もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
七月九日、金曜日。
銘々が好きなように食事を楽しんでいる校舎内は和気藹々とした空気に満たされていた。私も例に漏れず学食に足を運びたかったが、その前にどうしても外せない用事があった。私は昼休みのチャイムが鳴るなり教室を出て、すぐ隣の教室に顔を出した。扉の側に座っていた見ず知らずの女子生徒が絶句していたが、構わずに要件だけを伝えると、その女子生徒はすぐに一人の男子生徒を連れてくる。
 
「あ、あの…… 何の御用、でしょうか」
 
比売宮が“中肉中背”と評していた通り、件の男子生徒――曽根弦一郎は取り立てて特徴のない人間だった。百七十前後の背丈。そういう体質なのか、はたまた副腎皮質に持病でも抱えているのか知らないが、顔に脂肪が集中していて絵に描いたような丸顔。しかし、全体的に見れば痩せているでも太っているでもない。
 
「君が曽根弦一郎で間違いないかい?」
 
異様に委縮していたので精一杯気を使って、しかも軽く腰を屈めて目線を合わせながら訊ねたのだが、曽根の緊張が解れる事はなかった。彼は、あらん限りの力で首を縦に動かす。鞭打ちになってしまうのではないかと心配してしまうくらいに。
 
「訊きたい事がある。目立ちたくはないから、第二体育館に行こう。時間は取らせないよ。君次第だが」
 
曽根の顔色が見る見るうちに青ざめていく。が、意外にも反抗の意思は見せなかった。一年生校舎から第二体育館までは三分と掛からないが、その間、彼はずっと下を向いたままだった。この世の終わりのような表情をして。
幾つかの喧騒を通り過ぎて、昇降口から第二体育館へと向かう。会話はない。私はもとより無駄話をするつもりはないが、曽根も無駄口を叩かなかった。彼のひととなりは比売宮から軽く伝え聞いただけだが、想像以上に大人しい性質なのやもしれない。
そして第二体育館の裏手…… 三日前、百雲と会話したあの空白に足を踏み入れた時、曽根が声をあげた。財布をこちらに差し出しながら。
 
「す、す、すみませんっ! 今日はこれしか手持ちがな、ないので、その…… これで、勘弁してもらえませんか!」
 
曽根のそれは、とても理解のできない行為と言えた。私は彼に金銭を要求した覚えはないし、勘弁と言われても、何を勘弁すれば良いのか分からない。
 
「悪いが、それはできない」
 
だから断った。受け取る理由も、必要もない。
すると曽根は青白い顔をさらに青白くさせて、祈るように喚いた。
 
「明日! 明日、また、持ってきますので! それでどうかっ!」
 
「うるさいよ。目立ちたくないからここに来たというのに、そう騒がれてしまっては意味がない。お互い無事に昼食を摂りたいだろう? 君が私に協力的であればそれが可能なのだが、どうだろうか。協力してくれないかな」
 
そう言うと、今度は口を真一文字に固く結んで首肯した。
極端な男だな。クラスメイトでさえ、ここまで委縮したりはしないのに。トラウマに近い何らかの出来事が過去にあったのやもしれないが、流石にそこまで掘り下げる時間的余裕はない。今は必要な事だけを訊こう。
 
「君は比売宮葛という女子生徒を知っているね?」
 
曽根は額に脂汗を浮かべながら、頷く。
 
「君は比売宮葛に好意を持っていると聞いたが、本当かな?」
 
頷く。
 
「比売宮葛は細菌を使用した動物実験を行っている?」
 
頷く。
 
「先日、君は腸炎ビブリオの食中毒で搬送されたが、あれは比売宮葛が?」
 
……頷く。
 
「君は比売宮葛と結託して動物達を殺して回り、遂には彼女の為に自分自身を差し出したと?」
 
曽根は頷かなかった。かぶりを振るわけでもなく、じっと足元に目を落としている。
動物実験の言質は取れたが、それでどうこうしようというつもりはない。今のところは。私は警察ではないし、今まさに凶行に及んでいるわけでもないのだから現行犯で通報する事もできない。なのに、ここに来て何を迷っているのだろう。ほとんど白状したものなのに。
 
「違うのかい?」
 
もう一度訊ねる。すると曽根は周囲に視線を巡らせた後、恐る恐る口を開いた。
 
「……た、確かに僕達は、社会的には、罰されるような、事を、その…… し、してしまいましたが、ですがその、あの…… は、花塚君も聞いた事は、ありませんか」
 
「何を?」
 
曽根が纏っている緊張感のようなものが、さらに一段階跳ね上がったように感じた。
 
「ケセド・ティファレト、です」
 
「ケセド・ティファレト?」
 
「こ、この学校は、それが、牛耳ってるんです…… 歯向かえば、た、ただじゃ……」
 
曽根は身体を震わせて、生唾を呑み込んだ。荒唐無稽な話で煙に巻こうとしている様子には見えない。
ケセド・ティファレト。どこかで聞いたような…… いや、見たような名称。何だったか。何らかの本。本だ。それは間違いない。ケセド、ティファレト……。
 
「ひょっとして、『旧約聖書』に登場する生命の樹“セフィロト”のケセドとティファレトを指しているのか?」
 
曽根は震えたまま頷いた。私は、明らかに焦燥している彼を尻目に呆然としていた。
何故? 何故、ここで生命の樹が出てくるのだろう。『旧約聖書』においてケセドは“慈悲”を、ティファレトは“美”を意味しているが、それが一体何だというのか。しかも牛耳っていると? 口振りからして、あたかもそのケセドとティファレトに指示されたかのようではないか。
 
「それに歯向かうと痛い目に遭う。だから、君と比売宮は動物実験を?」
 
現時点では一切意味が解らないが、曽根の話を聞く限りではそういう事になる。
 
「ひ、比売宮さんは乗り気だったけど、ぼ、僕は、殺したくなんか…… でも、でも、やらないと、僕が殺され…… それに比売宮さんだって、酷い事に」
 
「率直に訊くが、それは一体誰だ?」
 
曽根の震えは尋常ではないものになり、ガチガチと歯を鳴らして、涙まで浮かべている。それでも、なけなしの気力を振り絞って口を開いた。
 
「黄金の暁」
 
「黄金の暁……? イギリスにある西洋魔術結社の事か?」
 
「は、はい…… すみません…… 僕に言えるのは、そ、そこまでなんです…… これ以上は、本当に勘弁してください…… す、すみません」
 
黄金の暁と言えば、十九世紀に創設された神秘学の組織。一時は解散したはずだが、第二次大戦後に再結成され、現代において最も実践的な教義・儀式・作法を行うとされている。組織は三つの階層構造を成しており、団員には厳格な位階を制定している。私の記憶に誤りがなければ、その位階の名称がセフィロトに由来するものだった…… だが、流石に話の規模が大き過ぎる。遥か海の向こうに存在する西洋魔術結社が日本の高校に居るというのは、無理筋ではなかろうか。
恐らくは“黄金の暁”を騙っているだけの生徒、若しくは教師が居る。その人物がケセドとティファレトを名乗っているのだろう。
とは言え、単なるごっご遊びというわけでもなさそうだ。曽根の怯えようは常軌を逸している。比売宮も連れてくるべきだったか? いやしかし、ここに彼女が居れば、曽根は比売宮の顔を窺って沈黙を貫く可能性があった。曽根だけを連れ出した事は正解だったと思いたい。
ひとまず、訊きたかった事は訊けた。図らずも問題が増えてしまったが、それはそれで考えていかねばならない。
 
「ありがとう。時間を取らせて済まなかったね。戻ってくれて良いよ」
 
曽根に手を振って立ち去ろうとしたが、彼は再び大声で謝罪し始めた。
 
「ほ、本当にごめんなさい! 僕は、僕は」
 
「そう謝罪されてもね。火の粉を被ったわけでもないし、君は誠実に答えてくれた」
 
「違う、違うんです…… 僕は、花塚君に…… 命令だったとは言え、花塚君に、た、大変な事を……」
 
とうとう曽根は子供のように泣きじゃくり、ひたすらに頭を下げた。傍目からすれば、完全に私が悪者である。
 
「……大変な事と言うと?」
 
「僕、なんです…… 僕が、僕が花塚君の噂を、流したんです…… 人殺しだって、ヤクザの関係者だって…… 僕が、僕が」
 
それは、何とも反応に困る告白だった。善し悪しで言えば、決して善行でないのは勿論だが、謝られたところで何か変わるわけでもなし。噂は既に広まってしまっている。広まってしまったのなら仕方ないし、それが原因で不自由した事はない。
 
「気にしなくて構わないよ、別に」
 
「え、で、でも…… 根も葉もない噂を立て、たんですよ……? あ、謝らないと」
 
「当の私が気にしていないのに、君が気にしてどうする。それに命令だったのだろう? 一切悪くないとは言わないが…… まあ、大した事ではないさ。些事だよ、些事」
 
「ほ、本当、ですか?」
 
本当だ。少なくとも、十六歳の男が悲嘆に暮れて涙を流すような大問題ではない。逆に言えば、曽根の精神状態はそれほどまでに追い詰められていたという事か。面白いな。人心掌握の術に長けているタイプなのか。或いは、もっと単純に暴力などで思考力を奪うタイプなのか。俄かに興味が湧いてきた。
 
「また何か訊きたい事ができるやもしれないから、その時は協力してくれると助かる」
 
「そ、そんな事で良ければ!」
 
曽根はその丸い顔を綻ばせて、初めて私の前で笑った。とてもぎこちなかったが。
 
「なら早速訊くが、この学校を牛耳っている人物とやらの正体は?」
 
「い、いや、それ、は」
 
「解っているよ。答えられないのだろう? 別のルートから地道に辿っていくとするさ。では、解散」
 
今度こそ私達は第二体育館の物陰から立ち去った。
正直なところ、私の悪癖…… 他人の見縊るという悪癖は直っていなかったと言わざるを得ない。
私は件の人物を見縊っていた。あまりにも。
何度も頭を下げながら校舎の中に消えていく曽根の背中が、私が見た彼の最後の姿だった。