もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
 
「手短に願いますよ。問題は山積しているのでね」
 
「手短に終えたいね。問題が山積しているのは、我々も同じだよ」
 
窓一つない狭い部屋に押し込められて、数十分…… ようやく現れた男はにんまりと笑った。
 
―――
 
曽根との会話を交わしたあの日、当然、放課後に臨時会議が開かれた。全校生徒に向けた二度目のアンケート結果を鑑みて、文化祭の方向性を決める為に。そして執行部や文員がほぼほぼ集まったのを確認してから、いざ始めようとした時、生徒会室に年配の教諭が顔を出した。何事だろうと耳を傾ける間もなかった。呼び出しを受けたのは、他ならぬ私だったのだから。言われるがまま廊下に出るや否や、年配の教諭は声をひそめて『職員室に警察が来ている』と伝えてきた。
何の、どの事件が明るみになったのだろう。
最初に思ったのはそれだった。擦るだけでも埃の出る身…… ある種の転び公妨だとしても、もはや少年法だけでは逃れられない。とは言え、逃げ果せる自信もないので素直に従った。
職員室に出向くと、そこには教職員とは違う、異質な空気を漂わせているスーツ姿の男女が居た。彼らは慣れた動作で警察手帳を見せた後、爽やかに自己紹介した。
 
『我々は県警の生活安全課…… もっと正しく言うと、生活安全部少年女性安全課って言うんだけどね。自分はそこで巡査部長をしている目良高長(めら たかひさ)と言います。目が良いって書いて目良。覚えておいてくれると助かるな。実際、視力はどっちも3.0で目の良さには自信があるんだ。で、こっちは…… 紹介する必要もないかな』
 
鷹揚とした態度を貫く目良の横で、生活安全課の巡査――藤野映が、こちらに険しい視線を向けていた。何か言いたいのだろうが、上司が居る手前、下手に口を開けないでいる。そんな様子だった。
 
『ご用件は?』
 
飽くまでも善良な市民として訊ねると、目良は腕時計に目を落としながら、告げた。
 
『先程、この学校の生徒である曽根弦一郎君が亡くなった。彼の事は知っているだろう?』
 
『はあ。昼食を摂る前に一度会話しましたからね、知っていますよ』
 
『おや? 亡くなったというのに、君は驚きもしないんだね』
 
『蓋然性の問題ですよ。一日の死亡者数は約三千人で、この学校には五百名ほどの生徒が居る。三千人のうちの一人がこの学校から出たとして、それは驚くほど珍しいと言えますか?』
 
『うーん…… 言えないかもなあ。でも、会話する程度には仲良かったんだろう? ショックを受けたりしないの?』
 
『わあ、びっくり。まさか死んでしまうとは…… で、ご用件は?』
 
改めて訊ねる。すると目良は、職員室中に響き渡るくらい豪快に笑って自分自身の額を数回叩いた。
 
『なるほど。なるほどなあ。藤野から聞いていた通りだ。これは一筋縄じゃいかない。相手を十六歳の子供と思わないほうが良いな。単刀直入に言おう。さっきも言ったが、曽根弦一郎君が亡くなられた。事故死でね。状況的に事件性はないと思うんだが、一応帰宅中の生徒に訊き込みをしてみたら、お昼時に君と会話しているという証言が得られた。しかも曽根君は酷く泣いていたそうじゃないか。イジメがあったとか、そういう類の話は一切ない。でも、どうしても気になったんだ。だから君を重要参考人として事情聴取したい。任意だから拒否もできるけど、できれば話を聞かせてもらいたいな』
 
『……だとさ、映。どうしたい? 私はどちらでも構わないよ』
 
黙り込んでいる映に水を向けた。
 
『疚しい事がないのであれば、聴取を受けておきなさい。目良さんが説明したように事件性はない。検察の介入もないし、供述調書を作るわけでもない。後見人のアタシは取調官に成れないけど、聴取時間も短く済むようにアタシから伝えておくから』
 
と言ったところで目良が口を挟んだ。両肩を竦めて、呆れるように。
 
『おいおい。警官になって間もない巡査が聴取時間に口を出せるわけないだろう』
 
『後見人として口を出す事は可能なはずです』
 
『それはそうだけども…… とりあえず、事情聴取を受けてくれるって事で良いかな?』
 
『映が受けろと言うのであれば、私としては断る理由もありませんよ』
 
『ほお。藤野の言う事はちゃんと聞くんだねえ』
 
目良は意外だと言わんばかりに無精髭の生えている顎を撫でて、口角を吊り上げた。
 
『親代わりである映には日頃から迷惑を掛けていますから、たまには親孝行もしないと。昔から“親孝行したい時には親はなし”と言うでしょう? 生きているうちに返せる恩は返さないといけません』
 
『藤野はまだ二十代じゃないか。まるで彼女が早逝するかのように言うんだな、君は』
 
『警察官という特殊な職業に身を置いているならば解るでしょう。明日死ぬかのように生きろ。これも古くから伝えられている言葉です。つまりは、明日誰が死んでもおかしくない。映は勿論、私も』
 
『ああ、ガンジーの名言だね』
 
『ハズレ。十三世紀にカンタベリー大司教を務め、今やカトリックの聖人として扱われているエドマンド・リッチが用いた説教の一節です』
 
『……手厳しいなあ』
 
目良の顔から作り物の笑みが消えていた。
 
―――
 
目良が簡素なパイプ椅子に座るのを待ってから、私は切り出した。
無関係な事故の事情聴取だろうと、受け身で居るのは性に合わない。
 
「では、始めましょうか。曽根の事故死に事件性はないと判断されたそうですが、それは何故でしょうか。何をもって事件性がないと判断されたのでしょうか。順を追って聞かせてください」
 
「聴取をするのはこっちなんだがなあ……」
 
「事情聴取、でしょう? 私はその“事情”とやらを知らない。だからそれを聞かせてもらわなければ、答えられるものも答えられませんよ。違いますか」
 
「いや、その通りだな」
 
また作り物の笑みを貼り付けた。少年少女を相手にする為に身に着けたのだろうか。至って自然な笑顔だと思う。ただ、先天性相貌失認によって人間の顔を記号としてしか捉えられない私から見れば、不自然な代物だった。目良の笑顔には色がない。空虚だ。それが口を開けて、声を発している。
 
「本日の午後四時七分。曽根弦一郎君は帰宅する為に高校前のバス停でバスを待っていたところ、急に車道側へ倒れ込み、偶然通り掛かった車に撥ねられて死亡した。周囲には彼を除いて三人の学生が居た。勿論、その全員の訊き込みは済んでいる。皆が一様に、『何の前触れもなく倒れ込んだ』と話してくれたよ。彼を轢いてしまった不幸な運転手も同様の供述をしている」
 
目良は懐から取り出したメモ帳を捲りながら、淀みなく説明した。
この事故に件の人物――ケセド、ティファレトとやらが関わっているとしたら…… いや、必ず関りはある。だが問題は曽根の処分があまりにも早かった事である。事故の発生時刻からして、彼は授業を終えて、寄り道もせずにすぐ帰路に就いた。携帯電話を使って外部と連絡を取ったという可能性は排除できないが、彼が私との会話を第三者に漏らす機会はそこまで多くなかったはず。となれば、やはり件の人物は学校関係者。
 
「曽根の既往歴は? 彼には些細な持病の類もなかった?」
 
「数日前に食中毒になったそうだけど、彼は極めて健康体だったらしい。ご両親が言うには、掛かりつけ医と呼べる病院がないくらい息災だったと。まあ、そのご両親も今はだいぶ錯乱しているけどね」
 
司法解剖は?」
 
「していない。さっきも言ったけど、ご両親がね…… なるべく綺麗な状態を望まれたから。法律上は鑑定処分許可状さえあれば、遺族の同意がなくてもできるんだけども、それを発行する為の材料がないんだ。交通事故のような受傷状況が明確な場合は特に。しかも事件性がないと上が判断しちゃったから、お手上げだよ」
 
「ならまず、そこから掘り下げるとしましょう。目良巡査部長は、上層部が事件性のない事故死と判断したにもかかわらず、こうして捜査を進めている。まるで事件性があるかのように。思うに、あなたの中には存在しているのでは? これが単なる事故死と片付けられないような根拠…… エビデンスとでも呼びましょうか。他の人間には気づけなかった先後関係に気づいたのか、或いは、もっと確信に近い違和感があったのか。是非、聞かせてください」
 
私は取調室の無機質なテーブルに両肘を突いて、手を組んだ。
目良は後頭部を掻きながら、「本当に手厳しい」と乾いた笑い声をあげた。
 
「……去年の一九九八年四月、友人が死んだ。腕の良い検察官でね。検察官は基本的に堅苦しい奴ばっかりなんだが、そいつは女ながら気風が良い奴だった。彼女は独自にとある売春組織を追っていた…… その最中だった。彼女は事故を起こしてしまった。車両事故だ。目撃者によると、酩酊したようにフラフラと蛇行運転して、そのまま電信柱に突っ込んだそうだ。他に被害者が出なかったのは不幸中の幸いだな。当然、彼女のケースでは司法解剖に回されたよ。結果は…… ええと、エヌエムディー…… 何だったかな。そんな感じの薬物が検出されたんだ」
 
「NMDA受容体拮抗薬」
 
「そう、それだよ」
 
「その友人とやらは鬱病でも抱えていたのですか」
 
「心当たりはない事もない。彼女には一人息子が居るんだが、数年前に重い障害を患ってしまったと聞いた事がある。だいぶ悩んでいたよ。詳しい事は話してくれなかったものの、『実の母親なのに、母親らしく振舞えている自信がない』ってさ。だが、彼女は精神科などに掛かっていなかった。NMDAという薬を処方された事もない」
 
「なのに、事件性のない事故死で片付けられてしまった。そして一年と数ヶ月後の今日…… またも事件性のない事故死が発生した。なるほど。私情ですか」
 
「……そうだな。白状しよう。これは、単なる私情だ。藁にも縋る思いで強引に二つの事故を関連付けようとしている」
 
「しかも独断。確たる証拠もなく、善良な学生を呼びつけて事情聴取…… これで聴取中に拷問でもしていたら第二の狭山事件でしたね」
 
「ああ。こんな私情に塗れた捜査に付き合わせてしまって、本当に申し訳ない。実のところ、君が犯人だとは一ミリも考えていない。とは言え、まったくの無関係だとも思えないんだ」
 
そう断言した目良は作り物の笑顔を引っ込めて、真剣な眼差しを向けてくる。
それだけの自信を一体どのようにして…… 違うか。彼も必死なのだ。亡くなったという友人の事故を頭の中で処理できず、過去に縛られて生きている。はっきり言って、現時点で二つの事故を結びつけるのは難しい。それは彼とて理解しているだろうが。それに、やはり私とは関係ない。去年の四月と言えば、この街とは比較にならないくらいに廃れている村で死んだように生きていた頃なのだから。
 
「では次に、事件性の有無について考えてみましょう。二つの事故の関連性は棚上げにするとして、まず一つ目の事故…… 目良巡査部長の友人が亡くなったというもの。友人の遺体からNMDA受容体拮抗薬が検出されたとの事ですが、NMDA受容体拮抗薬は本来アルツハイマーなどの記憶障害に使用されるものです。近年になって、NMDA受容体拮抗薬がセロトニン神経系にも影響を及ぼすという研究結果が出始めた為に、抗うつ薬としての開発が進められるようになりましたが…… まあ、NMDA受容体拮抗薬と一口に言っても様々です。目良巡査部長はケタミンという名の抗うつ薬を御存じですか?」
 
目良はかぶりを振った。
 
ケタミンは元来、静脈注射用ないし筋肉注射用の麻酔薬として開発されたものですが、NMDA受容体拮抗薬にも分類されています。さらに然るべき用法・用量で経口投与する事によって、興奮性神経伝達物質であるグルタミン酸レベルを増加させ、抗うつ薬としての効果…… 具体的には、不安やら希死念慮やらを緩和させられるのです。しかし、先程もお伝えしたようにケタミンはNMDA受容体拮抗薬であると同時に麻酔薬でもある。仮にですが…… その友人の車内を医療用気化器などで蒸発させたケタミンで充満させた場合、たちまち運転手の意識は朦朧として、酩酊したような状態にさせられるやもしれません」
 
「じゃあ、それが」
 
勢い良く身を乗り出してくる目良を、左手で制止する。
 
「飽くまでも仮説です。可能性としては限りなく低い。ケタミンは揮発性麻酔薬ではありませんから、融点・沸点共に高く、医療用気化器を用いて蒸発させたとしても、常温の車内に充満させる事は不可能。ただ、これも仮説に過ぎませんが…… 使用されたのがケタミンではなく、亜酸化窒素だった場合はその限りではありません。笑気ガスと言えば、目良巡査部長も御存じなのでは? ケタミン同様、摂取する事によって多幸感を得られたり、酩酊状態になるので、欧州諸国では危険ドラッグとして台頭しつつある麻酔薬です」
 
「笑気ガス…… 時折、医療ミスで死亡事故を起こしているアレか。それなら車内に充満させられるのか?」
 
「亜酸化窒素の沸点はマイナス八十八度と極めて低く、気化器を用いずとも蒸発する。そして何より、亜酸化窒素もNMDA受容体を阻害します。ケタミンほどの抗うつ作用があるかどうかは研究を待たねばなりませんが」
 
「だが、それならば酩酊したような運転を行った事も、鬱病の治療としてNMDA受容体拮抗薬を服用していたのではないかと法医学者を騙す事も可能って事だろう?」
 
目良が興奮気味に訊ねてくる。
情状を考慮すれば仕方ない事ではあるが、彼は結論を急ぎ過ぎる傾向がある。いつかそれが重大な事態を招くやもしれない。
私は目良を落ち着かせる意味でも、一旦会話のトーンを落として、ゆっくりと話を進めた。
 
「御存じかと思いますが、それらの揮発性麻酔薬の購入・譲渡には薬事法第三十六条に則った特例販売業の許可が必要です。その上、保管するにしても都道府県知事からの承認が要る。勿論、そういった社会のルールを無視するような輩にはあってないような法律ですが…… というわけで、目良巡査部長。そういう無法者に心当たりは?」
 
訊ねながら、自嘲にも似た感情が湧き上がってくるのを感じた。これは私なりの現実逃避と言える。同学年の、それも今日会話した男子生徒が死亡。今頃は…… 少なくとも、明日の土曜は曽根の死亡事故の話題で持ち切りとなるだろう。それを他人事のように受け入れている。情緒が動かない。麻痺でもしているかのように。その事実から目を背けたくて、こんなところで冗長な話をしているのだ。
 
「……烏合之衆……」
 
烏合之衆。目良は確かに、そう呟いた。
 
「何です、それは」
 
「さっき君に話した友人…… 検察官で、とある売春組織を追っていたと言っただろう? その組織の名前が『烏合之衆』なんだ。実際にそいつらが烏合之衆と名乗った事はない。生活安全課でそう呼ばれているだけだよ。規則性がなく、背後にヤクザを持たない犯罪集団。麻薬・覚醒剤の売買に、窃盗、傷害、恐喝…… 何でもやる。特に一番力を入れているのが、十代の女子をターゲットにした売春。小遣い稼ぎの為に自ら進んで身体を売る子も居れば、無理やり客を取らされている子も居る。嘆かわしいね。だが本当に嘆かわしいいのは、そんな奴らの尻尾も掴めていない我々の捜査力なんだが…… すまない。余計な愚痴だったな」
 
「その烏合之衆とやらのトップは?」
 
「さあね。色々な憶測が飛び交っているよ。ちょっと前に烏合之衆と関りを持っていると思しき男を逮捕したものの、覚醒剤を乱用していたようで、どうも要領を得ない供述ばかり。信憑性に欠けるが、三十代半ばくらいの女が一人で取り仕切っているって話だ」
 
三十代半ばの女性が、一人で。ヤクザによるバックアップもなく。それが本当なのであれば、途轍もない求心力…… テレビで連日取り沙汰されているようなカリスマ美容師とは訳が違う、本物のカリスマと言える。
 
「兎も角、この街にはそういう無法者が存在しているというわけですか。違法薬物の入手が可能なら、麻酔薬くらいは容易く、しかも大量に持ち込めるでしょう。要するに、他殺の可能性もゼロではない。にしても、友人の事故死…… その烏合之衆とやらに目を付けられて消されたと考えるのが自然ですね。目良巡査部長が納得しないのにも頷けます」
 
「そういう事だよ。検察官の事件性のない事故死は、不審死と変わらない。そんな事は警察官なら誰でも解ってるってのに、上は及び腰だ。大金を積まれたか、脅迫でもされたか。やってる事はヤクザと同じだが、社会的にはヤクザでない以上、警察としても強く出られないってのが実情なんだ。暴対法を振りかざす事もできない」
 
「腐敗していますね」
 
「腐敗しているとも」
 
取調室に溜息が響く。殺風景で緊張感に包まれた室内が、初めて緩んだような感覚があった。
 
「……それでは、もう一つの事故。今日発生した曽根弦一郎を探りましょう。直接的な死因は轢死だと聞いていますが、彼にも幾つかの不審な点がある」