もうすっかり猛暑期を越えた…… はずなのだが、依然として暑いので高校生時分の閑話でもしよう。
学校に到着するなり、校門前は非日常的な喧騒に包まれていた。パトカーと救急車が一台ずつ停車しており、今まさに男子生徒が担架に乗せられて運ばれていくところだった。遠目から覗いただけだったが、なにやら腹部の辺りを押さえているように見えた。外傷らしい外傷はなく、衣服が血液に染まっているわけでもない。
救急搬送が必要なほどの腹痛…… 十代にして消化管の急性穿孔になるとは考え難い。だが虫垂炎や憩室炎、腸閉塞が祟っての腹膜炎は充分有り得るか。いずれにせよ、私には関係ない。これが他人様の凶兆に入るとしたら、とんだ肩透かしと言える。
野次馬の間隙を縫って昇降口まで歩いていくと、見ず知らずの女子生徒に声を掛けられた。皺一つない制服。腰に届きそうなほどの長い黒髪を三つ編みにして、いかにも大人しそうな風貌だった。
「曽根君、腸炎ビブリオってのに罹っちゃったんだって」
どうやら、運ばれていった男子生徒は曽根という名前らしい。彼も知らない顔だが、不運と言う他ない。
腸炎ビブリオと言えば、サルモネラに並んで拡大している感染症の一つで、時折ニュースでも取り沙汰されている。感染源は海産物が主との事だが、海水浴をしただけでも罹患する可能性があるそうだ。国立感染研究所とやらが注意喚起の為の会見をしていた覚えがある。
「隔離とかされちゃうのかな。学級封鎖もあったりして」
女子生徒は不安げな面持ちで呟いた。制服に付けられた学年章の色を見るに一年生…… 私と同学年という事になる。
私の通う高校では学年毎に赤、青、緑という三種類の学年章が渡される。それを順々に繰り返していくのだ。今年度で言えば一年生なら赤、二年生なら青、三年生なら緑となり、来年度の新一年生には緑が支給されるわけである。
私は走り去っていく救急車を遠巻きに眺めながら、件の会見で報じられていた内容を思い出す。
「腸炎ビブリオは人間から人間に感染しない。数日で回復するし、予後も良い。あの何某という男子生徒が免疫不全に陥っているなら最悪死亡するやもしれないが、すべて彼一人で完結するさ。学校の飲食物に問題ない限りは封鎖もされやしない。非常に残念だね」
仮に死亡したとしても、私達の生活には何ら影響を及ぼさない。一週間程度は生徒達の話の種として活躍してくれるだろうが、一ヶ月もすれば忘れているだろう。既に私は搬送された男子生徒の名前も忘れかけている。
女子生徒は物思いに耽るように俯いて、物騒な事を呟いた。それを聞いた者は私以外には居ない。教室に戻れと叫ぶ教員と、物見遊山で集まった生徒達の喧噪によって彼女の声は遮られている。
「……君を突き出せば、感謝状が貰えるのかな。私としては警察協力章のほうが嬉しいが。大学受験に必要な調査書にも影響するだろうし」
私は未だ校門前に陣取っているパトカーを指差して言った。搬送されていった男子生徒の担任と思しき人間が聴取を受けているようで、二人の警察官が頷きながらメモを取っている。
私の言葉に女子生徒は驚く様子もなかった。彼女は視線を持ち上げて、平然と口を開く。
「表彰されたいなら、もう少し泳がせてからのほうが良いと思うな。死人も出てない食中毒事件を解決したって面白くないよ?」
明らかな自白だった。ボイスレコーダーで録音でもしていれば確実だが、このままでも充分に重要参考人として確保できるだろう。だが、この場合は一体どうすれば良いものか。仮に、この女子生徒が私の想像しているような人物だったとして、それが何だ? 私自身に火の粉が降り掛からなければ、対岸の火事に過ぎない。殺人にでも発展すれば面白いが…… 面白い? なるほど。確かにその通りだ。現時点で要らぬ正義感を出しても面白くない。
「君の目的は?」
訊ねると、女子生徒は片目が隠れるくらいに伸びた前髪を耳に掛けて、声を潜めた。
「人を殺したい。ボクの為に。人を殺せば、ボクは変われると思うから」
意味の解らない回答…… のはずだったのに、不思議と理解ができた。根底にあるものが似通っているのだろう。私達は、殺人を契機として考えている。それによって変えたいものが違うだけで。
「目的を達成したいなら、まずは独り言を口にする癖を直したほうが良い。聞かれたのが私でなかったら目的も何も」
「聞こえるように喋ったんだよ」
「何故?」
「ボクに協力してくれる人がほしかった。それが花塚君だった」
あっけらかんとした様子で宣った。
「……何故?」
私は呆気に取られて、反芻するように同じ言葉を繰り返した。
「花塚君の事をずっと観察してて、思ったんだ。この人なら協力してくれそうって」
「観察? 私を? 奇特にもほどがある」
「そんな事ないよ。真後ろの席だったし、花塚君は目立つしね」
真後ろ…… という事は、クラスメイトだったのか。教室での記憶を呼び起こそうとして、すぐに止めた。一人も顔が浮かばなかったからだ。人間の顔が覚えられない事を相貌失認のせいにしてきたが、これは酷い。生来の性質として覚えようとする能力が欠けているのやもしれない。流石に申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。
「名前を教えてもらっても?」
余所余所しく訊く私に、女子生徒は可笑しそうに口元を押さえた。
「呼ばれるほうは良くても、呼ぶほうは白い目で見られるだろう……」
比売宮はまた笑った。
恐らく、今の自己紹介は彼女の中でお決まりの文句なのだ。それを多用しては相手を困らせてきた。彼女のひととなりは掴みきれていないが、何となくそれが解る。
「で、手伝ってくれるよね? ボクの殺人に」
まるで世間話でもするかのような気軽さだった。
「花塚君はボクに知恵を提供してほしい。代わりにボクは…… 花塚君の人生を豊かにしてあげるよ。この下らない世界を少しでも彩ってあげる」
「人生だの世界だのと、また随分と大きく出たものだね」
「ボクもそう思う。でも、これくらい言わないと乗ってくれないかと思って」
「……仮に、比売宮が人間を殺して目的を達成したとして、それからどうする」
「花塚君の好きにして良いよ」
その言葉の真意を測りかねて、私はわずかに首を傾げた。比売宮の大きな左目がこちらの動きに合わせて揺れる。右目は伸ばされた前髪によって塞がれており、彼女の表情を霞がかったものにしていた。
「好きに、とは?」
「そのままだよ。殺しても良いし、食べても良い。好きなようにして」
その時、私はようやく自分自身が置かれている立場を理解した。
人間の形をしたそれは、絡みつく相手を求めて蔓を伸ばしていたのだと。いま初めて地表から芽を出したのではない。地中では既に根絶が不可能な域にまで根を張っていたのである。
「ちなみに、拒んだ場合は?」
念の為に訊いてみると、今度は比売宮が校門前のパトカーを指差して他人事のように嗤うのだ。
「一緒に楽しい獄中生活」
「……このクズが」