もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
両手に抱えなければならないほどの手紙をリビングのテーブルに放って、私はひとまず、シャワーを浴びた。海水に塗れてベタベタになっている身体を一刻も早く洗い流したかった。よくよく観察すると、左腕の自傷痕だけでなく、右腕の縫合した傷口からも出血していたが、誤差の範疇だ。
とは言え、念の為に今日から十日間は抗生剤を服用しておくべきだろう。化膿の悪化によってケロイドになる事は避けられないとしても、筋膜炎や敗血症などに罹患したら目も当てられない。しかし、抗生剤で対策できるのは細菌感染症のみ。可能性としては低いと思うが、寄生虫感染症の場合は抗寄生虫薬が必要になる。それとて万能ではない。効果的な薬剤が存在しない寄生虫もあるわけで…… 自傷行為に及ばないのが一番の予防なのだが、それは棚上げにしよう。明後日には『精神病態医学研究所』の通院がある。体調を崩すような事があれば、水主を頼る他ない。
浴室の外に用意してあったバスタオルを被ると、ちょうど映が帰宅した。普段より一時間近く遅い。すっかり疲弊しているものかと思いきや、その表情にはまだ多少の余裕があった。流石の体力と言わざるを得ない。
 
「おかえり、映」
 
「……ただいま」
 
映は土間で靴を脱ぎながら、こちらを見据えて応えた。妙な間があったのは気のせいではないだろう。
 
「どうかしたのかい」
 
率直に訊ねると、映は困ったように口を開く。
 
「いや、大した事はないんだけどな。やっぱり帰宅した時にお前が居るのと居ないのとでは、何て言えば良いかな…… 安心する。色々な意味で」
 
迂遠に、いつも早めに帰ってこない事を叱責しているようだった。
最近は明確に用事があって帰宅するのも遅くなっているが、執行部に入る以前から直帰する事はほとんどなかった。図書館に入り浸ったり、意味もなく大学病院の外来受付の前に陣取って人間観察に精を出したりと、いつも下らない理由で時間を浪費していた。
私はバスタオルを洗濯籠に放り込んでから、リビングのほうを指差す。
 
「映宛てにラブレターが届いているよ」
 
「ラブレター?」
 
「ああ。とびきり悪趣味なラブレター」
 
一瞬にして映の表情が曇った。私の言葉を額面通りに受け取っただけなのか、それとも何らかの心当たりがあるのか…… 今はまだ、判然としない。詳しい話を訊きたいところだが、彼女の内情に踏み込むのは些か抵抗がある。自然と打ち明けてくれるのを期待するしかない。
そう思ってリビングに足を向けようとすると、映が制止した。
 
「とりあえず、下着くらい履いてこい」
 
告げられて、視線を落とす。全裸だった。紛う事なく。下着を履けというのは尤もな意見だが、裸で家中を歩き回る映には言われたくなかった。
ひとまず、言われた通りに寝室のクローゼットから下着を取り出して履いた。ワイシャツやスラックスも着るべきか数瞬悩んで、着ない事を選んだ。部屋には冷房が利いているものの、風呂上がりの今は暑くて仕方がない。それに傷の消毒もしなければならない。
下着一枚でリビングに戻ると、神妙な顔つきでテーブルの上にある手紙と写真に目を通している映が居た。
 
「心当たりは?」
 
棚に仕舞ってある消毒液と脱脂綿を取り出しながら、気安く訊ねる。
 
「……お前と付き合う前の男の事を、話したっけ」
 
「最悪のクズ野郎」
 
「もう一つ前」
 
「最低のゲス野郎」
 
「そいつだ」
 
映はつまらなそうに鼻で笑って、手紙をテーブルに放り出した。
どうやら、彼女の中では犯人に当たりが付いているようだ。その“最低のゲス野郎”とやらは分からないが、元恋人とは言え、警察官相手にストーカー紛いの盗撮をひたすらに繰り返しているのだから、大した根性をしている。機会があれば話してみたいものである。
 
「どうする?」
 
「どうもしないし、できない。迷惑防止条例こそあるけど、ストーキングを規制する法律はない。実害も出ていない以上、物的証拠としてこれらを持って行っても警察は動かないんだ。実害が出たって警察は動かないだろうけど」
 
私はもう一度写真を覗き込む。写真の中の映は、どれも笑顔だった。外で職務質問か何かを行っている場面にしても、相手を緊張させない為か白い歯をこぼしている。私と一緒に写っている物も談笑中のもの。無表情のものは一枚もない。すべて笑っている。
 
「映の…… と言うよりも、映の笑顔に執着があるようだ。同封されていたメモに“ぼくのたからもの”と綴っていたわけだから、これを撮った人間にとって映の笑顔は宝物に相当すると考えて良い。それだけ映は終始笑顔だったのか、逆にほとんど笑顔を見せなかったのか。どちらかな?」
 
「尋問官みたいな言い回しは止めろ」
 
「つい先日、尋問されたばかりからね」
 
「そうだったな」
 
映は苦々しく笑った。笑って、「後者だな」と呟いた。
 
「今の飾り気のない映からは想像もできないが、そんな陰鬱な頃もあったのかい」
 
「逆だ。アタシの人生の大半は、陰鬱なものだった。学校に居ては教室の隅っこで、社会に出ては窓際で…… そんな感じの人間なんだ」
 
それこそ想像できなかった。何事においても中心人物とまでは言わないものの、明朗快活な人生を歩んできたものだと思っていた。いや、勝手に解った気で居ただけか。所詮は四ヶ月弱の付き合い。映が私の過去を掘り下げてこないのを良い事に、私も映の過去を訊かなかった。そのツケが回ってきたのやもしれない。そして、この期に及んで訊ねるのを躊躇している。
ひとたび訊いてしまえば、訊き返される。開示された情報に見合うだけの情報をこちらも開示しなければならなくなる。それを恐れていた。
 
「聞くか?」
 
二の句が継げないでいる私に一瞥くれて、映は試すような口調で投げ掛けた。彼女は既に覚悟ができているようだった。できていなかったのは、私だけ。
私は観念して掌を向けた。
 
「警察官になる前だ。歳で言うと、二十二の時。生き方を変えようと思った。理由は…… ただ、他人に愛されたかった。誰でも良いから愛されてみたくなった」
 
映の静かな声がリビングに流れていく。
 
―――
 
アタシの両親は、所謂“正義の味方”だった。
少なくとも本人らはそう信じていて、同様の志を持つ多数の仲間達と共に戦っていた。偏った正義を貫こうとする彼らの敵は強大で、その闘争に終わりはなかった。支持者を優遇する無策な首長。労働者を使い捨てるだけの巨大企業。それらを黙認し、あまつさえ遠回しに庇護する政府。戦乱を招く諸外国…… 彼らの“敵”は枚挙に暇がなく、弱者の人権を守る為にプラカードを掲げ、日夜シュプレヒコールを轟かせた。
そんな闘争を繰り広げる彼らにとって、幼い子供は足手纏い以外の何物でもなかった。たまの休日でも遊びに連れていってもらえる事はなくて、共に食事を取りながら談笑する事もない。
もしかしたら、たとえどれだけ恨まれようと闘争を続ける事が娘の為だと固く決意していたのかもしれない。
そう信じたい気持ちも初めのうちはあったが、実態はただただ無関心な生活が待っているだけだった。
彼らが守りたかったのは犠牲になった誰かであり、かわいそうな誰かだった。幼稚園で描いてきた『お父さんとお母さんの似顔絵』に何の反応も示さないばかりか、目の前でゴミ箱に捨てられたアタシは、その“かわいそうな誰か”に含まれていなかった。
アタシは頻繁に祖父母の元に預けられた。両親とは正反対の思想を持つ祖父母は、息子夫婦の狂気じみた活動を快く思っていなかったらしい。表立って衝突する事こそなかったものの、陰では二人の事を口汚く罵っていた。
では、両親に比べれば幾分か現実が見えていた祖父母は、厄介払いされただけの孫娘をどう扱ったのか?
これもまた、現実の見えていない両親のそれと大差なかった。習い事と称して近所のスイミングスクールに預けて、日に二度、質素な食事を提供してくれる以外は孫娘の相手など一切したくはないようだった。アタシは水泳なんかに興味はなかったけど、言う通りにしていないと祖父母の機嫌は見る見るうちに悪くなり、痛い思いをする。だから、嫌々だとしても大人しく塩素の混じっている水と戯れる他なかった。
今にして思えば、祖父母は別にアタシの事が憎かったわけじゃないんだろう。気に食わない息子夫婦の子供だからって迫害するような事はしなかった。単純に興味がなかったんだ。だからアタシの中で“他人”とは、『アタシに関心がなく、大人しくしていないと機嫌を損なう面倒臭い存在』と定義付けられた。
小学校に上がっても陰気な女子でしかないアタシに話しかけてくれる奴は居なかった。喋る機会もなかった。仮に機会があったとしても、アタシの発言にはクラスメイトの雰囲気をぎこちなくする効果しか齎されなかった。騒がしいグループの一人がデリカシーに欠ける振る舞いをしても笑って許されるのに、アタシが一言発するだけで皆の表情は瞬く間に曇る。一体何がいけなかったのか、未だに解らない。まあ、未だにそれが解らない愚鈍な人間だったからいけなかったんだろうな。
望む望まないにかかわらず、一人で過ごす時間が増えた。それが平気だと強がっていた時期もあったけど、楽し気な笑い声で満たされた教室の中で置物のようにじっとしているのは耐え難い苦痛だったし、団体行動の時に頭を下げてグループに入れてもらうのも子供ながらに屈辱だった。必然的にアタシは居場所を作らなければならなかった。独りで居ても良いような、都合の良い言い訳となってくれる居場所を。
そこで縋ったのが、幼い頃から続けてきた水泳だった。意外にもアタシには泳ぐ才能があった。スイミングスクールの誰よりもタイムが速かったし、日本水泳連盟主催の全国大会では表彰台こそ逃したけど、決勝メンバーの常連になれる程度には筋が良かった。
 
『水泳の練習が忙しいからクラスメイトと遊ぶ余裕なんてない』
 
そういうポーズで心のバランスを保とうとしたんだ。全国大会レベルで見れば入賞がやっとの立ち位置でも、県大会レベルなら競泳のどの種目でも一位を独占できた。これが思いがけず結構な賞賛を受けた。いつしかアタシは『教室の隅っこに居る暗い女子』から『口数の少ない競泳選手』というポジションを手に入れていた。アタシ自身の人格や意見が認められたわけじゃないけど、少なくとも魚のように泳いでいる間は他人の注目を集められると知った。
悪い気はしなかったよ。
我が子に一切興味ない過激派の父母も、痴呆で施設に押し込まれた祖父母の存在も大した事じゃないように思えた。その恵まれた状況は、義務教育を終えるまで続いてくれた。
高校に進むと、状況は徐々に変わっていった。自分よりも若くて才能のある選手が台頭してきて、全国大会の決勝常連にもなれなくなっていた。所詮は県大会止まりの才能だったと周囲にもバレて、再び教室の隅っこに逆戻りしていた。肩身が狭かった。でも、それでもまだ、恵まれているほうだったんだと、今にしてみれば思う。
十七歳の時、いつものスイミングスクールで練習に励んでいると、たまたまシンクロナイズドスイミングの指導をしていると言う人の目に留まって、シンクロクラブの入会を薦められた。水中の表現がどうのこうのと、あからさまな美辞麗句を並べられてな。
断る理由はなかった。不安はあったけど、競泳選手として限界を迎えていたのは誰よりも自分自身が一番理解していたから。
そして翌日からシンクロクラブに顔を出す事になった。クラブには既に二十人くらいのメンバーが所属していて、全員が気の良い奴だった。学校に居るような、くだらない話題しか頭にない連中とは違って、全員が明確な目標を持って取り組んでいた。
ある意味、アタシを勧誘した奴の見る目があったと言えるのかもしれない。競泳選手としての道を断って、慣れない環境に身を置く事になったものの、アタシは日に日に実力をつけていった。どうしても根っこの部分…… この陰鬱な性格が災いして、デュエットやチームには馴染めなかったけど、ソロのルーティンだとクラブで二番目の評価を貰えた。
それからだ。気の良い奴だと思っていたクラブの奴らが、掌を返して盤外戦に勤しみだした。もっと解り易く言うなら、いじめ。肌を晒すから直接的に暴力を振るってくるわけじゃないけど、衣服を汚されたり、弁当に汚物を入れられたり…… そういう典型的な嫌がらせを受けた。だけどアタシはまだ良いほうだった。一番評価の良い奴は、もっと壮絶ないじめを受けていた。それを見て見ぬ振りしたアタシも同類だな。二番目のアタシにとって、そいつは目の上の瘤のようなものだったから。
大学には行かなかった。特別学びたい事があったわけではないし、遊ぶ時間もほしくはなかった。運良くアトランタオリンピックの強化指定選手に選出されたのを機に、とっくの昔から居場所ですらなかった実家を出て、社員選手という形で地元の印刷会社に勤めた。
ある日…… これはお前も知っていると思うけど、練習中にアキレス腱を切った。爪先まで力を入れる競技だから仕方ない事とは言え、柔軟を怠ったアタシが悪い。オリンピックを数年後に控えた大事な時期にアキレス腱断裂という大怪我…… すぐに手術を受けて、辛いリハビリにも耐えて、やっと復帰できるっていう時に訃報が入ってきた。
例の、一番評価の良い奴が自殺したんだ。シンクロクラブでの練習を終えて帰路に就いている途中、急行列車に身を投げて死んだらしい。クラブは騒然としていた。なかには泣き出す奴も居た。不思議だったよ。どれだけ思い返してみても、いじめに加担していた記憶しか出てこないのに、それでも涙は出るんだなって。
アタシはその日にクラブを退会して、強化指定選手からも辞退した。
気づいてしまったんだ。
アタシは、シンクロが好きなわけじゃない。好きだからシンクロに励んでいたわけでもない。
それが、一番の近道だって思い込んでいたんだ。
他人から愛される近道だと。
本当はもっと早い段階で気づいていた。けど、気づいていない振りをしていたんだ。だって、アタシからそれを取ってしまったら……。
 
『……ただ、愛されたかっただけなんだ……』
 
夜明け前、いつ終わるともしれない悪夢から目覚めたアタシは、頬に伝っていたものを拭って起き上った。
アタシはこれからどうなるんだろう? 親からも、友人からも愛してもらえなかったアタシは、これからどうなっていくんだろう? 恐らく、何も変わらない。これまでのような人生がこれからも続くだけだ。惨めに、孤独に、死んでいく。
だったら、自分自身を変えてみよう。もう周りに変化を求めるのは止めよう。
そう決断してみると、愛なんてものは案外簡単に手に入った。相手を選ばなければ。近づいてきた男に頼り切って自堕落に生きていく選択肢もあったけど、アタシは警察官を志した。いつか、正義の味方を自称する馬鹿な両親は度の過ぎた馬鹿な行為で捕まる。その時に手錠を掛けるのがアタシだったら最高に愉快だと思ってな。
 
―――
 
「その“近づいてきた男”っていうのが今回の犯人…… まあ、身から出た錆だな。軽率に愛を求めた結果、こうなった。軽蔑したよな?」
 
自嘲に歪む顔が、同意を求めるように言葉を発した。
視点が窓の外に転じた。暗い街並みが見えた。何の変哲もない、いつもの景色。街全体が疲弊していて、緩慢な衰退を甘んじている。
かつては、そう思っていた。
しかし違った。この数日で、十人十色の事情があると知れた。疲弊している街にも生活はあった。一人ひとりの人生があった。それは視界の外側にも存在している。無限にも等しい数で。
そんな事は言われるまでもなく解っていたはずなのに、思い知らされた。
私は、ただ知っていただけだった。知っていたつもりだった。だが違った。知っている事と理解している事は、まるで違う。
それを思い知らされた。狭い世界で生きていた事を思い知らされた。
 
「してないよ」
 
「嘘だ」
 
昨日も哲学と同じ様なやり取りをしたなと思って、ついつい笑ってしまいそうになる。
 
「何故、嘘だと?」
 
あの時の哲学は、私が嘘吐きだからだと答えたが、果たして映はどうなのだろう。彼女の目にはどのように映っているのだろう。
 
「お前はお人好しだから」
 
「お人好しだから?」
 
「……解っているんだ。お情けで、アタシに付き合っている事くらい。保護者面しているけど、たまたま補導した十代の子供に一目惚れして、その子供に後見人が必要だって事に付け込んで、家に連れ込んで…… こんな女を軽蔑しないほうがおかしい」
 
「お人好しと言えど、誰もが清廉潔白だとは思っていないよ。誰しも私利私欲に塗れている。私もそう。映もそうだった。それだけの話ではないのかい」
 
違うか? と畳み掛けると、映は嘲りの色を薄めて溜息交じりに言葉を吐いた。
 
「簡単に言ってくれるじゃないか」
 
「難しく考え過ぎなのさ」
 
「……かもしれない」
 
「半生を教えてもらったついでに、もう一つ教えてくれないかな」
 
「ん?」
 
「最低のゲス野郎であり、近づいてきた男であり、今回の盗撮魔である男の名前は?」
 
映は一瞬逡巡したように見えたが、やがて重々しく口を開いた。
 
「……幸生」
 
その回答は幾許かの驚きを私に齎した。
 
「まさか、幸生学文?」
 
今度は映が驚きに目を見開く。
 
「お前…… どうして、あいつの名前を」
 
そういえば、映にはアルバイトをする事になったとしか伝えていなかった。それがどういう店で、雇用主は誰なのか、一切話していない。話していたら、彼女は止めただろうか。
視線はゆっくりと移ろいでいき、テーブルの上に活けてある藤の花に留まった。花言葉は『恋に酔う』『決して離れない』だったか。
花に罪はない。だが、罪な花だと思った。