もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
枕元に置かれたランプシェードの淡い光だけが、部屋を照らしている。沈み込むような暗闇の中で、目を覚ました。わずかに肌寒さを感じて捲れたタオルケットの端を左手で探そうとすると、指先に温かいものが触れた。咄嗟に左手が跳ねる。それが何であるか確認してもいないのに…… いや、確認していないからこそ、反射的に動いた。傷をつけてしまいかねないという恐れが働いたのである。寝返りを打ってそれの正体を知ろうとするも、そもそも寝返りが打てなかった。それが結果として、正体を知らせてくれた。
私の右腕の内側に収まるようにして、映が寝息を立てていた。一糸纏わぬ姿で。先程指先に振れたのは彼女の肩だろう。一方の私も肌を晒したままだった。いくら寝苦しくなってきたとは言え、これでは寒さを感じて当然だ。
私は、右腕を枕代わりにしている映の側頭部の下にそっと左手を差し入れた。ゆっくりと持ち上げるて、右腕を引き抜く。そうして出来上がった空間にクッションを敷いて、その上に頭を寝かせた。今の一連の動作で起こしてしまわなかったかと、しばし彼女の寝顔を窺う。何事か寝言を呟いているが、目を覚ました様子はない。そしてそのまま音を忍ばせてベッドから抜け出し、床に落ちていた衣服を拾う。
幸いにも下着は身に着けていたのでシャツを羽織って、スラックスを履くだけで良かった。寝間着の類は持っていない。高校指定の制服すら持っていない私のクローゼットは、同じ様なワイシャツとスラックス、下着が約十着ずつ並んでいるだけ。拘りがないと言えばそれまでだが、外見に無駄な金を使う気にはなれなかった。件の美容室にしてもそうだ。そういうのは、ルックスに自信のある人間が自分磨きの為に用いれば良いだけの話である。
寝室からリビングに移ると、室温がさらに一度か二度、下がったような気がした。二つの部屋を隔てる扉はない。最初からそうだったのか、取っ払ってしまったのか知らないものの、申し訳程度にレースのカーテンが垂れ下がっているだけだった。
壁に備えられた照明のスイッチを押して、藤の花が活けられているテーブルの前に座り込んだ。
今更になって、何故起き上ったのかと考え込む。あのまま二度寝すれば良かったのに。物音でも聞いたのだろうか。
すぐ側にある背の低い棚の一番上の段を開けて、一本のカッターを手に持った。スライド式のそれを動かすと、独特な感触が左手に伝わる。じきに先端から黒色の刃を現れた。照明に翳す。薄っすらとだが、刃先から三ミリの辺りまで脂で汚れている。人間を切った時に付着する脂。これが切れ味を著しく鈍らせる。
同時に記憶を辿る。物音など聞いていない。恐らく、日中に寝過ぎてしまったのが原因だろう。水主の病室で寝ていたし、家子の美容室でも寝ていた。さらに自宅でも眠れるかとなると…… まあ、寝ていたが、流石に朝までぐっすりというわけにはいかない。
棚から刃折器を取り出して、コインの投入口のような隙間にカッターの刃を差し込み、折る。パキッ、という小気味良い音と共に刃折器の中で金属片が跳ね回る。切れ味を取り戻したであろうそれを再び翳す。刃には折り易いように何本もの切れ込みが入っているものの、この切れ込みの通りに折れる事は少ない。カッターの刃厚は0.38ミリのS刃と0.5ミリのL刃の二種類に大別されるが、可能な限り刃厚は薄いほうが良い。ちなみに、外科手術用の医療メスは基本的に0.38ミリである。口腔内に用いる物だと0.25ミリ、眼科手術用のマイクロメスでは0.1ミリも存在するが、医療関係者でなければ入手は難しい。いま手にしている特専黒刃が0.2ミリであり、一般人が購入できるカッターの中では最も薄い。カッターに限定しなければ刃厚0.1ミリ以下の剃刀などもあるが、あれは駄目だ。あれは絶命し得る創傷を容易く作ってしまう。自殺が目的なのであればオススメだが、私は自殺を目的にした事がない。よって、私には必要ない。
次に脱脂綿とオキシドールを用意して、オキシドールを脱脂綿に含ませる。
念の為にサージカルテープも出しておくべきか? いや、別に良いか。いざとなればガムテープで巻きつけてしまえば良い。
 
「さて」
 
たっぷりとオキシドールを吸い込んだ脱脂綿をテーブルの上に放って、左手でカッターを手に取り、右腕を吟味する。
尺骨動脈、橈骨動脈は当然除外しなければならない。以前、興味本位で傷付けて血液のシャワーを浴びる事になったし、貧血の強い現状で動脈を寸断すれば、朝には冷たくなっているのは自明。となれば静脈になるが、正中静脈は神経と隣り合わせているので一か八かの勝負になる。最も判り易い皮静脈は肘から手首に掛けて縫合されてしまっている。気にせず刻んでも構わないが、皮膚の中に糸が残るのは大変面倒臭い…… 参った。適当な箇所がない。勿論、出血が期待できない場所なら幾つか残っているが、創傷の度合いと出血の度合いが比例しない自傷行為は本当に虚しい。虚しい自傷行為は苛立ちを生む。その苛立ちは次なる自傷行為を苛烈なものにさせる。
このバランス感覚は、極めて重要だ。
渇きを癒せるだけの出血は必要だが、それが命に届いてしまってはいけない。私には自殺願望がない。殺人願望もない。だから、どちらにも傾いてはいけない。
仕方なくカッターを右手に持ち替えて、左手の前腕を見下ろす。もはや前腕全体がケロイド化している右腕に比べれば綺麗なものだが、幾重にも刻まれた傷跡と手術痕がある。利き腕ではない右手での自傷行為は今までに沢山の想定外を招いたものの、昔よりはコツを掴んだ。だが、念には念を入れておこう。前腕の内側を避けて外側にカッターの刃先を当てる。創傷を作るタイプの自傷行為は一本目が非常に肝心である。この一本目で、皮膚の感触と力加減を学ぶ。
そしてカッターの刃を滑らせようと右手に力を込めた時、突如として伸ばされた細い手よって妨害された。
 
「……起こしてしまったかな?」
 
左腕から視線を上げると、ルームウェアを羽織っている映が眉を顰めていた。
映は問い掛けに答えず私からカッターを取り上げた。彼女の腕は細いながらも、しっかりと鍛え込まれている。警察学校で合気道・逮捕術を修めているのだから、そこら辺の男では太刀打ちできないだろう。それに、変に抵抗して彼女に傷がつくのは絶対に避けなければならない。
映はカッターの刃を引っ込めると、棚に仕舞った。それが彼女の最大限の譲歩なのだ。私から一切の刃物を奪う事こそしないが、目の届くところで自傷行為に及ぶのは許さない。彼女もまた、葛藤している。バランスを取ろうとしている。どちらに傾き過ぎてもいけないと考えている。
 
「怒らないのかい」
 
「怒ってほしいのか?」
 
慌てて羽織ってからリビングに飛び出してきたのだろう。映は内側に捲れたルームウェアの襟元を正しながら、訊き返してくる。
怒られたくはない。しかしそれ以上に、怒られないのは辛い。
 
「優しさは美徳に成り得るが、限度がある。度を超えた優しさは残酷だね」
 
映は優し過ぎた。普段の気性だけで言えば、怒気を孕んだ口調で叱責するのは珍しくないし、声を荒げる事も多々ある。なのに、こういう場面では決して声を荒げない。返ってくるのは喜怒哀楽の色すらない言葉ばかり。当然、彼女とて思うところはあるだろう。それを必死に押し殺しているに過ぎない。それを理解しているから、激情に任せて怒鳴られるほうが気楽だった。
 
「映、愛しているよ」
 
「……アタシも、お前を愛している」
 
映は文句の一つでも言いたいのを堪えるようにして、私に応じた。言葉とは裏腹に、彼女の表情は苦悩を如実に表していたが、それさえも愛おしかった。疲労に項垂れる姿も愛おしい。厳めしく叱責する姿も愛おしい。
心の底から思う。本当に可哀想な女性だと。
私に構ってしまったばかりに、通常なら煩わされる必要のない事にまで煩わされ、神経を擦り減らしているのだから。
 
「何故?」
 
「何故って、何がだ」
 
「今日…… いや、日付で言えば昨日になるが、実存主義の提唱者であるキルケゴールについて思いを馳せる機会があった。ほんのわずかの間だったが。彼は『追憶の哲理』なる自著で愛というものに言及していた。曰く、『人間は愛されるに相応しいものを愛す』らしい。私は、映にとって愛されるに相応しいものなのかい? 映の貴重な想いと時間を、こんな子供に傾ける必要はあったのか?」
 
「必要はあるし、相応しいからこうして傍に置いているんだろうが」
 
映は力強く断言して、テーブルの向こう側にある椅子に腰を下ろした。たおやかに咲き誇った藤の花を挟んで向かい合わせになる。
 
「……そうだね。なら、少し訊き方を変えようか。映はどこまで許せる? 私をどこまで許し続ける気なのかな?」
 
「そんなの場合による。許せる事なら何でも許す。許せない事なら一切許せない」
 
「たとえば? 私が何をしたら許せない?」
 
眠たげな目元を隠すように右手で覆うと、しばし考え込んでから呟いた。
 
「浮気とか」
 
「浮気にあたるラインは? 日曜に友人…… 一学年上の女子生徒と海へ行く事になったという報告はしたつもりだが、あの時も映は気にしていなかったね」
 
「あんなの、お前に対して大人ぶっていただけだ。そういう友人ができたのは嬉しく思うけど、複雑だとも思っている。だからと言って、遊ぶ約束を反故にしなくて良い。お前の事は信じている」
 
「それは、自分に言い聞かせているのではないかい?」
 
「うるさい」
 
映はむくれるように口元を歪めて一蹴した。
愛らしい。女性は、わずかに不機嫌なくらいが最も綺麗だと思う。
 
「優しさついでに、他愛ない話に付き合ってほしい。物心つく頃に読んだ絵本の中にあったような、或いは、数日前に学校の喧騒から偶然耳に飛び込んできた余聞のような…… それくらい他愛のない話。内容そのものは、私とは一切関係ない。だが、ずっと頭に残っている。聞いてもらえるだろうか?」
 
 
目の前の女性は短く、促がすように声を発した。
 
「あるところに、男と女が一人ずつ居た。二人の関係は恋人と呼ばれるものだった…… と思う。男は日常の有り触れた問題を幾つか抱えているだけの平凡な人間。女もそうだった。ただ一点を除いて。女は、あまりにも優し過ぎた。その男に関する何もかもを愛して、許して、受け入れた」
 
私はそう前置きをして、天井を見上げた。意味のある行動ではない。自然と頭部が傾いただけに過ぎない。人間が過去を振り返る時、往々にしてそうなるように。
 
「男にとって、その女の愛情は呪いだった。男の放つ最低な言動も、最低な行動も、すべて受け入れた。いくら詰ろうと、いくら痛めつけようと、何をしても…… 女は必ず笑顔で受け入れた。男の心は恐怖で支配されていた。初めは愛情もあったのやもしれない。だが怒りもせず、蔑みもせず、裏切らず、見放す事もない女の事が怖くて堪らなかった。そんな人間など居るわけがない、と。だからある日、男は女に対して、『お前は一体何者なんだ』と訊ねた。女は、男から無理難題を突き付けられて返答に窮した。当然の事だね。そんな哲学的命題に回答できる人間など多くない。その女が男の何もかもを受け入れる変わり者だろうと、それは同様…… しかしながら、男は我慢の限界だった。いや、限界を超えた。いつまで経っても答えられないでいる女の髪を掴み上げると、その喉元に左手を伸ばして、激情のままに吠えた。『人形が人間の振りをするな』と。無論、男も解っていた。左の掌から伝わってくる女の呼吸音、動脈を流れる血液の動き、体温…… あらゆる情報が、女が人形ではない事を教えていた。それでも男は女を人間だと認められなかった。さらに強く首を締め上げると、女は胴体を波打つように捻じらせた。男の掌から、死から逃れようとするように、必死に。初めて見せる人間らしい反抗に男は笑った。笑いながら、女に命令した。『僕が憎いだろう。殺したいだろう。ならもっと反抗しろ。僕の手に爪を立てて掻き毟るなり、僕の首を絞め返すなりしてみろ。お前の意思を見せろ。お前の敵意を見せろ』と命令した。なのに、女は何もしなかった。身体を捻じらせる事もしなくなった。首元から血が滲むほどに締め上げているというのに、女は微笑んでいた。脱力した両腕は肩から垂れ下がるばかりで、一切の反抗も、敵意も見せなくなった。気道の防御反射によって潤んだ目から涙こそ溢れていたが、そこにはやはり、男が期待していたものは何もなかった。あったのは、優しさのみ。果てすらない優しさだけが映っていた。やがて女は動かなくなった。結局、殺されるまで…… 正確には、殺されても殺さなかった。女は本当にすべてを受け入れた。男の殺意まで許して、受け入れてしまった。気づけば、男の身体は赤黒く染まっていた。両手も、口元も、生臭い血液に塗れていた。女だったものは人間としての形状を辛うじて残しながらも、依然として優しさを湛えていた。男は譫言のように、『許してくれ』と繰り返した。可笑しいだろう? 最期の最期まで女は許していたのに、許しを懇願していた」
 
私の他愛ない話は終わった。視線を天井から戻すと、テーブルの端に追いやられている脱脂綿が見えた。愛着など一欠片もないが、数十グラムの脱脂綿がその役割を全うできないまま捨てられる事になってしまうのは妙に物悲しい。
とは言え、一度湿らせた脱脂綿の再利用を検討するほど低い衛生観念は持ち合わせていない。自分自身を切り刻むような間抜けなのは自他共に認めるところではあるが、無用な感染症に罹患したくはない。
さらに視線を動かす。テーブルに頬杖を突いている映と目が合った。
 
「映は、女の目的が判るかい?」
 
映は、何も答えない。私達はテーブルを挟んで向かい合っている。まさに対話と呼ぶに相応しい環境だが、問い掛けは宙を舞うだけに留まった。
私は続けた。
 
「女の目的は、呪いだよ。女から向けられた愛情を“呪い”だと思ったのは間違いではなかった。女は命を賭して男に呪いを掛けた。一生拭いきれない呪いを。確かに女は男の手によって窒息死させられたのに、男の中で生き続けている。呼吸を止めたのに、生きていた頃よりも鮮明に息づいている」
 
そして質問を重ねる。
 
「映は、呪いたいほど愛した事はあるかい?」
 
やはり、返ってくるものはなかった。
私は立ち上がって足先を寝室へと向ける。
 
「話し過ぎて、疲れた。もう少し寝るよ」
 
そう言い置いてリビングから去ろうとした時、私の背中に映は一言投げ掛けた。
 
「今の話…… 本当にお前と一切関係ないのか?」
 
「もし関係があったら、どうする」
 
振り返らずに訊き返したが、すぐに愚問だと気づいて笑った。
 
「初めに、私とは一切関係ないと言ったでしょう? 言葉の通りだよ。おやすみ」