もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
私はファストフード店を後にして、高校へと続く道を急いだ。途中、寄り道をすべきか悩んだが、高校に向かう事を選んだ。ある種の現実逃避だという事は理解している。もっと確実で、手っ取り早い手段がある事も解っている。だが、私の理性が持たない気がした。
やがて見えてきた高校の校門を駆け抜けて、昇降口から自分の教室へと向かった。授業中の校舎は静けさに包まれている。私の革靴の底が鳴らす足音だけが、やけに響く。目的の教室に辿り着くと、引き戸のドアを乱暴に開け放った。なかでは世界史の授業が行われている最中だった。クラスメイトの引き攣った顔が一斉にこちらへと向けられるが、いちいち構っている暇はない。私はその中から唯一知っている顔――能仲を見つけて、近寄った。
 
「比売宮は?」
 
能仲は呆気に取られながらも、視線を背後に移した。能仲の後ろの席は私。私の後ろは…… 居ない。それが自然であるかのように空席が並んでいるだけ。
 
「邪魔をした」
 
今度は校舎の二階へ駆け上がった。
二年生の教室は勝手が分からない。記憶違いでなければ、哲学と百雲往子は同じクラスだったはずだから、哲学を見つけ出せば良いのだ。
私は『2-A』と記された教室から順番にドアを開けていくつもりだったが、その『2-A』に思いがけない収穫があった。そこは二年生と三年生に一つずつ設けられているという理数科のクラスだった。つまり、彼女が居た。
 
「は、花塚君?」
 
真面目にペンを走らせていた釈迦郡が顔をあげて、こちらの姿を認めると、素っ頓狂な声を出した。
手間が省ける。幸いとばかりに足を踏み入れる。教師が何やら怒鳴っているが、その言葉を処理するだけの余裕もない。釈迦郡の側まで近づいて単刀直入に訊ねた。
 
「も…… いえ、哲学の教室はどこですか」
 
「幸生なら『2-C』だけど……」
 
「ありがとうございます」
 
危うく百雲と言い掛けた。別に言ってしまっても差し支えなかったのやもしれないが、変な勘繰りをされるのは避けたかった。百雲往子が処分…… 殺されたとして、それが明るみになる前に私が探していたとなれば、いよいよ人殺しという噂も否定できなくなる。たとえ、それが事実とは異なるとしても。
『2-A』の教室から出ようとした時、ふいに手を握られた。振り返ると、釈迦郡が腕を伸ばして不安げな面持ちで見上げていた。
 
「何かあったの? 花塚君」
 
「何も。哲学に、文化祭の件で急遽相談したい事ができただけですよ」
 
あまりにも苦しい言い訳。いくら急を要するとしても、授業中に乱入してまで探しはしまい。
 
「じゃあ、ウチも一緒にいくよ」
 
釈迦郡はそう言って勉強道具を素早く鞄に仕舞い込んで、立ち上がった。
 
「え、いや、そこまでは。本当に一言訊きたい事があるだけですから」
 
「その後は?」
 
「その後?」
 
「幸生に訊いた、その後だよ。よく解らないけど、すぐにでも確認しなきゃいけない事があって、内容次第じゃ学校から出て、また何かを確認しに行く…… しかもそれには危険が伴う。そうでしょ? じゃないと花塚君がそんなに焦るわけないもんね」
 
自信満々に言い切った。
私の態度からそこまで読み取ったのだとしたら、大した慧眼と言わざるを得ない。だが、解せない。危険が伴う事まで見抜いているのなら、同行を申し出たりするだろうか。いやまあ、彼女なら有り得るか……。
 
「何をするにしたってカップルを装えるのは強みじゃない? さあ、こっち」
 
釈迦郡は不敵に微笑むと私の手を引いて教室から出た。件の『2-C』は目と鼻の先だったが、教室はもぬけの殻だった。
 
「移動教室……」
 
科目は? と室内に視線を巡らせようとするも、すぐに気づく。必修科目なら兎も角、哲学と百雲が同様の科目を履修しているとは限らない。だが二年の必修科目時限など把握していない。一緒に居る釈迦郡は理数科クラスだから当てにはできない。どうする。やはり片っ端から教室を回るか。
 
「花塚君。幸生に訊きたい事って、どんな内容?」
 
無人の教室に釈迦郡の声が反響する。
私は逡巡した。言うべきか、言わざるべきか。こうして迷っている時間も惜しいが、迷うなと言うほうが無理だった。今は何もかもが疑わしい。何もかもを巻き込みかねない。
歯痒さに顔が強張っていくのを自覚しながら、慎重に口を開く。
 
「……実を言うと、訊きたい事があるわけではありません。出欠を確認したかった」
 
「幸生の? 今日は来てるよ。廊下で見かけたし」
 
「いえ、百雲先輩の出欠を」
 
「百雲は見てないかな…… あっ、教壇」
 
釈迦郡が黒板前の教壇を指差す。学習机同様、棚付きのそれには黒い綴込表紙が仕舞われていた。出席簿だ。通常は持ち歩くものだが、教師によっては始業のホームルームで出席を取るだけ取って放置するケースも多い。ここの担任は都合良くそのケースだったようだ。
私が手に取るより早く、釈迦郡が出席簿を取り出して教壇の上に広げた。横から覗き込む。
『七月十二日(月)』と銘打たれた頁に、生徒の名前がずらりと並んでいる。言っていた通り、幸生哲学の欄にはチェックが付けられていた。肝心の百雲往子には…… やはり、付いていなかった。欠席なのだ。
 
「ちなみに、百雲先輩の住所は御存じですか」
 
「流石に住所は分かんないよ。クラスも違うからウチの連絡網にも載ってないしね。まあ、それこそ担任に訊けば教えてくれるだろうけど、百雲の家に行くの?」
 
「いえ……」
 
それも良いが、先に比売宮の家を訪ねたい。彼女の家ならば一度行った事がある。考えたくない事だが、もし彼女が不在だったなら、百雲の家に行く必要はない。結果は見えている。そうなのだ。結果は、見えていた。学校に足を運ぶ前から。だから途中、寄り道を…… 比売宮の家に向かおうとしたのではないか。それを振り切って、逃げるようにここへ来た。まさしく現実逃避だった。項垂れそうになる頭を維持するのがやっとの状態。知らなかった。私が、これほどまでに無力で、弱かったのだと。
縋るように、隣の釈迦郡に声を掛けた。
 
「シュカさん。ついてきてもらえますか」
 
「どこへでも」
 
釈迦郡は『精神病態医学研究所』で見せたような敬礼をして、応えてくれた。今は彼女の明るさだけが頼りだった。
知らなかった。私は、どこまでも無知だった。
 
―――
 
比売宮が住んでいるアパートの前は騒然としていた。赤色灯を点けたパトカーが二台、公衆電話のある道路脇に停めれられており、件の部屋は透明のビニールで覆われ、さらに立入禁止のテープが貼られている。周囲には近所の住民と思しき野次馬達が群がっていて、彼らに対して警察官の一人が近づき過ぎないよう警告していた。他にも警察官の姿は何名かあったが、持て余したように難しい顔をしているばかりで、動こうとしない。
もはや確認するまでもなかったが、ここまで来て訊ねないわけにもいかない。
私達は所在なさそうにアパートの入口を見ている男性警察官を呼び止めた。
 
「比売宮さんに何かありましたか」
 
油断しきっていた男性警察官は肩を一瞬跳ねさせたが、すぐに仕事用のスイッチに切り替えた。
 
「ああいや、ちょっとね。通報があって…… って、ん? 君達、この比売宮さんに用があったのか?」
 
「ええ。比売宮さんのクラスメイトでして。今日、彼女には用事があったのですが、学校にも来ていなかったので心配になりまして。彼女の身に何か?」
 
訊ねると、男性警察官はあからさまに気落ちしたような表情を見せて口籠った。
 
「クラスメイト…… うん、そうか。それは…… 比売宮さんだが、自宅で、その……」
 
秘匿するべきか否か悩んでいるのだろう。親族ならまだしも、単なるクラスメイトでは伝えようにも伝えられない。そんな感じだ。
仕方なく車道に目を向ける。緊急車両は、パトカーのみ。救急車はない。既に去って行った後なのか、それとも現場から動かせない状況なのか…… 恐らくは後者。必要以上に遠ざけようとしている警察官と、手持ち無沙汰の警察官。相応の衣服と専門家の到着を待っているのだ。
百雲の家には、向かわなくて良さそうだった。
 
「帰りましょうか、シュカさん」
 
「……大丈夫?」
 
「はい」
 
私はいま、どんな顔をしているのだろう。
 
「おや、君は」
 
公衆電話側のパトカーから見知った警察官が現れた。以前のような警察官の制服ではなく、スーツ姿だった。非番だったのやもしれない。
 
「目良巡査部長」
 
「久しぶり、でもないか。あの時は迷惑を掛けたね。それで今日は…… デート?」
 
「欠席したクラスメイトの様子を窺いに」
 
「なるほど。その割りには、随分と怖い顔をしているな」
 
怖い顔をしているらしい。自分自身では、判らない。
 
「今回は宜しいのですか、事情聴取」
 
我ながら、皮肉めいた訊き方だと思った。
目良はバツが悪そうに頭を掻いて苦笑する。
 
「今回も事件性はないようだからね」
 
「比売宮葛の状況は?」
 
「言えないな、自分の口からは」
 
「通報は誰から?」
 
「匿名だった」
 
「通報時刻は?」
 
「午前九時過ぎ」
 
「犯人は?」
 
「事件性がないという事は、犯人も居ないという事だ。知っているだろう」
 
知っているとも。目良が、事件性がないとは一切信じていない事も。
言うべきか、言わざるべきか。また悩んだ。釈迦郡に話すのとは訳が違う。相手はその道のプロ。わずかでも加減を誤れば、私の首まで絞めかねない…… などと、考えている場合でもないか。
 
「……西高の安良城遍。二年生で生徒会長を務めている女子生徒です。彼女と、彼女の母親を洗ってみてください。隅から隅まで、綺麗になるまで。理由は聞かないでいただけると助かります」
 
目良は瞬時に苦笑いを引っ込めて、真剣な眼差しで見据えてくる。
 
「綺麗にしたら、何が見えてくるんだ?」
 
「さあ。しかし、烏は光物を好むものでしょう」
 
それだけ伝えると、目良は瞼を下ろした。何かに耐えるように。眉間に皺を深く刻み、内側で狂い乱れる何かを必死に抑えているようだった。やがて激情が過ぎ去ったのか、緊張が引いていくのが見て取れた。
 
「協力に感謝するよ」
 
目良はそう言い置いて、数メートル先で停車しているパトカーに戻って乗り込んだ。無線を使って報告でもするのだろう。
これで良かった。自分自身に言い聞かせながら、私は逆方向に足を向ける。
 
「次は、百雲の家?」
 
隣を歩く釈迦郡が訊ねてきた。
 
「哲学の家です。哲学の父親に用事がありましてね…… シュカさんは、哲学の父親と会った事は?」
 
「何度もあるよ。遊びに行った時にも会ったし、お互いに客として顔を合わせた事も。ほら、幸生の家ってお花屋でしょ? ウチも飲食店だから、節目節目に花を買うんだよ。クリスマスが近くなったらポインセチアとかシクラメンとか飾るの。あと、リースって言う壁掛けみたいな花も。結構そういうのに拘るんだよね、ウチのお母さんって」
 
「確かに、そういうイメージはありますね」
 
淑女を絵に描いたような宗にはシンビジュームなどの、柔らかな花が似合いそうだ。赤色や黄色も悪くないが、白が最も相応しいだろう。シンビジュームの白…… 花言葉は、深窓の麗人。彼女に贈るとするならば、それしかない。
 
「どうしました?」
 
黙りこくっている釈迦郡を不審に思って振り向くと、怪訝そうな視線をこちらに送っていた。
 
「お母さんと会わせたのは間違いだったんじゃないかなって、ちょっと思ってる」
 
間違いだったよ。
と心の中で呟いた、その時だった。視界の隅に黒塗りの車が映った。別に不思議な事ではない。私達は車道の端を歩いているのだから、車が走っていておかしいわけがない。その異常なまでの速度を除けば。
そんなに速度を出していたら事故を起こすのではないか。
そう案じるが早いか…… 背後から途轍もない轟音が二度鳴り響き、私の耳をつんざいた。次いで幾つもの悲鳴が追いかけてくる。咄嗟に釈迦郡の肩を引き寄せて私の身体を盾にしたが、何らかの破片が飛来してくるような憂き目には遭わなかった。
 
「怪我は?」
 
「だ、大丈夫…… ありがと」
 
そう言いながらも、釈迦郡は両肩を竦ませたまま硬直してしまっている。無理もない。私も背筋が凍るような思いだった。
ひとまず釈迦郡の肩から手を離して、ゆっくりと振り返った。
案の定、私達の横を猛スピードで通り過ぎっていった黒塗りの車が事故を起こしたわけだが…… 問題は被害状況だった。黒塗りの車は停車していたパトカーの一台に突っ込み、パトカーごと電信柱に激突したようだった。轟音が二度だったのは、そのせいだ。そしてそのパトカーは、先程目良が乗り込んでいったほうの……。
私はそちらへと駆け出した。爆発の恐れがあるので目の前まで近づけはしないが、それでもなるべく近く、もう少し近く、と身体が勝手に前のめりになっていく。やがて別の警察官によって制止される位置まで近づき、私の目は凄惨な姿を捉えてしまった。黒塗りの車と電信柱によって圧し潰されたパトカーは蛇腹のようにひしゃげており、乗車している人間の生存は絶望的と言えた。これならまだ、追突した側の人間のほうが息があるやもしれない。
あんな無謀な運転をしていた人間は一体…… と両目を頼りなく泳がせると、信じられない光景がそこにあった。飛び出したエアバッグに側頭部を預けているそれは、真っ赤な血液に塗れ、顔面の損傷こそ少ないものの、頸椎は可動域を大きく超えて折れ曲がっている。間違いなく、あのファストフード店に居た会社員だった。グレーのスーツと、砕けた黒縁眼鏡。
呆然と立ち尽くす私の耳に、着信を告げる無機質な音が入ってきた。
電話? 誰の? 携帯電話など持っていない。私でないなら、野次馬の中の誰か…… 違う。鳴っているのは、側にある公衆電話だ。四方と天井を囲われた透明なボックスの中から喧しい音が漏れている。
電話が鳴っている。鳴っているなら、取らないと。きっと私に用がある。
夢遊病患者のように覚束ない足取りで公衆電話のドアを開けて、受話器をフックから外し、耳元にあてる。
 
『――駄目じゃないですか、花塚さん。使い捨ての駒にも限りはあるんですから』
 
淡々と語る口調は、本当にこの世のものなのだろうか。
私の脳が生み出した幻聴ではないと言い切れるか? 分裂病ではない人間が居たら、どうか代わってくれ。私の代わりに、この受話器に耳をあててみてくれないか。
 
『でも、これで解ってもらえましたよね? あたしの気持ちを。あたしは本気ですよ。今朝はそこの駒が居たのでママの顔を立てましたけど、本当はママにも渡すつもりはありません。だから、大人しく』
 
待っていてくださいね。
そう言い残して通話は切られた。