大学生時分の話をしよう。
 
律令国家体制が進んで、地方豪族の統治権が中央に収公されちまったんだ。その代わり、豪族連中は郡司(こおりのつかさ)として地方行政官を任された。花路氏もそうだ。だがまあ、実態は国司(くにのつかさ)って奴らの部下に過ぎねえ。要するに、大和朝廷の支配体制が確固たるものになってく過程で、地方豪族も国家の行政機構に組み込まれていったってわけだ。そんで、律令国家から脱却し、王朝国家体制への転換期になると、土地制度だの税制改革だの適当な理由をつけて、農民の中から田堵(たと)、負名(ふみょう)って言う新たな公田経営、租税納入の請負をする富豪が誕生した。すると、相対的に郡司を任された豪族連中の力は自然と衰える。さらに、そういう新しい富豪の輩(ふごうのともがら)は決まって非常識で、型破りな連中だ。奴らは中央の有力貴族と結託して、税を納めなくなった。政府の金が払底するくらいにな。とは言え、政府も馬鹿じゃねえ。強力な筆頭国司に権限を集中させて、受領(ずりょう)として地方の統治体制を強化した。負け戦と判断した富豪の輩はすぐに白旗を挙げたが、抵抗するだけの力を蓄えてた富豪の輩は私兵を抱えて徹底的に戦い、納税を拒み続けた。それに対し、受領側も下級貴族から武芸に長けた人材を集めて、武力で対抗した。これが武士の起源だな」
 
「では、葛西党は?」
 
翼が口を挟むと、ドクターはどこからか麩菓子を取り出して頬張った。黒糖の甘い香りが漂ってくる。
 
「花路氏の末裔の郡司層は、最初こそ反受領側として武士と敵対する立場だった。だが、ある時から荘園勢力と組んで、武士化した。あっという間に武士団となり、十一世紀頃に葛西(カザイ)の党…… 葛西党って呼び名になった。葛西党は強かった。奴らは元々、蝦夷の地で、或いは出羽国で、或いは陸奥国で朝廷から押し寄せてくる征討団を何度も退けてきたんだ。強くて当然だな」
 
ドクターは麩菓子を食べ切ると椅子から立ち上がり、花嚴葦牙に関するパンフレットを持ってきて、床に広げた。
 
「これが葛西党の旗印だ」
 
見ると、捻じれた縄が円を描いているような意匠だった。
 
「葛西党は鎌倉時代室町時代を通じて、一定の勢力を維持してた。奴らは主に大宝寺氏、最上氏と争っていたが、戦国時代になると戸沢氏に敗れて、武士団としての領地支配権を失っちまった。それでも葛西党は寺社勢力へと変貌を遂げて、しぶとく生き延びた。それが今の葛西(かさい)家になる」
 
私はそれまでカザイ、カザイトウ、という響きをずっと聞かされていたが、時代が下り、遂にカザイが葛西(かさい)となった事で否応なく緊張が奔った。
ドクターは天井を仰いで息を吐いた。
 
「葛西は、残念だったな」
 
「はい」
 
翼も溜息交じりに頷く。
 
「私はな、あいつが葛西宗家の直系だと知って内心喜んだ。あいつの協力を得られたら、長らく進んでなかった花嚴の未調査地に切り込めたかもしれねえって」
 
「質問しても?」
 
黙って聞いていた私は、そこで初めて口を開いた。
 
「なんだ」
 
「葛西真一の死因は?」
 
ドクターは、翼の顔を見やりながら、「急病だって聞いてるがな」と答えた。
翼も同意するように頷くだけだった。
急病。まず間違いなく、嘘だな。
 
「ドクター」
 
翼が静かに声を掛けると、ドクターの長い髪が再び揺れた。
 
「葛西党は武士団としての力以外にも、呪術、医薬の類を専門としていたと言われているようですが、その中には、とても恐れられていた術があったそうですね」
 
「……ああ。まあ、信憑性は高くねえが、奴らは飾火(カザリビ)って呪術を用いてたとされてる」
 
ドクターは白い壁にペンで『飾火』と書いて、さらに“カザリビ”と仮名を振った。
 
「カザリビ」
 
私はその言葉を口の中で反芻した。
 
「極めて恐ろしい呪術だ。葛西党は、その先祖の花嚴葦牙が中国から持ち帰ったってされてる、九尾の狐を守護神にしてる。その九尾の狐が花嚴葦牙に授けた呪術が、カザリビだ。恐らく、最初は花嚴火(カザリビ)だったんだろうな。この呪術の恐ろしいところは、まさしく飾りの火って事だ。解るか?」
 
私は首を横に振った。
 
「飾火は熱くもなけりゃ、実際に燃えてるわけでもねえんだ。傍目からは火に見えるってだけ。それなのに、まるで火のように振る舞う。飾火を点けられたら、あとは灰になるのを待つしかない。燃えてねえから、消す事もできない。考えてみろ。一度点火したが最後、延焼するだけ延焼し尽くして、家も、村も、山も、すべて灰燼に帰しちまうんだ」
 
そこまで言われて、私は事の恐ろしさに気づいた。
 
「火のように振る舞う、火ではない、まったく別のなにか」
 
「そうだ。燃えてるはずなのに熱く感じねえ。それがたとえ、自分自身の身体でもだ。消す事ができないまま、炭化してく様子を、細胞が死に絶えていく様子を、ただ眺めるしかねえんだよ。絶命するまでな」
 
手の施しようがない状態で、焼死を待つのみ…… 想像すらしたくない。
 
「葛西党は時に、この呪術を敵対勢力に放ったらしい。ちょっと想像すれば解る事だ。抑制の利かない火を放つなんて暴挙は、まさしく呪いとしか言い様がねえな。葛西党がこれを使い始めた時、周辺の諸勢力は一致団結して葛西党を叩きのめした。それ以来、葛西党は飾火の使用を控えるようになったそうだが、他の勢力もまた、葛西党とは関わりたくねえって考えるようになった。今風に言えば、核抑止だな」
 
ドクターは一通り喋り終えると、「まあ、そういう伝説があるってだけだ」と締め括った。翼はその向かい側で、表情を凍らせて目を伏せている。
 
「もう終わりでいいか? 眠い」
 
ドクターはデスクに放ってあったアイマスクを手に取って、椅子に深く腰掛けた。
 
「あ、はい。本日はお時間を取っていただいて、ありがとうございました」
 
翼が礼を述べて頭を下げるのを見て、私もそれに倣い、研究室を辞去した。
研究棟の廊下は来た時よりも温度が下がっているかのようだった。
薄ら寒い空気の中を歩きながら、私は再び翼に問い掛けた。
 
「葛西真一の死因は何だ」
 
翼が被っている白いキャスケット帽が、薄暗い廊下に揺れて、やけにくっきりと浮かんで見える。
一歩前を歩く翼は振り向かずに、背中越しに答えを差し出した。
 
「焼死よ。葛西君は、独語研究会の部室で、突然火に巻かれて死んだ」
 
「焼死?」
 
流石に、あの話の後で言うような冗談とは思えない。なにより、感情を押し殺したような翼の声色が、それが真実である事を告げていた。
 
「理由は分からない。見ていた私達にも、一体何が起こったのか、まるで分らなかった。でも、葛西君は、確かに炎に包まれて、死んだ…… いいえ、少し違うわね」
 
翼が振り向いた。青白い顔だった。
 
「消滅したの。跡形も、残らなかった」
 
「跡形も、と言うのは…… 灰すら残らなかったと?」
 
「そうよ。私達は皆、集団幻覚でも見たのかと思ったわ。でもそれから、葛西君は私達の前から消えた。葛西君の実家にその事を連絡すると、それからすぐに葛西真一は病死したと大学に伝えたそうよ。まるで、こうなる事を予期していたみたいに」
 
「散々話に登場した、葛西宗家に連絡を?」
 
「ええ。花路氏、葛西党の系譜を継ぐ一族よ」
 
そしてしばらく沈黙が降りた後、私達はどちらが言うでもなく大学の食堂に入った。外は夕暮れとなっているのに、今日はまだ何も食べていなかったのだ。
中途半端な時間帯だからか、食堂は空いていた。ひと気のない窓際のテーブルを陣取って、二人して適当に見繕った総菜パンを食べた。
 
「……それで、糾君が見た葛西君というのは、幽霊とは別物なの?」
 
翼はハンカチで口元を拭いながら、訊ねた。
 
「少なくとも私には、生身の人間そのものにしか見えないな」
 
私は未だに一体何が起きているのか、整理できないでいた。
 
「葛西君が部室に現れている時、私達は彼を生きている者として接している。そして、それ以外の時は、私達はその記憶を失う」
 
確認するように呟く翼に、私は補足する。
 
「改竄だよ」
 
「でも、俄かに信じ難いわね」
 
翼は椅子の背もたれに身体を預けた。
 
「なにより不思議なのは、何故あなただけ、その記憶を保持しているのかという事よ」
 
それは私も疑問に感じていた。
仮に独語研究会の集団幻覚の賜物だとしても、私という異物のせいで整合性が取れない。それとも、私だけが不可解な妄想に囚われているのか。
向かいに座っている翼が、じっとこちらを見据えている。その目の奥の正気を、見通そうとするように。
 
「糾君。部屋に居る時の彼は、どんな様子なの?」
 
「窓際の席で読書に耽っているよ」
 
「誰も、それを疑問に思っていないのね?」
 
「今のところは」
 
「この私でさえも?」
 
「ああ」
 
私が頷くと、翼は一瞬俯いてから立ち上がった。
 
「もしかしたら、今も居るかもしれないのね」
 
そうして私達は独会の部室へと向かった。私は翼のあとに続いて歩きながら、こういう時に限って居ないのだろうな、と考えていた。
思い返せば、葛西はいつも、いつの間にかそこに居る。喋り出して初めて気づく。ただ単に影が薄いわけではない。ひょっとすると、他者に認識されたその瞬間に存在を確定させているのではないか。そんな気さえしてくる。
いつものようにサークル棟の階段を上り、三階の廊下を進み、部室の前に立った。
 
「誰か来ているようね」
 
扉には鍵が掛かっていなかった。開けて中に入ると、部室には一人…… 葛西が窓際の椅子に腰掛けていた。
私は思わず硬直した。
その横を何事もなく通り過ぎて、翼は机の上の連絡ノートを手に取った。
真っ先に声を発したのは、葛西だった。
 
「花嚴町に行っていたんだね」
 
「ええ。糾君に、独語研究会員恒例の花嚴巡りを堪能してもらったの」
 
翼は連絡ノートに目を通しながら、落ち着いた口調で答えた。
 
「わざわざ、こんな暑い日じゃなくても」
 
「そうね。梅雨前に連れて行くべきだったと後悔したわ」
 
翼はキャスケット帽を脱いで机に置くと、手の甲で額の汗を拭った。
つばさ。
おい。
つばさ。
私は、声にならない声で呼び掛けていた。
それは、死人なのだろう。
自分自身で、そう言ったはずではないか。
しかし、今それを口に出したところで決して受け入れてもらえない事が解るのだ。直感で。
今、この部室の中では葛西真一が生きているという世界線にある。
 
「葛西、さん」
 
私は彼をどのように呼ぶべきか逡巡したものの、結局は普通の呼び方をした。
 
「葛西さんの燃焼能力とやらは、九尾の狐から授かったとの事だが…… 本当に?」
 
葛西はじっとこちらを見つめている。
 
「ああ、そうだよ。信じてくれるかな」
 
「なら、夢に現れたという話も?」
 
そう問い掛けると、葛西は翼を見た。非難するような表情で。
 
「そこまで話したの?」
 
「ごめんなさい。つい、流れで」
 
翼が苦笑を浮かべる。
 
「九尾の狐は、言わば聖獣。葛西一族の守護神なんだよ。それを簡単に教えるなんて」
 
その聖獣の力だとでも言うのか、これは。
私は、今まさに目の前で起きている説明のつかない現象の只中で、無力感に苛まれていた。
 
「ふう…… 歩き回って疲れたから、今日はもう帰るわね」
 
翼は手元の連絡ノートを閉じると、キャスケット帽を被り直した。
 
「あ」
 
私は引き留めようとしたが、当然のように出て行く翼の後ろ姿に、声を掛ける事ができなかった。
バタン、と扉が閉められて、部室には私と葛西の二人だけが取り残された。
 
「どうしたの。立ってないで、座ったら?」
 
葛西が手近な椅子を薦める。
 
「……その前に訊いておきたい」
 
私は覚悟を決めて、葛西の傍らまで歩み寄った。
 
「この状況を作り上げているのは、葛西なのか」
 
「この状況?」
 
「嘘吐きに嘘は通用しないと思ったほうが良い」
 
この男は、全部解っている。私だけが、葛西真一が死んでいる世界線と、生きている世界線の両方を知覚している事を。
 
「幽霊ではない。霊感の強い独会のメンバーが誰も気づいていない事からしても、それは明らかだ。では、一体何者なのか。教えてくれないか」
 
「…………」
 
葛西は、私に右手の甲を向けて、五本の指を広げた。
 
「霊感、ね」
 
つまらなそうに呟くと、人差し指の上に、ポッと火が点った。まるで蝋燭の炎のようだ。続いて中指、薬指、親指、小指と…… すべての指の上に火が点る。
その火が、徐々に指先から離れて、宙を彷徨い始める。
私はそれを目の当たりにして、一歩退いた。しかし、五つの火は速度を上げて、纏わりつくように私の周囲を回り始めた。
 
「敵意の表れか?」
 
私は身構えながら訊ねたが、葛西はかぶりを振った。
 
「さっき“霊感”と言ったね。花塚君の言うそれは、ごくごく初歩的なものだよ。漏れ出ている気を感じ取っているだけ。その感覚器に補足される事を避けようとする存在も居る。狡猾で、悪意を秘めた意思。隠形(おんぎょう)の術を身に着けたホンモノを知覚するのは、とても難しい」
 
油断なく身体に纏わりついてくる五つの火が、さらに速度を上げた。
火に包まれるのは時間の問題。どうする?
思考を巡らせたその時、私の頭…… 後頭部の辺りから、なにか黒いものが飛び出してきた。
 
「今度は何だ」
 
一瞬、蝙蝠のように見えた。羽ばたいて宙を舞うそれはしかし、生物ではなかった。真っ黒な折り紙のようなもので作られた、不気味な物体。
私はハッとした。“妹”を自称する芹沢緑に出会った日の夜…… 同様の物体を見た。正確には、緑が発見して、消し去った。
一体何だと言うのか。
 
「花塚君は気づいていなかったね。君の感覚器は、とても素晴らしいよ。とても強くて、とても恐ろしい。しかし、それを以てしても捉えられなかったんだ。この世には、そういうホンモノも居る」
 
蝙蝠を模した黒い紙は、甲高い声で鳴きながら、周囲を回る火を威嚇した。やがて火の輪から抜け出そうと羽ばたいたが、あえなく火に捕らえられて、燃え上がった。
私達の見ている前で、謎の物体は燃え尽きた。跡形もなく。五つの火も、役目を終えて消えてしまった。
 
「今のは……?」
 
ようやくその言葉を絞り出した私に、葛西は穏やかな口調で語り掛けた。
 
「幣(ぬさ)だよ。神道の祭祀なんかで使われているのを見た事ないかな? 分厚い紙の。本来は神々の霊魂が宿る依り代とか魔除けになるんだけど、あれは式神だね。使い魔と言っても良い」
 
魔除け。確かに、緑もそんな事を言っていた。
 
「何となく解ってきたんじゃないかい? ああいうのが居るのさ。魔除けを演じて潜むようなのがね…… それにしても、参ったね」
 
葛西は再度、右手を広げた。
 
「向こうは、もう花塚君に興味津々だ。こうして遠方から情報収集するくらいに。もはや、ドクターの言う“感染”よりも厄介な事態になりつつある。だって」
 
葛西は椅子に座ったまま、自嘲気味に笑う。
 
式神の天敵である葛西の人間が、独語研究会から消えてしまったからね」
 
私は言葉もなかった。
 
「翼君は、ちゃんと気づいていたよ。今のが花塚君に憑いていた事を。気づいていて、泳がせていた。なにか考えがあるらしい」
 
また指先に五つの火が点る。
 
「……結局、葛西真一は何者だ? 幽霊なのか、幽霊ではないのか」
 
いずれにせよ、初めて会った時に抱いた警戒心は正しかったと思う。この男は、途轍もなく、面倒臭い。
葛西は答えない。ただ、右手の火を見つめている。
私はさらに疑問をぶつけた。
 
「葛西真一はこの部室にしか現れない、地縛霊のようなものなのか? そして現れている時、その状況が終わった時も、メンバー達の記憶を改竄しているのか」
 
葛西は、ゆっくりと首を横に振った。
 
「違うよ。これは、思い出の残滓」
 
「思い出?」
 
私は唖然とした。本当に幽霊ではないという事なのか。
 
「そう、思い出。思い出はやがて薄れて、いつか消えるんだ」
 
葛西は述懐するような口調で答えると、誕生日ケーキの蝋燭にするように息を吹いて、火を消す。そして椅子から立ち上がった。
咄嗟に身構えたが、葛西は笑ってその横を通ると、たった一つしかない部室の扉に手を掛けた。
葛西が、部室を出る。今まで見た事のない光景だ。
葛西は扉の取っ手に右手を掛けたまま振り返った。
 
「翼君を頼む。彼女も、とても強い女性だ。でも、傷つかないわけじゃない。彼女は無我夢中に走り続けてきた。傷ついても、決して走るのを止めなかった。結末を見てしまったから…… だから、花塚君を待っていたんだ。何もできない葛西真一の代わりに、彼女を頼むよ」
 
葛西はさらに何かを言い掛けて、小さく首を振ると扉を開けて部室から出て行った。