大学生時分の余談をしよう。

 

―――

 

古美門ホールディングス株式会社の代表取締役会長である古美門間人(ふるみかど はしひと)はその日、朝早くから札幌市の第二地銀である『北洋銀行』に呼び出されて、愛車のリンカーン・コンチネンタルで来訪した。
車を専属の運転手に任せて、二人の秘書を帯同して本店の玄関を通り抜けると、北洋銀行副頭取が出迎えてくれた。頭取は後々発表されるであろう、札幌銀行との業務締結の為に奔走しており、相談役は肺を患っている。北洋銀行のトップで、ある程度自由に動けるのは彼以外に居なかった。
現在、古美門ホールディングスは民間企業主導による街開発の旗手として、水面下で動いており、この北洋銀行も主要出資者として名を連ねている、言わば“同胞”の関係だった。
急遽連絡のあった本日の招待も“Fシティ計画”と名付けられた街開発プロジェクトの相談だろうと思い至り、こうした駆け付けた…… のだが、事前に会合の趣旨を告げられていない事に一抹の不安を覚えていたのも確かだった。
しかし、副頭取自らが満面の笑みで出迎えてくれた事で、それが単なる杞憂であったと安堵して、上層階の応接室に向かった。
その応接室の重厚なドアの前に立った時、「申し訳ありませんが、古美門会長」と副頭取が振り返り、露骨に人払いを頼んできた。
今は、スケジュール管理を主に行う女性秘書と、街開発の関係資料を持たせた男性秘書しか居ない。不審に思って確認したが、その秘書を外してくれ、と頑なに言うのである。
四十七歳にして東北・北海道有数の企業グループのトップに立つ古美門間人は、己の父親ほどの年齢の副頭取に深々と頭を下げられて、渋々ならがも了承せざるを得なかった。
主たる要件を終えた後で内々の込み入った話がしたい、という事ならば兎も角、急遽招かれた立場として、応接室の前で人払いをしろと言うのは失礼極まりない。そう思ったが、無用な波風を立てる時ではないと自分自身を宥めて、応接室に足を踏み入れると、早くもその理由が解った。
応接室の中にはもう一人の男性が居た。日本の第一銀行であり、第一勧業銀行から『みずほ銀行』に商号変更したばかりの、そのみずほ銀行社外取締役監査員の姿があったのだ。只事ではないのは明らかだった。

 

「お掛けください」

 

促されて、副頭取と監査員の向かい側に座る。
一体何だというのだ?
間人の心臓は張り裂けそうなほどに強く脈打っていた。
挨拶もそこそこに、副頭取から一冊の資料が差し出された。手に取ると、それは古美門ホールディングス傘下のとある研究所の決算書だった。

 

「……これが、何か」

 

戸惑う間人の前に、今度は監査員がもう一冊の資料を差し出した。同様の研究所の決算書だった。
まったく同じ決算書が二冊。気づけば、ご丁寧に付箋が貼られている箇所があった。そこを開いてみると、間人は頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 

「……古美門会長。こちらは、研究所の改築工事に掛かる借入の際に花塚全環所長から提示された、決算書です」

 

静かに副頭取が言った。

 

「二冊とも同じ決算書です。同じ決算書の、はずでした」

 

間人の前には、異なる数字が記載された二通の決算書があった。

 

「うちの北洋銀行と、みずほ銀行さんでは借入の際の条件が違います。それも巧妙に、どちらにも合うように、それぞれぴったりと納められた数字になっています」

 

粉飾決算…… 取引詐欺…… ふんしょくけっさん、とりひきさぎ。
間人の頭の中にそれらの文字が浮かんで、ぐにゃぐにゃと歪みながら回転していく。

 

「古美門会長」

 

財界の重鎮でもある、みずほ銀行の監査員が眉間に皴を寄せて低い声を放つ。

 

「問題ですよ、これは。そもそも、この『特別損失』という欄の“愛弟の為の必要経費”とは一体何ですか」

 

「こ、れは、その…… 何と申し上げたら良いか」

 

北洋銀行の副頭取が立ち上がった。

 

「今なら、内々で収められます。銀行側でこの事実を把握しているのは私達の他、数名のみ…… 古美門会長」

 

副頭取が身を乗り出して続ける。

 

「この研究所が古美門ホールディングスの基幹組織である事は存じております。仔細こそ把握しておりませんが、表向きは“震源地になりかねない場所を探し当てる研究”だと…… 眉唾ではあるものの、街開発に取り組もうとする我々にとっての最大の脅威は天災。それが研究によって事前に察知できるのであれば、巨額を費やす価値がある。しかしながら、これが明るみに出てしまったら…… 我々の“Fシティ”構想が破綻しかねない大スキャンダルに成り得ます。札幌市、延いては北海道全体の悲願だった街開発が、こんな事で頓挫するわけにはいかないでしょう!」

 

副頭取が握り潰さんばかりに、間人の肩を掴んだ。

 

「古美門ホールディングスさんのところだけで収集してください。大至急です」

 

間人は頷くしかなかった。

 

―――

 

その日の夜、独語研究会は“懇親会”と称してカラオケボックスに集まり、欲望のままに飲み食いしていた。

 

「き、貴様の…… 兄のせいで、あの怪物のせいで、僕は…… 僕はぁあああッ!」

 

古美門間人はストレス発散するように今日の出来事を語るだけ語って、ソファに身体を預けたと思うと、鼾をかき始めた。目を開けたままで。自棄酒を煽るだけ煽った挙句、寝てしまったのだ
ふと、彼の娘である古美門一門を思い出す。眠いと思ったらすぐに寝てしまうのは父親譲りなのだろうか。

 

「なんで見ず知らずのオッサンが来てんのさー」

 

「まあ、スポンサーとの事ですから」

 

「えぇ…… この間の稗苗何とかって人もそうだけど、アタシらに何人のスポンサーがついてんの?」

 

「あともう一人は居ると聞いた事がありますが、誰なのかは分かりません」

 

小羽と鳥居がひそひそと話している。
とりあえず、早々に酔い潰れた間人を無視して、私達は適当に夕食を済ませてからカラオケタイムに入った。

 

「では僭越ながら、宴会の端はこのボクが務めさせてもらおうっ!」

 

いつにも増して大袈裟にポーズを決めた窪が選曲したのは、Backstreet Boysの『I Want It That Way』だった。通常、こういう場で洋楽は盛り上がり難いという理由で避けられがちだ。アップテンポでもない曲となれば尚更。それを彼は、日頃から劇団で鍛え上げているのであろう歌唱力で見事に歌いきった。
そこかしこで、「おおっ」という感嘆の声があがって、自然と拍手が起こる。私も拍手をしながら、もう窪のワンマンショーで良いのではないかと思えた。それくらいに上手い。ただ、それだけに後に続くのが躊躇われた。
と思いきや、翼が臆する事なく中島美嘉の『CRESCENT MOON』を入れて、やけに感情を込めて歌った。歌詞の中の、「未来を裏切ったなら、たぶん許さない」とか特に。
そうして火が付いた独会のメンバーはそれぞれに曲を入れていく。小羽が一気に浜崎あゆみの曲を三曲も歌い上げて、鳥居のZONE『Secret base ~君がくれたもの~』が続いて、最後に残された私も何かしら歌わなければならない空気になっていた。

 

「ほら、糾君も」

 

「糾も歌いなってぇ」

 

「花塚さん」

 

「楽しみだなっ」

 

案の定、しつこく促される。自慢ではないが、私のレパートリーは往年の昭和歌謡に偏っている。男性歌手なら沢田研二村下孝蔵甲斐バンド。女性歌手なら由紀さおり岩崎宏美アン・ルイス。森進一や五木ひろしといった演歌もいけるし、戦中・戦後に流行った軍歌、有名どころの讃美歌も守備範囲に入っている。しかし、どれも確実にウケは良くない。部屋の隅で目を開けたまま眠っている間人にはウケるやもしれないが。
最近になって、未空の影響で“名古屋系”と呼称されているヴィジュアル系バンドのlaputa、FANATIC◇CRISISなども聴くようになったが、まだ歌えるほどではない。仕方なく、うろ覚えのMr.Children『花 -Mémento-Mori-』を選んで歌う。私の趣味ではないが、何となく頭に残っていた。

 

「おお…… 歌唱力もそうだけど、声質が良い! やっぱり最初に君を劇団に誘ったのは間違いじゃなかった!」

 

「めっちゃウマいじゃん、糾。なんかムカつく」

 

「花塚さん、花塚さん、あれも歌えます? スピッツの……」

 

そんな騒ぎの中で、突如として眠りに落ちた間人が、また突如として眠りから覚めた。記憶が混濁しているのか、さめざめと愚痴をこぼしていく。

 

「くそう…… ぼ、ぼくだってなあ、すべてなげだしてにげたくなることだってあるんだよ…… それをがまんして、がんばってんだよ。それを、あのばかども。わかぞうだとおもって、したにみやがって……」

 

愚痴が次第に、呪詛めいた言葉に変わりつつあるのを全員が受け流した。

 

「花塚さん。入れちゃいますよ、スピッツ

 

鳥居がリモコンを操作すると、既に次の曲のリクエストが入っていた。

 

「……悪いが、次は僕だ」

 

間人が力強くマイクを握った。
そうして流れ出したのは尾崎豊の『LOVE WAY』だった。

 

「え、いつの間に。だったらその次に…… あれ? まだ入ってる」

 

鳥居の手元にあるリモコンを覗き込むと、リクエスト履歴には尾崎豊がずらりと並んでいた。

 

「次も。次の次も。ずーっと僕だ!」

 

「ちょっと貸してもらえる、鳥居ちゃん」

 

リモコンを手に取った翼が、リクエスト一覧を表示して片っ端からキャンセルしていった。ついでに『LOVE WAY』も演奏中止されてしまい、モニターにそれが表示されるや否や、間人は崩れ落ちて、「のおおおおおおッ!」と咽び泣いた。

 

―――

 

翌日、私が独会の部室に顔を出すと、他のメンバー達が珍しくテレビを囲んでいた。

 

「お、糾ぁ。ほらほら。これ」

 

小羽が指さす画面の中では、昨日の懇親会のスポンサーだった古美門間人がカメラのフラッシュを浴びている。

 

「Fシティ構想…… あの人は途方もない事を考えているようだねっ」

 

窪が頷きながら言った。
間人は、昨日の醜態などなかったように隙のない理知的な姿で映し出されており、ミニチュアセットを前に街開発プロジェクトの概要をメディアに向けて説明していた。

 

「本当に偉い人だったんですね」

 

鳥居が感心している。

 

「どーしよ。アタシ、昨日あのオッサンの頭を叩いちゃったよ。タンバリンで」

 

「大丈夫よ、小羽ちゃん。彼もストレス発散できて、いい顔をしているじゃないの」

 

翼は無責任に笑っている。
私は、またこの男が独語研究会に顔を出してきそうな予感がして、複雑な思いを抱いていた。