もうすっかり猛暑期を越えた…… はずなのだが、依然として暑いので高校生時分の閑話でもしよう。
一九九九年の七月。気温が三十度を越える事のほうが珍しかった当時、世の大人達が策定した『気候変動枠組条約』やら『温暖化対策』やらを冷房の利いた部屋で眺めては、所詮は他人事だと一笑に付していた。
実際、百年後を見越した計画など私には関係ない。今日明日のうちに急変するなら兎も角、生きてすらいないはずの世界の行く末に興味はなかった。
あの夏は、ひたすらに飽いていた。
虫の音色も、夏草の香りも、夜空に瞬く星でさえも普段と変わらなくて、僕が私として生き始めた最初の夏だというのに、何の感動も齎してはくれない。
数多の銀行や生命保険会社が破綻しても日常に影響はなく、恐怖の大王は一向に人類を滅亡させない。だから、時間の問題だった。
そうだ。早いか遅いかの違いでしかなかったのである。私が重い腰を上げるのは。それがたまたま、その時だった。
 
「――ほら、早く起きろ。朝食が冷めるぞ」
 
深い水底から浮き上がるように、意識が覚醒した。暴力的な陽射しがカーテンと瞼を難なく透過して、油断しきった瞳孔に入り込む。
薄っすらと瞼を開けて周囲を探ると、ベッド脇に女性が立っていた。腰に手を当てて、仁王立ちでもするように。
誰だったかな。
表情を見るに呆れたような様子だが、呆れられるような事をした心当たりはない。だが過去の自分に自信がない。ひょっとしたら私の記憶にはないところで、礼を失する行為に及んでいた可能性もあるだろう。大事に発展する前に謝罪しておくべきか。いや、大事に発展してから改めて考えよう。そのほうが楽しい。
そう思い至って身体を包んでいたタオルケットに潜り込むと、数秒とせずに剥がされた。灰色のタオルケットが宙を舞っていく。
 
「目が合ってから二度寝するな」
 
「……映と目を合わさなければ二度寝ができた、と?」
 
「屁理屈を捏ねる暇があったら、さっさと顔でも洗ってこい」
 
「はいはい」
 
息を吐いてから上体を起こす。
静かで、穏やかな朝だった。音もなく、匂いもなく、真っ白なレースのカーテンが風を受けてたおやかに靡いている。
私が先程まで横になっていたセミダブルのベッドは部屋の窓際に配置されており、こうして窓を開け放つだけで寝苦しさも随分と解消される。壁掛け時計に目をやると、午前六時半を過ぎようとしていた。
 
「……静か過ぎないかい?」
 
私は、相変わらずベッド脇でこちらを見下ろしている女性――藤野映(ふじの はゆる)に訊ねた。
 
「結構な事じゃないか。騒々しいのは勤務中だけで充分だ」
 
「いや、そういう事ではなく」
 
「まだ寝惚けているようだな」
 
映はブラウンに染めたショートボブの髪を揺らして、こちらの顔を覗き込んでくる。彼女は警察署の生活安全課で働く警官であり、親の居ない私の後見人であり、同居人でもあった。
藤野映との出会いは有り触れたものだ。深夜に街を徘徊していたらパトロールしていた彼女に補導されて、事情を話すと…… という流れである。その後、各々の戸籍謄本を取り寄せて未成年後見人選任申請書を作成し、家庭裁判所の手続きに基づいて正式に認めてもらった。見ず知らずの子供に何故そこまでの温情を掛けるのか不思議でならなかったが、私は何も訊かなかった。彼女も私の過去について何も訊かない。ただ、洗いざらい話せば彼女はどういう反応を示すのかという興味はあった。傷害致死に死体損壊、殺人教唆…… 本来なら、鑑別所を飛ばして医療少年院送りが妥当だろう。
とは言え、いくら飽いていてもこの生活を手放すのは惜しい。手放す時が来るとしたら、それは人生にも飽いてしまった時だ。
 
「映が起きたのは何時頃?」
 
訊ねながら、ベッドから足を放り出して立ち上がると、両足の大腿筋に鋭い痛みが奔った。激しい運動をした覚えはないので、単なる成長痛やもしれない。この一年の間に十センチ近く伸びて、いつの間にか背丈は百八十を超えていた。ただ、残念ながらそれを活かせるだけの運動神経は持ち合わせておらず、うどの大木に終わる公算が高い。
 
「五時だ」
 
「その時、雀は鳴いていた?」
 
「雀? さあ、鳴いていたんじゃないのか」
 
「本当に?」
 
いきなり突拍子もない質問を投げ掛けられたにもかかわらず、映は腕を組んで、しばし考え込むような素振りを見せた。
本当に真面目な女性だな、と敬慕する。同時に損な性質だとも思う。力の抜きどころを弁えなければ、いずれどこかで綻びが生じる。それはノイローゼとして、または鬱病として…… 若しくは、五年ほど前に発表された『精神疾患の診断・統計マニュアル』に倣って言うなら適応障害として表面化する。しかし、日本の社会通念は精神病を認めない。許容されないのである。一九四八年に世界精神保健連盟が設立されてから半世紀以上経つというのに、精神医療も、精神衛生法も満足に行き渡っていない。誰かが声をあげなければ変わらないという事だろう。宇都宮病院事件が良い例だ。世の中は、死者が出ない限り変わらない。
要するに、誰かが死ねば変わるわけである。誰でも良い。誰かが死ねば、変えられる……。
 
「何も鳴いていなかった、と思う。少なくとも、アタシの耳には届いてない」
 
たっぷりと時間を掛けて、映は曖昧に答えた。
 
「……なら、今日は良い日になりそうだね」
 
「そうなのか?」
 
「十六世紀の内乱で宗教改革が行われる以前のデンマークでは、『雀の鳴かない朝は凶兆』と信じられていたらしい。雀は産まれてくる人間の魂に反応して鳴く為、雀が鳴かない日に産まれた赤子には魂が宿っていないとされていた。だからと言って、無意味に間引かれるという話には至らなかったそうだが…… まあ、そういうわけで古いデンマークの人々は目覚めた時に聞こえてくる雀の鳴き声に日々感謝していたのだとか」
 
映は感心したように、「ほお」と声をあげるや否や、すぐに表情を曇らせた。
 
「お前の話だと、雀の鳴かない朝は凶兆なんだろ? 全然良くないじゃないか」
 
「雀の鳴かない朝を迎えたのは私達だけではないでしょう。鳴き声を聞かなかった誰かに災いが降りかかれば良い。他人様の凶兆は、私の吉兆だよ」
 
「まったく…… その捻じ曲がった根性はいつか叩き直してやるとして、早く朝食を済ませろ。遅刻するぞ」
 
映は溜息交じりにそう言い放って、朝食の並ぶリビングへと足を向けた。ぎこちない歩き方で。それを知らなければ見逃してしまうくらい繊細な動作だが、間違いなく彼女の左足は問題を抱えている。正確には、抱えていた、と言うほうが適切やもしれない。
映の左の踵には手術痕があった。かつてはシンクロナイズドスイミングの選手としてアトランタ五輪の強化指定選手にも抜擢されていたが、その練習中にアキレス腱を断裂。筋委縮の少ない手術、リハビリを続け、半年後には復帰できたというのに五輪出場はおろか、幼い頃から情熱を傾けていたシンクロからも遠ざかり、こんな片田舎で公僕になる事を選択した。年齢で言えば、まだ二十五歳。諦めるには早過ぎる気もするが、彼女なりに考え抜いた末に導き出した結論なのだろう。その苦労を知らない私が口を挟むべきではない。
私は一旦リビングを通り抜けて、その先にある洗面台で顔を洗い、口を濯いだ。傍らに用意されているフェイスタオルで顔を拭うと、備え付けられた鏡が目に入る。血色の悪い男の間抜け面があった。鏡に顔を寄せながら、下瞼を人差し指で軽く押してその裏側を確認する。
白い。瞼の裏側だけでなく、指先も、肌も、気持ち悪いくらいに白かった。高校生になってからはなるべく控えていたのだが、そう簡単に回復しないか。
私は鼻で笑って、フェイスタオルを洗濯籠に放った。
 
「今日はちゃんと帰ってくるのか?」
 
食卓に着くなり、既に食べ始めている映が声を掛けてきた。
テーブルには白米と鯖の塩焼き、茄子の漬物、そして味噌汁が並んでいる。味噌汁には例の如く油揚げと細切りの大根が入っていた。映との共同生活を始めた一回目の食事で、この味噌汁が出てきたのを今でも克明に覚えている。その時に私が、「この組み合わせが一番好きだ」と伝えて以来、味噌汁の具は必ず油揚げと大根になった。
何の気なしに褒めた料理が何度も食卓に上る様子は、まるで母親のようで、大変興味深かった。しかし何より興味深かったのは、そんな経験のない私でもそう思った事である。母親とは斯くあるべし、という虚像が私にも存在していたのだ。
 
「すぐ帰るよ。何もなければ」
 
特別用事があるわけではなかったが、一応予防線を張っておく。いくら私でも半日後の事まで保証はできない。
私は一口サイズに切り分けられた漬物の一つを摘まんで、訊き返す。
 
「映こそ、ちゃんと帰れるのかい」
 
「……何もなければ」
 
そういう事だ。何かある事のほうが常である警察官の退勤時間など、守られるはずもない。特に生活安全課…… 所謂“生安”の人間はその業務内容から恨みを買い易く、大小様々な揉め事に見舞われる。
 
「警察を辞めようと思った事は?」
 
「毎日思ってる」
 
「なのに、よく続けていられるね」
 
「貰い手が居ないから仕方ない」
 
映はぶっきらぼうに言い放って、自棄を起こしたように茶碗の中身を掻き込んだ。そして、それを白湯で一気に胃へと流し込む。
豪快で、早い。私がだらだらと漬物を咀嚼している間に、映は朝食を済ませてしまった。これも職業柄か。
などと考えていると映はテーブルに両肘を突き、わずかに身を乗り出した。真正面に座る私に顔を近づけるように。
 
「あと二年か」
 
何が、とは訊かなかった。代わりに以前から訊きたかった事を口にする。
 
「最後に恋人が居たのは、いつ?」
 
「去年の暮れ…… だから、七ヶ月前くらいだな」
 
「どんな人間だった?」
 
「最悪のクズ野郎だった」
 
喧嘩別れだったのだろうか。痕跡は見当たらないが、ここまで罵倒されるような出来事が二人の間にはあったようだ。
 
「その前は?」
 
「最低のゲス野郎だった」
 
「……私が言える事ではないが、男を見る目は養ったほうが良い。いま目の前に居るのは過去のどの男よりも最低で最悪の人間だよ。必ず後悔する」
 
決して大袈裟ではない。後悔する時が来る。そして、後悔してからではもう遅い。何もかも遅い。
それなのに、映は勝気な笑みを浮かべた。
 
「かもしれないな。でも、こっちはそんな後悔も織り込み済みなんだよ」
 
なら、私から言える事はない。
あと二年…… あと二年の間に、君は死ぬ。私の為に。やがて気づくはずだ。糾った糸は後悔だけでは済まなかった事に。
 
「……そもそも、未成年後見人と未成年被後見人は結婚できるのかい?」
 
「前例はないけど、その二人の結婚を禁止する法律はないからな。まあ、してみれば判る」
 
映はそう言いながら両手の人差し指を立てて、その指先を合わせるジェスチャーをした。
 
「その口振りからして、調べたのか」
 
「とっくに」
 
「気の早い事で…… 取らぬ狸の皮算用にならないよう祈っておくよ」

「うん。祈ってて。アタシの為に」

 

そうして私達は各々で支度をしてから家を出た。映は勤務先である警察署へ、私は学校へと歩を進める。
その日、雀の鳴き声どころか、その姿さえ見る事は叶わなかった。
まだ予感ですらない何かが…… 言い様のない不安と期待が胸に去来していた。春先から停滞していた時計の針が唐突に動き出したような変化を、確かに感じていた。