もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
 
「いつまでも忘れないというのは、それほどまでに大切なのかね」
 
「あ?」
 
私の独り言のような呟きに反応したのは、自習という名の自由時間を利用して読書に勤しんでいる能仲だった。
教室の中は騒がしくもなく、静かでもなく、遠慮がちな会話がそこかしこから聞こえてくる。全員の机にはアンケート用紙が置かれていた。内容は非常に簡素で『模擬店を開催する場合、あなたは何をやりたいですか』の一問のみ。そのせいか、クラスメイトの話題は模擬店に関するものが多かった。誰もが楽しそうに話して、筆を動かしている。行動に移す段階になったら楽しくない部分も経験しなくてはならなくなるだろうが、今こうして生徒達に楽しい時間を与えてあげられているのなら、提案者である私としては成功したようなものだ。
 
「大切だろ。過去を忘れず、大切するって事は、過去に関するすべてを大切にするって事と同義だ」
 
「それで苦悩する事になったとしても?」
 
能仲は律儀にも、全校生徒に向けて配布されたアンケート用紙の欄をびっしりと埋め尽くしていた。真面目な男だ。
 
「……俺には、十二歳までの記憶がない」
 
奇しくも太宰治の『思ひ出』に目を落としながら、能仲が告げた。
 
「俺が柔道を齧ってるって話、覚えてるか」
 
「辛うじて」
 
「人伝に聞いたところによりゃあ、俺は五歳から柔道をやってたらしい。だが十二歳の頃、乱取りの稽古中に受け身を取り損ねて失神した。すぐに病院に運び込まれたんだが、特に異常はなかった。海馬も含めてな。だってのに、それ以前の記憶だけが丸ごと抜け落ちてやがった。ダチの事も、家族の事も、自分の名前すら忘れちまったんだ。医者が言うには、逆行性健忘症ってやつが起きたんだとよ」
 
能仲は頁を捲ろうとして人差し指を動かしたが、思い直すように止めて、本ごと閉じた。
 
「忘れちまった事に対するショックとかはなかった。メンドくせえな、って思った。他人事のように。また最初から能仲了士って野郎の人生を始めなきゃなんねえのかよって。だから周囲の人間…… 特に身内には、だいぶ迷惑を掛けた。常識も、知識も、笑っちまうくらい覚えてなかったからな。それがきっかけでダチも全員失ったが…… まあ、それからだ。俺が本を読むようになったのは」
 
能仲の口元が珍しく嘲笑に歪む。そして、手にしている本の表紙を軽く叩いた。
 
「初めは勉強のつもりだったんだけどよ、こういう小説のテーマで時々扱われんだろ? モナ・シンプソンの『ここではないどこかで』みてえなやつ。家族が居て、学校に行けて、何不自由なく生きてんのに、虚しくて、退屈で、満たされない…… 柄にもなく共感したね。俺も記憶を失ってから、ここではないどこかに本当の幸せがあるんじゃねえかって、ずっと、考えながら生きてる。この空白を埋める手段があるんじゃねえかって馬鹿らしい夢を見てる」
 
単純に聞かれたくないからか、後ろめたい思いがそうさせているのか、或いはその両方か…… 能仲の声は段々と小さくなる。
 
「去年の春、母親が死んだ。事件性のない事故死。悲しかった。けど、何か違うような気がして仕方なかった。俺からすりゃあ、三年ちょっとの間、母親として振る舞ってくれた人が死んだから悲しかっただけ。生みの親、育ての親に何の違いがあんのかって訊かれたら答えられねえけどよ、事実として俺はその悲しみに違和感を覚えちまったんだ。そんで気づいた。一日一日を噛み締めて生きようと思った。もう二度と忘れねえように。その一日が途方もなく辛くても、苦しくても、忘れたいって思うような出来事があっても、絶対忘れねえように。自分の事ながら不器用だと思ってる。だが…… これしかねえんだ。これが」
 
 
私が代わりに言葉を継ぐと、能仲は一瞬呆気に取られたような表情を見せてから、鼻で笑った。
 
「そういや、『たったひとつの冴えたやりかた』の著者も痴呆の旦那を撃ち殺してから、自殺したんだったな。夫婦仲良く手を繋いで」
 
「ジェイムズ・ティプトリーだね。彼女は実験心理学の講師でもあったから、私としては彼女の小説よりも論文のほうが馴染み深いが、面白い女性だったよ」
 
終業を告げるチャイムが校内に響いた。同時に学級委員が指示されるでもなく動き出して、クラスメイトからアンケート用紙を回収していく。
能仲は、強張った笑顔を作っている学級委員にアンケート用紙を手渡した後、気怠そうに席を立って、振り返った。
 
「……なあ。もし俺が、また記憶を失ったら」
 
「殺してくれと言うつもりなら、勿論、お断りだよ。そういう相談は聞き飽きていてね。心配は要らない。私は居なくならないよ。また次も友達になってあげよう。だから記憶を失っても、気にしなくて良い。どうせ私も懲りずに君の名前を訊くだろうし、君も懲りずに名前を教えてくれ」
 
私がそう言うと、能仲はまた鼻で笑って教室を出て行った。
忘れる事を誰よりも恐れている能仲は、空白を埋めようとしている。一方で忘れる事を誰よりも望んでいる百雲は、空っぽになりたがっている。
どうして、どこもかしこも、この世はいつも、狙ったようにボタンを掛け違えていくのだろう。どれかが一つ、ほんの一つで良いからズレてくれたら、何もかもが一斉に解決する気がするのに。
 
「だいぶ疲れているな、青年」
 
興味深そうな声が肩を叩いた。頬杖を外して、振り向く。
 
「哲学…… アンケートの件、ありがとうございました。面倒ばかり掛けてしまいますね」
 
「お前の考えている事に比べれば、これくらい面倒でも何でもない」
 
「私は何も考えてなどいませんよ。いつも行き当たりばったりで、己の力不足を嘆いて止みません」
 
「嘆くほど色々考えているという事だ」
 
哲学はスカートを押さえつつ、先程まで能仲が座っていた椅子に腰掛ける。
何故ここにと訊く必要はないだろう。一年生の教室に、生徒会長の哲学が現れたという事は、つまり。
 
「西高から得た『文化祭計画書』と、今回のアンケートについて放課後に臨時会議を開きたいのだが、時間はあるか?」
 
そういう事だ。
 
「実はアルバイトが入っていまして……」
 
「む。うち以外でも働いていたのか? それなら強制はできないが、参ったな。今日は釈迦郡もアルバイトとやらで午後から欠席しているらしいんだ」
 
哲学は顎に手を当てて、わずかに俯いた。
 
「らしい? 釈迦郡先輩とはクラスが別だったのですか」
 
「あいつは理数科クラスだからな」
 
「なるほど…… まあ、大丈夫ですよ。臨時会議が開かれる可能性は考慮していました。顔を出せるのは一時間くらいになるやもしれませんが、議題内容も、その対策も、既に幾つか用意しておきました」
 
「ほら、やはり考えているではないか。わたしの指摘した通りだ」
 
得意げに笑って顔を覗き込んでくる。自然と視線が窓の外へ逃げた。敷地を囲うように植えられた金木犀に花芽が形成され始めており、緑一色だった景色に彩を添えてくれていた。
 
―――
 
「皆、西高の『文化祭計画書』には目を通してもらえたと思うが、書記・会計である花塚の提案により、今年度の文化祭はこの『文化祭計画書』を模倣する形で開催する。それを踏まえて上で質問はないか? 何でも構わない。少しでも気になる事があれば言ってもらいたい」
 
放課後、生徒会室に執行部と文員が集まって臨時会議が行われた。ただ、臨時だけあって前回の本会議に比べると人数が少ない。哲学の言う通り、執行部会計長の釈迦郡は欠席しているし、文員にも空席が目立つ…… その中で、まず文員の三年生が手を挙げた。
 
「恐らく誰もが懸念している事と思うが、『文化祭計画書』に記されている催し物のすべてを行うだけのスペースが足りない。考えはあるのか?」
 
間を置かず、私が挙手をして答える。
 
「その対策として近隣にある空き地を利用するつもりでしたが、市役所に確認したところ、地主の了解が得られず、賃借の予定もないとの事でした。従って、大変不本意ではありますが、西高の『文化祭計画書』よりも大幅に縮小した文化祭にせざるをえません」
 
「大幅に縮小した文化祭とやらの展望は?」
 
「まず、クラスの一つひとつが各自で模擬店を開くのは無理でしょう。スペース確保の問題は勿論、業者とのパイプを持たない我が校では飲食物の大量発注が難しい。なのでクラス単位で模擬店を出すのではなく、三つに縮小します。手狭にはなりますが、校舎一階の多目的ホール、二階のコモンスペース、三階の食堂を使いましょう。肝心の模擬店の内容は、今日のアンケート結果で最も多かった要望の上位三つを採用…… 結綿副会長。アンケート結果はもう出ていますか?」
 
長机の真ん中に座っている哲学越しに結綿を見やる。彼は掛けている眼鏡を直しながら、「当然だ」と胸を張った。
自信満々なのは結構な事だ。アンケート回収から三時間も経っていないのに全校生徒分の集計をしてくれたのは、素直に有難い。哲学が関わらなければ、彼はとても優秀な生徒なのだろう。哲学が関わらなければ。
結綿は集計結果が書かれているのであろうノートに目を通しながら、口を開いた。
 
「生徒の要望で最も多かったのは喫茶店だった。全校生徒の半数以上が喫茶店と回答している。都合上、焼きそば屋・カレー屋・クレープ屋等々の飲食店も喫茶店の票として含めた。次に多かったのはお化け屋敷。何をどうするつもりなのか見当もつかないが、不思議と多かった。そして三つ目はカジノ」
 
「カジノ?」
 
と小首を傾げる哲学に、結綿は動揺しつつ答えた。
 
「は、はい。カジノのディーラーをやりたいのだとか。理解できませんが、そういう意見が多かったんです」
 
「どうしてカジノ……?」
 
今度は私に向かって哲学が訊いてくる。
 
「世界有数のカジノ都市であるマカオが、今年中にも中国に返還されるというニュースが連日流されているでしょう? その影響もあって、カジノを特集する番組も多くなった。頭に刷り込まれるくらいに。サブリミナルと言うほどではないと思いますが、知らずにバイアスが掛かってしまっているのでは? いずれにせよ、要望が多かったのであれば採用しないわけにもいきません」
 
「そういうもの、か」
 
哲学は納得したような、していないような、微妙な表情を浮かべながらも頷いた。
 
「では、最も広い一階の多目的ホールを喫茶店に、二階にお化け屋敷、三階にカジノ。文化部の出展は従来通りに。分かり易く学年毎に仕事を振り分けたいところですが、やりたくもない模擬店の手伝いをさせるのは心苦しい。明日、またアンケートを取りましょう。先程の三つのうちからどれを担当したいか、と」
 
「喫茶店が半数以上なんだろ? 偏るんじゃないか?」
 
文員の二年生が声をあげた。
 
「偏るでしょうね。なので、第一体育館と第二体育館の利用もしましょう」
 
「第二は良いけど、第一は演劇部と吹奏楽部が終日使うんじゃ……?」
 
「照明・演出の関係で音を立てられると困る演劇部は兎も角、音楽なら飲食しながらでも楽しめるのでは? ジャズ喫茶というのもありますし。駄目なら、演奏と演奏の合間にある休憩時間だけでも喫茶店にしましょう。この中に、吹奏楽部の方は?」
 
訊ねたが、手は挙がらない。空席の中に居るやもしれないが、悠長に待っていられない。
 
「百雲先輩。すみませんが、同じ文化部として吹奏楽部に話を通していただけませんか。飲食可能かどうかだけでも訊いていただけると助かります」
 
「ええ。お安い御用よ」
 
百雲が淑やかに微笑む。猫を被っている彼女の扱いには、未だ慣れない。本性を曝け出されても困るが。
 
「他に質問は? なければ、明日に再びアンケートを取り、明後日の十日から本格的に文化祭の準備に取り掛かりましょう。文化祭までの準備期間は日曜を除くと実質的には八日間…… 飲食物や資材の発注は早め早めにお願いしますね。それから…… ええと、先生」
 
案の定、名前を忘れてしまった執行部顧問を指差す。
 
「教師陣からの支持は得られそうですか?」
 
「ああいや…… や、やっぱり、結構難色を示してるよ。特に、年配の先生方は」
 
「最悪、支持が得られなくても構いません。とりあえず、『伝えるべき事は伝えたからな』というポーズが取れるように教師全員に話だけは通しておいてください。あと、何らかの発注で業者を利用する際、大人の承諾が必要な場合も多々あると思いますので、その時は積極的に協力をお願いします。業者とのパイプがなくて行き詰ったら、小金井先生を頼ってください」
 
「えっ、え、あ…… ああ、そうだな。解った」
 
相変わらず委縮している顧問を尻目に、頭の中で最終確認をする。
他に、他に考えておくべき事はあるか? 模擬店の決定、生徒達の振り分け方法、スペースの確保、体育館の利用。いま話し合える事は、これくらいのはず。あとは明日のアンケートの結果を待って…… 大丈夫だろう。問題ない。他者を見縊る悪癖があると自覚したばかりではないか。問題があったとしても、他の人間がフォローしてくれる。
 
「では、哲学。あとは任せても平気ですか」
 
「勿論だ。アルバイトが控えているのに、悪かったな」
 
「いえ、私が言い出した事ですから。何かあればまたすぐに教えてください。お先に失礼します」
 
文員同士が侃々諤々の議論を交わしている中、腰を屈めて生徒会室を後にした。最後にそっと百雲の様子を窺ったが、やはり澄ました顔で背筋を伸ばしているだけだった。
部屋を出て、屈めていた腰を元に戻すと、強烈な立ち眩みに襲われた。身体のコントロールが利かず、ドアに背を預けて天井を仰ぐ。そして大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
視界から色が消え失せる。意識が薄れかけているが、失うほどではない。
これも問題ない。単なる貧血…… いつもの事だ。何も問題はない。私は、私に構っている暇はない。
世界に色彩が戻りつつあるのを確かめながら、私は覚束ない足取りで歩を進めた。