もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
 
「先程、あらましは伺いましたが、曽根弦一郎の事故についてもう一度聞かせてください。今度はもっと詳らかに」
 
剥き出しのコンクリートには数箇所ヒビが入っており、それだけで警察署の年季を感じさせた。
映の話では一八九三年に開所されて以来、庁舎の建て替えなどは行っていないらしい。それは即ち、創立百二十九年だという我が校に引けを取らない歴史がある事であり、我が校に引けを取らない伝統がある事に他ならない。唾棄すべき慣習が幅を利かせているのは想像に難くない。上層部の腐敗も、ある種の慣習と言えるやもしれない。
目良は手にしているメモ帳をさらに捲って、その内容を目で追いかけながら語り始める。
 
「事故の発生時刻は午後四時七分。通報してきたのは被疑者である運転手だ。運転手は四十代の男性。職業は長距離ドライバー。事故も、その仕事中に起こしてしまったようだね。救命措置を施そうとしたものの、車体の下に潜り込んでしまった曽根弦一郎君を引き摺り出すので精一杯だったとらしい。我々と救急車が到着した時にはまだ息もあったんだけども、すぐ側の大学病院に搬送するまでの間に絶命。救急隊員による蘇生措置も虚しく…… という流れだよ。現在、曽根弦一郎君の遺体は検視が済んで大学病院の安置所に置かれている」
 
「なるほど…… 個人的に気になったのは二つ。一つ目、被疑者の長距離ドライバー。仕事中の事故という事ですから、やはり大型のトラックを運転していたのでしょうか?」
 
「ああ。加工食品の運送で、十トンの大型トラックに乗っていた。学校前の車道という事もあって、ちゃんと時速三十キロ程度で走行していたと供述している。事故を目撃してしまった生徒達も、『ゆっくりと走っていた』と言っているし、危険運転には当たらないだろうね。それを決めるのは自分じゃないが」
 
「被疑者の過失は兎も角、大型トラックに撥ねられて救急車が到着するまでは息があったのだから、スピードが出ていなかったのは確かでしょう。それは“車体の下に潜り込んでしまった”という話からしても間違いないかと…… 二つ目、通報を受けて事故現場に向かったのは目良巡査部長と映ですか?」
 
目良はメモ帳から一旦視線を外して、こちらを見る。
 
「真っ先に向かったのは自分と、もう一人。手の空いていた交通課の巡査だよ。藤野は現場に足を運んでいない。自分も軽く被疑者や目撃者から話を聞いただけで、すぐに所轄の交通課に引き継いでもらった」
 
「ではその情報を基に、さらに事件性があるという前提で話を進めてみましょう。まずもって曽根は何故倒れ込んだのでしょうね。七月も中旬に差し迫って気温は高くなりつつありますが、熱中症になるくらいでは…… 起立性低血圧? それも排除して良いでしょう。学校からバス停までの距離は短いとは言え、それで倒れるほどの低血圧ならば教室で既に倒れていたはず。血管迷走神経の乱れ、反射性失神の可能性まで考慮してしまうと何も始まりませんから、それらも排除。事件性があるという前提の場合、考えられるのは、現実的には毒を盛られたとか…… そういう事になるのでしょうか」
 
「毒? まさか、これも麻酔薬を」
 
「であれば話は早いのですがね。目良巡査部長の友人のケースとは異なり、事故現場はバス停。車両のような密室ではなく、屋外です。勿論、揮発性麻酔薬を肌に塗布、或いは呼吸器から吸収させる事ができれば意識も失うやもしれませんが、他に生徒が居るという状況でそれが可能とはとても思えません」
 
「じゃあ、一体何なんだ?」
 
「曽根自身が毒を毒と思わず服用した場合は、どうです? 『食中毒を治す為に飲んでいるんだ』と思い込んで服用したなら、どうでしょうか」
 
「……そんな事ができるのか?」
 
目良を包んでいる緊張感が増した。
今から告げる内容は、私の想像・妄想の域を出ない。だが、重要参考人から被疑者に昇格する危険性も孕んでいる。
私は面倒臭そうな顛末を予想しつつ、問い掛けた。
 
「目良巡査部長。当然、事故現場に駆け付けたあなたは曽根の容態を確認したでしょう? どうでした? 彼の損傷具合は。幸か不幸か即死だけは免れたわけですから、人間として最低限の形は留めていたと思います。彼の身体…… 主に頭部の状態はどうでした?」
 
目良は厳しい視線を向けてくる。
 
「曽根弦一郎君の頭部はほぼ無傷だった。多少の擦過傷はあったが、頭部へのダメージが絶命に至った理由ではないとされている。直接的な死因は出血性ショック死。細かく砕けた肋骨が動脈や臓器をズタズタに切り裂いた事に起因しているそうだ」
 
「つまり、目良巡査部長は曽根の顔をしっかりと見たわけですね。彼の顔に違和感を覚えませんでしたか? あの脂肪のついた顔に」
 
「違和感……? 確かに脂肪のついている丸い顔だったけども、それがどうしたんだ?」
 
素直な疑問が返ってくる。私は口調に緩急をつけて、世間話でもするような空気を作った。
 
「ここからは仮定に仮定を重ねる事になるので、話半分に聞いてください。肥満でないにもかかわらず、不相応な顔の脂肪。あれは恐らくムーンフェイスと呼ばれるものです。満月様顔貌とも言う。原因は主に副腎皮質ホルモンの過剰分泌。誘因となるものを挙げるとすればステロイドの常用ですが、クッシング病などの先天性の病気でも現れる症状です。既往歴のない健康体との事ですが、ただ単に病院に掛からなかっただけでは? とは言え、食中毒で病院に掛かった際に諸々の検査を受けたでしょうから、こんな分かり易い症状に病理医が気づかないはずがない…… 念の為に、その病院に照会してみてください。曽根の腎臓クレアチニン、下垂体に異常がなかったかどうか」
 
「分かった。しかし、異常があったとして、どうやって曽根弦一郎君の意識を奪った?」
 
「……深く言及しない事を約束していただけるのなら、話しましょう。さらにもう一つ仮定を重ねます。私ならこのようにする、という仮定を」
 
目良は緊張を解いて、朗らかな笑みを作った。
 
「内容によるとしか言えないが…… まあ、構わないよ。約束しよう。聞かせてくれ」
 
「曽根が罹患した食中毒は腸炎ビブリオという陰性桿菌によるもので、その名の通り、胃腸に炎症を引き起こします。毒性は低く、命に関わるような細菌ではありません。治療は抗生剤の投与。それと並行して、炎症を抑える為の抗炎症剤を用います。この抗炎症剤が肝要で、炎症が強い場合はコルチステロイドという薬を経口投与させる事もあります。コルチステロイドを構成するコルチゾールは血圧と血糖値を上昇させるのですが、ムーンフェイスが現れるほどの人間にコルチステロイドを与えると、急激な血圧の変化によって意識レベルが著しく下がります。失神してもおかしくないくらいには。そしてコルチステロイドの経口投与にはカプセル錠が基本なので、効果の発現時間を調整できます。要するに、帰宅途中に効果が現れるようにする事も可能なのです。カプセルを二重にして溶解までの時間を延ばしたり…… ここで話を戻します。目良巡査部長にお訊ねしましょう。抗炎症剤として一般的な薬を、然るべき立場の人間が、然るべきタイミングで服用するよう勧めてきた場合、あなたはそれを服用する事に疑問を持ちますか?」
 
「……持たないだろうね」
 
「そういう事です。曽根も同様に、何の疑問も持たずに飲んだ事でしょう。毒になるとも知らずに」
 
沈黙が降りた。静寂が取調室を支配して、身じろぎ一つ、呼吸一つが断罪の皮切りになるという空気が纏わりついてくる。
その沈黙を先に破ったのは、目良だった。
 
「じゃあ、犯人は病院関係者って事に?」
 
「それは分かりません。事件性がある前提で話をすれば、そういう可能性もあるのではないかというだけですよ」
 
実際、私の推理は荒唐無稽と言っても差し支えない。仮に正解だったとしても、犯人が病院関係者とは限らない。私が口にした“然るべき立場の人間”という言葉は、目良にしてみれば病院関係者を指しているように聞こえたのやもしれないが、私の見解は異なる。そこは彼我の情報量の差だ。私は知っている。曽根が件の人物から脅迫されていた事を。精神的に相当追い込まれていた事を。
 
「率直に訊くけど、去年の春に起こった事故と今回の事故。関連があると思うか?」
 
空虚な笑みは、もはや貼り付いていなかった。
確固たる意志だけが、瞳の奥で煮え滾っている。
 
「私の穴だらけの推理を基に考えるならば、関連していないでしょうね。目良巡査部長の友人に起きた事故は極めて殺意が高い。一方で、曽根に起きた事故の殺意は低い。犯人も、まさかトラックに撥ねられて死んでしまうとは思っていなかったのでは? 少し痛い目に遭ってもらうくらいの心持ちだったはず」
 
目良は静かに目を伏せると、溜息を吐く。
 
「そうか」
 
溜息と共に、そんな昏い言葉がこぼれ落ちた。
潮時だろう。そう思った。
 
「事情聴取は以上で宜しいですか」
 
「……ああ。思いがけず、楽しい時間だったよ。協力に感謝する。部屋の鍵なら開いているから、気をつけて帰ってくれ」
 
「最後に一つ、伺っても?」
 
「ん?」
 
「あなたの友人…… 検察官をしていたと言う女性の名前を教えていただいても構いませんか」
 
「……能仲。能仲了子(のなか りょうこ)だ」
 
「ありがとうございます。では、お身体には気をつけて」
 
案の定、能仲の母親だったか。残念でならない。生きていれば伝える事もできたのに。ちゃんと母親らしく振舞えていますよ、と。
取調室の重々しい扉を開け放って廊下に出ると、目の前の長椅子に映が腰掛けていた。側にはコーヒーの入った紙コップが置かれている。
映は私が出てきたのを見るや否や、慌ただしく駆け寄って不安げな、ともすれば今にも泣き出しそうな表情で数多の質問を浴びせ掛けてきた。
 
「大丈夫だったか? アタシは反対したっていうのに、目良巡査部長がどうしてもと言って聞かないから、こんな事に…… 何もされていないよな? 平気か? ちょっと脱いでみろ。確認するから」
 
そう言って私のワイシャツのボタンに手を伸ばそうとしてくる。
心配してくれるのは嬉しいが、まさしく動転している。自分自身が何を口走っているのか解っているのだろうか。それを実行してしまえば、曽根とはまったく無関係なところで逮捕されかねない。
私は映の両肩に手を添えて、宥める事に努めた。
 
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて。自宅ならいざ知らず、ここは警察署だよ。そして映はここの警察官。もっと毅然とした態度で居ないと」
 
「落ち着いていられるかっ」
 
学校に来ている時は冷静に見えたのだが、あれは精一杯冷静を装っていたのか。職員室には他にも沢山の目があったから弁えなければならないのは解る。だが、こことて誰が見ているとも限らない。廊下には私達以外の姿はないものの、気を抜くには早い……。
と思っていると、背後にある取調室のドアが開いた。先程まで私が居た部屋だ。当然、そこから現れたのは映の上司にあたる目良だった。
 
「どうした、こんなところで」
 
目良は心なしか疲弊した様子で顎を撫でながら、首を傾げた。
私が答えるより早く、映が私達の間に割って入る。
 
「目良さん。言うまでもないですが、これは違法捜査寸前ですよ。事件性がないと上が判断した事故を、独断で、しかも私情だけで未成年から事情聴取するなんて」
 
映は怒気を隠そうともせずに厳しく糾弾した。
 
「よく解っているじゃないか、藤野。そうだとも。これは違法捜査寸前で、違法捜査じゃない。彼の同意も得ている。だから何の問題もない。巡査風情が口を挟むな」
 
「アタシは後見人として抗議しているんです。階級を盾にするのはお門違いだ」
 
「後見人、ねえ…… それなら何も言えないな。本当にただの後見人と被後見人の間柄ならね」
 
「……何が言いたいんです」
 
「さあな。だが、上手くやる事だ。彼が大切なら尚更ね…… それじゃあ、自分は仕事に戻るとするよ」
 
目良はそう言い置いて背を向けた後、思い出したように上半身を捻って顔を半分こちらに向けた。その視線は映でなく、私に注がれている。
 
「ところで、君」
 
「何でしょう」
 
「警察官に成る事を勧めるよ。それか、法医学者。若しくは司法試験を受けて検察官か弁護士か…… 兎も角、君には司法の世界が合っているんじゃないかな。ちょうど司法制度改革審議会が設置されて、制度そのものが見直され始めているし、良い機会だと思うんだ。君となら、良い仕事ができそうだ」
 
「高く評価していただけるのは光栄ですが、見る目がありませんね。名前が泣きますよ」
 
私の挑発的な言葉に、目良は自嘲するように笑った。
 
「手厳しいな。でも、見る目があるかどうかはこれから判る。自己紹介の時に言ったろ? 目の良さには自信があるんだ。今すぐに決めろって言っているわけじゃない。選択肢の一つとして考えておいてくれよ」
 
じゃあ、またな。
右手を振って消えていくその後ろ姿を、私と映は静かに見送った。