もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
午後四時半を過ぎた札幌駅は途轍もない混みようだった。数多ある北海道の駅の中でも利用者数が一番多いと言われているだけあって、立ち止まって眺めているだけでも酔ってしまいそうになる。あと二、三時間も経てばラッシュの時間帯となり、さらにアマチュアのバンドやら何やらが機材を広げて騒ぎ立てるのだから堪ったものではない。
秋田の田舎者には到底耐えられない、と人混みを避けて北口の“鐘の広場”なる場所に移動した。数ヶ月前に移住してきた私にとってはピンとこないが、ここは待ち合わせ場所として多くの人間が利用するらしい。鐘の広場という名称が付いているのだから、さぞかし目立つのだろうと思っていたが、実際は非常に慎ましく、作りも地味の一言。とても待ち合わせ場所になるようなランドマークではない。しかし、簡素ながらも沢山の長椅子が用意されており、私以外にも誰かを待っている人間の姿が散見される。若い男女から、観光客と思しき団体まで、待っている人間は様々だ。
と思い至ったところで、ようやく私は失態に気づいた。
アクターこと窪からは、『午後五時にJR札幌駅北口』としか聞かされていない。これだけ大きな駅で、待ち合わせ場所も決めず……。
私は自分自身の格好を見下ろした。 濃いグレーのワイシャツに、黒のスラックス。装飾品は腕時計のみ。
鐘の作りが地味だとか言っている場合ではない。地味なのは私だ。咄嗟にスラックスのポケットから携帯を取り出したが、窪の連絡先など入っていない。
来るだけ来て、会えないやもしれない…… そんな考えが過った時、雑踏を物ともしない声が鐘の広場に響き渡った。
 
「やあやあっ! 来てくれたんだね、花塚君!」
 
恐ろしく通りの良い声質。周囲を顧みない声量。振り返ると、長髪をワックスでしっかりと整えて、上下共にスリムなシルエットで統一した窪が爽やかな笑顔を作って、こちらに手を振っていた。
 
「どうも。よく見つけられたね、こんな人混みの中から」
 
「キミくらい目立っていれば見つけられるさ! まあ、仮に目立たないタイプだろうと、このボクなら見つけるのは容易いがね」
 
「ひょっとして、声というやつで」
 
「その通りだよっ!」
 
もはや誰に対して向けられているのかも分からない華麗なポージングを決めて、窪は首肯する。いちいち突っ込んでもいられない。
 
「こういう場所に来ても大丈夫なのかい」
 
彼の言う声というのが理解できない私には察する事しかないが、それが音として捉えられるものなのであれば、喧しくて仕方がないはずだ。私が耳にしている喧騒よりも、ずっと。
 
「優しいな、君は。しかし問題ない。完璧にではないが、ある程度ならオンとオフの切り替えができるのさ。集中すると周囲の騒音が気にならなくなるだろう? あの没入感を意識的に持ってくる事ができる。それがオフの状態さ。ただ、デメリットもあるがね」
 
「デメリット?」
 
窪は両目を閉じて、右の掌をこちらへ向けた。
 
「……キミは、片目の道の一件以来、独会メンバーの全員のひととなりを把握しようとしている。後悔しない為に」
 
あの顛末は、まだ翼と鳥居しか知らない。二人が窪に教えていないのであれば、それはつまり。
 
「そうさ。スイッチをオフにすればするほど却って集中力・没入感が増して、個人に対しては、より一層声が大きくなってしまうのだよ。気を悪くしたのならすまない」
 
「気にしなくて良い。好きなだけ聞いてくれ」
 
そう言うと、窪はふっと笑みをこぼした。
 
「本当にキミは…… いや、この辺にしておこう! そろそろ始まってしまうからねっ!」
 
「始まる? 映画とか?」
 
「惜しい!」
 
窪は、羽織っていた一つボタンのテーラードジャケットの内ポケットから四つ折りにされた紙を取り出すと、こちらに広げて見せた。パンフレットのようだった。前衛的な字体の文章が躍っており、その下に人間の顔が並んでいる。
 
「今日の目的は…… 演劇さ」
 
―――
 
札幌駅を出て、直結している繁華街を右へ左へと折れ曲がり、人々の喧騒が段々と遠ざかっていく。
 
「ここだよ!」
 
先導するように歩いていた窪が足を止める。それなりに頑丈そうな造りのビルだった。鳥居が利用していたようなビルとは違って、清掃されており、人間の姿もそこかしこにある。出入口と思しき場所には私達とさほど変わらない年代の若者がたむろしていた。
『劇団ミツボシ公演』
そんな看板が出ている。他にも、ビルの壁面にチラシが所狭しと張り出されていた。
劇団ミツボシ。聞いた事もないが、窪の話によればこの界隈でも屈指の人気を誇る劇団との事だ。
 
「ボクが所属しているところなんて、ミツボシと比べればまだまだ」
 
自虐か、謙遜か、窪は困ったように首を振っていた。
私は看板をじっくり眺めた。にわか仕込みの知識だが、劇団のみで生計を立てられる者は少ない。アルバイトとの掛け持ちは当たり前で、チケット代のほとんどは劇団の運営資金に消えると聞く。だが、このミツボシとやらは看板からして専門業者の手によって製作されたものだと判る。チラシにしても、どれも非常に凝っている。景気が良いのだろうか。肝心のチケット代は…… 当日券、三千円。前売りでも二千円。相場が分からなくて何とも言えないが、アマチュアにしては高いような気がした。
 
「心配は要らないよっ! 先輩の務めとして、ここはボクは持とう!」
 
窪が得意げに胸を張る。
 
「そういうわけにも」
 
「素直に受け入れるのも後輩の務めだよ! それに、キミには片目の道で命を助けられたという大きな借りがある」
 
そんな風に思わなくても構わないのだが…… 確かに拒み続けるのも失礼だろう。
 
「では、ご厚意に甘えて」
 
などと会話をしていると開演時間が迫ったのか、ドアが開放された。たむろしていた若者達が続々と入り込んでいき、その流れが緩やかになった瞬間を見計らって私達も足を踏み入れた。
ビルの中は、外観以上に広く感じられた。入ってすぐのところに劇団員と思しき人間が四名立っており、前売り券組に応対しているのが二人、残る二人は当日券組の応対をしていた。
勝手が分からないので窪の後ろにくっついて様子を窺っていると、応対した受付の女性が奇妙な事を訊ねてくる。
 
「誰扱いで?」
 
なんだそれは。
 
「できれば、人間扱いしてもらえると……」
 
と口走ると、窪と女性が同時に噴き出した。
あとで窪から教えてもらったが、こういうアマチュア劇団のチケットは基本的に所属劇団員の買取となっていて、それを公演当日までにあの手この手で売り捌くそうだ。当日券の場合は、所属劇団員の誰からの紹介という事にするのかで、チケット販売のノルマ達成に影響してくるらしい。
幸いにもここの団長と窪は知人との事なので、窪と私の分の扱いはその人物のものとなった。
幾らか恥をかいたところで客席のほうへ通されると、既に席の三分の二が埋まっていた。数は百近くあるやもしれない。趣としては地元の手狭な映画館に似ていた。
私達は手頃な席に腰掛けて、開始を待った。周囲を見回すと、あっという間に満席となっていて、立ち見をしている姿もあった。人気なのは間違いないらしい。
ふいに照明が落ちて、公演が始まった。
公演タイトルは『解毒』と銘打たれている。随所にフランツ・カフカの小説『変身』を彷彿とさせるシーンがあり、その名作を現代風に翻案したもののようだった。
カフカの変身が、「ある日、目覚めると大きな毒虫になってしまっていた青年の苦悩」を描いているのに対して、この劇団のものは、主人公役の少女に外見的な変化はない。しかし、明らかに別の存在になってしまっていた。
そうして彼女が身につけた不思議な力で、周囲の人間が振り回されていく喜劇と悲劇とが繰り広げられていく。
正直、もっと前衛的且つ芸術的で、理解不能な内容を予想していたのだが、意外と解り易かった。
劇はいよいよ佳境に入り、毒の感染に怯えた母親によって部屋に閉じ込められてしまった少女が、次第に衰弱し、遂に息を引き取るというシーンで終わった。
照明がすべて消えて、舞台は暗闇に包まれる。だがそれで終わりではなかった。その暗闇の中で、キラキラと微かに輝く、植物の葉脈のようなものが浮かび上がった。
その淡い光が宙を舞いながら部屋を抜け出て、舞台袖に消えていくのを、観客達は息を潜めてじっと見ていた。
毒に侵された少女は、死んで初めて毒から解放されて、自らが変身すべきだったものになれたという事なのだろうか。
 
「良い趣味しているよ」
 
誰にも聞こえない程度に呟いた皮肉だったが、隣に座っていた窪は、「本当に」と頷いた。
公演が終わり、観客達が帰り始める中で、私は今一度手元のパンフレットに目を落とした。パンフレットには当然ながら演者の名前が連なっている。団長や脚本家の名前も。
芹沢緑(せりざわ みどり)。
団長・脚本家の欄には、そう記されていた。
 
「窪はこの芹沢と知人…… なのだろう? どういう人物?」
 
「一言で表すなら、天才だよ。演じるほうではなく、脚本家としてね。本人もそれを解っている。だから彼女自身が舞台に上がる事はない。問題のある家系に生まれて苦労してきたそうだけど、ボクも詳しくは知らなくて」
 
そう語る窪の表情は複雑そうだった。
 
「どうも、ありがとうございましたー!」
 
出入口で劇団員達が客の見送りをしている。つい先程死んだばかりの少女役の子供と、それを見捨てた母親役の女性が、にこやかにお辞儀をしていた。
私達はそれに目もくれず、ビルを後にした。そして近場にあったコンビニでそれぞれに飲み物を購入して、駐車場の前で一息つく。その間、窪は一言も発さなかった。普段騒がしいだけに、多少気まずい。
 
「そういえば、劇団に居る時はどうしていた? 例のスイッチ」
 
「オンのままにしていたよ」
 
オン…… つまり、大多数の声が聞こえる状態のまま劇を観賞していたという事か。きっと演者・観客の声で騒がしかったはずだが、窪なりに考えがあっての事だろう。
 
「花塚君。ちょっとだけボクの昔話を聞いてくれるかな。昔話と言っても、去年のだけどね」
 
「是非とも」
 
「去年の夏頃、ボクは独会に入った。もっと言うと翼部長にスカウトされた。どこで聞きつけたのか、翼部長はずっとひた隠しにしていたボクの能力を知っていたのさ。翼部長は美辞麗句でもってボクの能力を褒めていたけど、声が聞こえるボクには解っていた。キミが大学に訪れるまでの人数合わせだとね。別にボクはそれで腹を立てたりしなかった。こんなものでも何かの足しになるならと、喜んで入会したよ。それでもやはり、力不足は認めざるを得なかった。鳥居君や葛西先輩のような除霊はできない。小羽君のような分析力も、見通す力もない。それでも何か力になれないかと色々模索してきたが、片目の道では、力になるどころか、入会して間もないキミの足を引っ張っただけ…… キミは優しいから何も言わないけれど、他のメンバー…… 少なくとも翼部長はボクに失望していたよ。いや、それは正しくないな。元より期待されていなかった。勿論、そういう声が聞こえたというだけで、面と向かって言われたわけではない。ボクは、情けない。情けなくて仕方がないよ。ああ、すまない! これでは昔話でなく、ただの弱音だね」
 
いつもの威勢も鳴りを潜め、窪は手に持ったコーヒーの缶を静かに揺らした。
 
「……情けないとは思わないさ」
 
私は緑茶の入ったペットボトルを煽ってから、言った。
 
「翼が言っていたが…… 本来、窪は怖がりなのだろう? なのに私の儀式とは名ばかりの宿題に最後まで付き合ってくれた。果敢に。そこにどういう思惑があろうと、生意気な後輩の面倒を見てくれた気の良い先輩という事実に変わりはない。それに今日だって、私の知らない世界を色々教えてくれた。独会が変わり者の集まりで、訳の分からない目的の基に動いているとしても、結局は大学の研究会。能力云々は関係ない。窪のような気質の人間は集団行動をするにあたって必要不可欠だと私は思う。声が聞こえるという能力にしても、上手く活かせる機会に恵まれなかっただけでは? 翼もそう考えているはず。だからこそ、今も窪を独会に繋ぎ止めている。窪のほうが付き合いは長いから解っていると思うが、あれは苛烈な性格だから…… 失望とか、そういうのを気にしていたら切りがないさ。もっと気楽にいこう」
 
悲痛なその横顔がこちらを向くや否や、窪は白い歯を溢した。
 
「確かに…… このボクとした事が柄にもなく自信を失っていたよ! 一癖も二癖もある独会のメンバーを纏め上げられるのは、ボクを置いて他に居ない!」
 
その通りだ、と囃し立てると窪はまたしても無駄にポージングを決めつつ、空になったコーヒー缶をコンビニのゴミ箱へと放る。しかしそれは、ゴミ箱に掠りもせずに暗くなった駐車場の隅へと転がっていった。
 
「ああっ、街を汚してはならないっ!」
 
窪は素早くポージングを解いて、どこへ飛んでいったかも分からない空き缶を探し始める。
本当に生真面目な男だ。心労の絶えない人生を送ってきたに違いない。
ややあって目的の空き缶を見つけ出すと、今度はしっかりゴミ箱に捨てた。
そして、窪はまるで世間話でもするかのような口振りで告げた。
 
「ドクターには注意してくれたまえ」
 
時間が止まったと思った。
突如として冷や水を浴びせられたような、そんな感覚。
 
「ボクの力に例外はない。極めて特異な力の持ち主である翼部長にも、独会のエースと評価されているキミにも、例外なく通用する。だけど、だけど唯一…… あの人からは何も聞こえない。何も読み取れない。感情がない? いや、分からない。分かるのは、あの人の目的が“消毒”ではないという事だ」
 
くれぐれも、気をつけて。
窪は念を押すように言い置いて、深い海の底のような街の中へと溶け込んでいった。