」
 
どうにもならない独り言が口を衝いて出た。
一方で男…… 能仲は良い友人である。学文も、関係性は薄いが悪人ではないだろう。小金井の爺にしても一杯食わされたとは思うものの、それだけに信用に足る人物だと感じた。他に知っている男は…… そういえば、あれはどうなった? 確か、曽根弦一郎と言ったか。日数的には復帰しても良い頃合い。重要参考人として挙がったのであれば、必ず事情聴取を受けているはずだ。
私の予想では、曽根と比売宮は繋がっている。比売宮は動物実験を繰り返しており、曽根を隠れ蓑としている。だが何らかの軋轢が生じて、或いは不要と判断されて、比売宮に食中毒を仕込まれた。若しくは、可能性としては低いものの、段階を動物実験から人体実験に引き上げる為に曽根自身が己を差し出したという線…… 比売宮の言い分が正しければ、曽根は比売宮に対して好意を抱いている。比売宮が命じたのか、それとも曽根から提案したのか知る由もないが、どちらにせよ、好意を利用して人体実験に至ったのなら曽根は決して口を割らない。私としては、曽根・比売宮共に捕まってくれたほうが助かる。しかし、そういう希望的観測は往々にして外れるものだ。しかも比売宮の逮捕には危険を孕んでいる。彼女がどこまで私を調べ上げているのかにも左右されるが、自棄を起こされて、こちらにまで飛び火しないとも限らない。
私はテーブルに両肘を突いて、掌で顔を覆った。
信じられない。あの雀が鳴かなかった朝から数えて、まだ三日しか経っていないのか。たったの三日間で、これだけの面倒事…… いや、止そう。過ぎた事に構っていられない。明日は? 明日も何か起こるのか?
顔から掌を離して、リビングの片隅に置かれているカレンダーを見やる。
明日は、七月八日の木曜日。となると、学校を終えたら『精神病態医学研究所』でアルバイト。明日こそ、何も起こらないように。
広げていた掌が自然と合わさる。その時、施錠し忘れていた玄関のドアが開け放たれる。
 
「おおっ、今日はちゃんと帰ってきていたか。偉いぞ」
 
パンツスーツに身を包んだ映が、レディース用のローファーを脱ぎながら声を掛けてくる。手には革鞄と、近所のスーパーで購入してきたと思しき野菜等々が入っているレジ袋。
映がテーブルにレジ袋を置くと、その拍子に花瓶に活けられている藤の花が微かに揺れる。昨日、百雲を送り届けてきた映にアルバイトに関する報告をしつつ、手渡したものだ。彼女は、こちらが恥ずかしくなるくらいに嬉々として受け取った。喜び方が釣り合っていない。季節外れの藤の花、しかもたったの一本。
そんな感じの事を告げると映は呆れるようにかぶりを振って、「女心が解っていない」と詰られた。申し開きの言葉もなく、鼻歌混じりに花瓶へと活ける彼女の姿を眺めたのである。
 
「……今から料理を作るのかい?」
 
「そのつもりだけど、どうした? 腹が減っていないとか?」
 
「いや、疲れているだろう? 私が作るよ」
 
映の味には劣るが、不得意でもない。人並みの腕前だと思っている。
とは言え、難点もある。私は、私の作る料理が嫌いだった。気持ち悪くて仕方がない。ほんの少しでも口にするだけで、毎秒ごとに嘔吐中枢が刺激される。摂食障害の傾向はないのに。
 
「久々にお前の料理を食べるのも良いけど…… まあ、気にするな。大して疲れていないし、男子厨房に入らずって言うだろう」
 
映はスーツからルームウェアに着替えながら、古臭い言葉を並べる。
 
「それに、早いうちから胃袋を掴んでおかないとな」
 
不敵に笑う映から目を逸らして、心の中で呟く。
変身願望者に自殺願望者に、さらにもう一つ。結婚願望者も付け加えておくべきだったな。
 
「映。曽根弦一郎の件、どうなった? 事情聴取は?」
 
「ああ、それか。刑事部の連中に持っていかれた。案の定と言えば案の定だけど、ムカつくな。ハイエナ野郎め」
 
映は唇を尖らせて毒づく。
事件性が高いと踏んで、案件が生活安全課から刑事部に移ったという事か。となると、もう映から曽根に関する情報は期待できない。しかし、動物虐待の嫌疑が掛かっているだけの未成年が刑事部に目を付けられたのは意外だ。余罪があると言うなら別だが……。
 
「ん? 珍しいな、お前が携帯電話を」
 
と映は不自然に喋るのを止めた。何かあったのかと逸らしていた視線を元に戻すと、彼女はテーブルの上…… 携帯電話の横の紙切れに注目していた。
何も疚しい事はないのだが、空気が張り詰めていくのが手に取るように解った。哲学に自傷行為がバレた時とも異なる緊張感だ。
 
「それは?」
 
「電話番号だよ」
 
「見れば解る。お前の筆跡じゃないな。番号も違う。渡してきた相手は? 女?」
 
「……はい」
 
「関係は?」
 
「西高の二年生で、一度顔を合わせただけの、はい」
 
職務質問は数え切れないくらい受けてきたが、それとは比較にならない圧力を感じた。映が生活安全課の警察官で、毎日のように職務質問をしているだろう事は承知している。しかしそれを差し引いても、これは、とても、こわい。
 
「一度だけで連絡先を教えてきた? そうか。まあ、お前ならそういう事もあるかもな。今からアタシがその番号に電話を掛けるけど、構わないよな?」
 
「それは」
 
「問題があるのか?」
 
「いえ、何も…… ただ、まだ私自身が掛けた事はないから、向こうは驚くのではないかなと」
 
「まだ? 電話を掛けるつもりがあったわけか」
 
「いえ、そういうわけでは…… どうぞ」
 
今の映には何を言っても無駄だろう。私は大人しくテーブルの上の紙切れを手渡すと、彼女は鞄の中から自分の携帯電話を取り出して本当に番号を入力し始めた。そして筐体を耳に当てると、そのまま玄関のほうへ向かっていく。
 
「……夜分遅くに失礼しますね。アタシ、花塚の」
 
と話しながら外に出て行った。私は所在なく、藤の花を見つめる。
電話の相手…… 安良城は単なる高校二年生だ。いくら映でも、流石に大人げない事を口走ったりはしないだろう。実際の関係はどうであれ、映には表向き後見人、保護者として振る舞わねばならないという社会的弱点がある。だから問題ない。今は、安良城との関係強化という目的が難しくなった事実を受け止めた上で、それによって生じる不都合を挙げて、対策を考えるべきだ。動脈などの太い血管から分化する、無数の毛細血管をイメージする。樹木に似たそれをイメージする。
西高での交渉に使った毛細血管は良好な関係が前提だった。だが、もう使う事はないだろう。そちらに回すエネルギーはない。根元から断って…… いや、あれには小金井の爺も含まれている。再利用は難しいだろうが、血管と血管を繋ぐバイパスとして、接ぎ木としての価値は残っているやもしれない。
そうこうしている間に映が戻ってきた。通話は既に切れているようで、筐体はぶら下がる掌の中にあった。
 
「どうだった?」
 
「お前、猫アレルギーだったよな?」
 
「うん? うん」
 
想定外の質問返しに面食らいながらも、首肯する。
猫自体は好きなほうだが、身体の免疫機能は触れる事すら許してくれない。金属、羽毛にしても同様である。食物まで含めればナッツ、甲殻類酵素を含む食品すべて…… 情けないくらいに私の身体は様々なものに過剰反応する。
 
「ネコ科がどうのとか、動物がどうのとか…… まったく会話にならなかった。大丈夫なのか? この連絡先を渡してきた西高の二年生っていうのは」
 
「会話にならなかった? 今日顔を合わせた時は、普通の女子生徒のように見えたよ。少なくとも病的な面はなかった。昨日の百雲先輩のような家紋持ちだとしたら話は別だが」
 
「そうか…… そういえば、その百雲っていう子だけど、相当厄介なのか?」
 
「彼女の話に嘘偽りがないのだとしたら、まず間違いなく両親は刑事責任を問われるだろうね。民事では済まない」
 
映が眉を顰めながら、唸る。
 
「それならアタシの出番じゃないのか?」
 
「それも考えたが、百雲先輩自体が納得しないらしい。歪んだ家庭環境のせいで思考が凝り固まってしまっている。荒療治でも無理やり警察に突き出すのが手っ取り早いのは解っているのに、それができない。エティオロジー的に言うと、取り除けない根っこが悪さをする。両親を逮捕しても、いずれ彼女は自殺を選ぶ。解決するには根っこごと引っこ抜かないとならない。しかも期限がある」
 
「期限? いつだ」
 
先程見たばかりのカレンダーにもう一度視線を移す。七月の二十日のところが赤くなっていた。海の日だ。その日に、文化祭が開催される予定となっている。今日は七月七日だから…… え? 七夕だったのか、今日。今更気づいた。
 
「……残すところ、あと十三日。それまでに私が何とかしないと彼女はこの世に見切りをつけてしまう」
 
「勝算は?」
 
「ないよ。欠片もない。まあ、弱音を並べても仕方がないからね。どうにかしてみせるさ」
 
殺して、それで終わり…… だったらどれだけ楽だったか。比売宮のボツリヌス毒素を利用して、曽根を動かして、百雲を毒殺する。他人を殺したいと言う比売宮の願望も、自分を殺してほしいと言う百雲の願望も満たせる一挙両得の策が目の前にあるというのに、それでは終わらない。それでは始まらない。
 
「どうしてそこまで頑張るんだ?」
 
どうして? どうしてと言われても、百雲が…… 彼女が言っていたから、仕方がないだろう。
昨日の夜、強くなった雨脚のせいで声こそ届かなかったが、確かに彼女は言っていた。勇気を振り絞るように唇を動かしていた。『たすけて』と。雨と共に涙を流しながら。
本人にその気がないのであれば、幾らでも見て見ぬ振りをする。誰が死んで、誰が生きようと構う事はない。面倒事に自ら首を突っ込むようなお人好しではないのだから。だが、明確に助けを求められたら嫌でも動かざるを得ないではないか。たとえ面倒でも、やれるだけの事をやるしかないではないか。
そんな事を訥々と伝えると、映は困ったような笑みを浮かべて座っている私の頭を撫でた。
 
「そういうのをお人好しって言うんだよ」
 
「……それは知らなかった」
 
「お前は、自分で思っているような悪人じゃない。悪人になろうと無理しているだけ。だから“偽悪者”なんて呼ばれるんだ」
 
偽悪者。百雲が私を指してそう呼んでいたが、何故それを映が。
 
「送り届けた時、最後に言われたんだ。あの子に。『あなたの家に居る偽悪者によろしく』だってさ」