執筆作業が遅々として進まないので、現実逃避がてら近況でも話そう。
「――お疲れのところすみませんね、お兄さん。ちょっとお話いいですか」
睡魔が首をもたげてきた頃、馴れ馴れしく話し掛けてくる声に叩かれて頭を持ち上げた。声の主は女性だった。鎖骨の下まで真っ直ぐに伸びた黒髪を揺らしながら、椅子に座っていた私の顔を覗き込もうとしている。
うざったい絡み方だ。だが、この人物が何者で、何の用件で声を掛けてきたのかは理解できた。
「……職務質問なら付き合いますよ、お巡りさん」
制服ではなく、どこにでも居るよなビジネススーツ姿だったが、彼女の探るような目つきが如実に物語っていた。首ごと視線を動かすと、やや離れた位置にもう一人…… 厳めしい顔つきの男性が、こちらの一挙手一投足を油断なく見据えている。
「あらら。勘の鋭いお兄さんで」
四十代くらいだろう。女性は黒一色のジャケットの内側へ右手を差し入れ、薄黄金のエンブレムで飾られている手帳を取り出した。その仕草には無駄がなく、何百、何千と繰り返してきた経験と職務の熟練を匂わせている。
「お察しの通り、こういう者です。高井戸警察署地域課の鵜沼佐幸(うぬま さゆき)と言います」
私は手帳と女性を見比べた。警部補というシンプルな肩書の下に“鵜沼佐幸”と記されている。貼付された顔写真は眼前の女性と同じもの。
鵜沼は手帳を再び胸元に収めて、先程から睨みを利かせている男性警察官と思しきほうを掌で示した。
「あっちもそう。新米だけど。これがまた、絵に描いたような堅物でしてね。冗談のひとつも通じない。息苦しいったらありゃしないから、こうやって新米から離れて息抜きしてるってわけなんですよ」
「職務質問で息抜きですか」
「そうそう! でも、これを新米に言わないでくださいよ。職権乱用だの何だのって騒ぎ出しますんでね」
自分でそう言って、あははっ、と溌溂な笑い声をあげる。
無論、そういうポーズだ。疑っているのに、疑っていませんよというポーズ。なかなか本題に入らないのも私の反応を確かめる為…… 「さっさと訊きたい事を訊け」と迫りでもすれば、今しがた告げてきた“息抜き”を理由に会話を引き延ばそうとしてくるだろう。
「……実際、今の私は怪しいのでしょうね。プロが見るまでもなく」
いま私が居るのは、学院からもさほど離れていない繁華街の一角。十代・二十代の女子がいかにも好みそうな衣服を扱っているセレクトショップの店頭に設けられた、可愛らしいデザインの椅子の一つを陣取っていた。
誰がどう見たって場違い。不審者そのものである。この職務質問も別に偶然ではないのやもしれない。店員か、或いは通り掛かりの人間か、そういう第三者の通報があったとしても何ら不自然ではない。明らかに私のような人間には縁のない場所。
では何故、そんな縁のない場所に居るのか。
端的に言えば、罪滅ぼし。
誰に対して? 言うまでもない。
「あ、ここに居たんですか。参考までに聞かせてください。こっちとこっち、どっちが似合うと…… って、なんですか、この状況」
罪滅ぼしの相手――生方は二着の浴衣を自分自身の身体に重ねながら、そのままの状態で訝しそうに私を、そして私を問い詰めようとしている二人の警察官を交互に見比べた。
―――
「浴衣を買いに行きます」
三者面談の後、私達は校舎の玄関口へと向かって廊下を歩いていた。その途中で、生方がそう言い放った。
未だ彼女の眉間には深い皴が刻まれているが、坂崎による個人面談とやらに関しては言及してこなかった。不気味なくらいに。
「気をつけていってらっしゃい」
と返したのは何も意地悪からではない。意図こそ不明であるものの、単純に今後の予定を教えてくれているのだと思ったからだ。
「浴衣を買いに行きます」
生方はまったく同様の調子で繰り返した。だが、流石の私も解る。これ以上怒らせるなと言外に語っていた。個人面談について言及しない事で、彼女は私に対して貸しを作ったのだ。だからそれを返せと。
「……かしこまりました」
その返事は彼女の納得のいくものだったようだ。満足げに鼻で笑うと、彼女はほんの少しだけ歩幅を広げて足早に校舎を飛び出した。
そうして向かったのが女子向けのセレクトショップだった。ティーンエイジャーに評判の良さそうな色鮮やかな浴衣から、二十代そこそこの女性が身に纏う事を想定したような落ち着いた色合いの浴衣まで、多種多様な品揃え。平日の昼過ぎではあったが、店内は姦しい声に溢れており、否応なく居心地の悪さを覚える。
幸か不幸か、店内に入るなり手持無沙汰だった女性店員に生方が捕まった。女性店員は、浴衣がほしいと言う生方の手を取って、「でしたら、こちらです!」と元気良く案内すると、軽妙なセールストークを交えながら、あれも似合うこれも似合うと沢山の商品を薦め始めた。
初めこそ、まさに着せ替え人形が如くされるがままの生方だったが、次第に冷静さを取り戻したのか、何が良くて何が悪いのかと応じるようになった。すると女性店員は一層エンジンが掛かり、私はひとり放置された。仕方なく店頭の椅子に腰掛けて二十分が経過し、さらに三十分が経過し、意識が夢の世界へと旅立とうしたところで職務質問を受けた…… というわけである。
―――
生方の登場によって、鵜沼は意表を突かれたように、「おっと」と素っ頓狂な声を出す。一気に職務質問を始める雰囲気ではなくなった。
「ご家族? でしたかね。いや、すみません。娘さんとの団欒の時間を邪魔しちゃいまして」
当てが外れたとでも言うように鵜沼は頬を掻きながら、薄っぺらい謝罪の言葉を述べてきた。
私としては警察官を相手に暇潰しをしていても構わない。だが、優先順位の一番上にあるのは“帰りたい”である。見たところ、生方は二着の浴衣のどちらにしようか決めあぐねており、判断材料にすべく私に意見を求めてきている。ならば、警察官には家族と誤解させたままにしておいて、生方にはさっさと決めさせてしまうのがこの場における最善手に思えた。
「娘じゃないです」
だというのに、生方は断固として娘という認識を嫌った。
思わず両手で顔を覆う。
三者面談ではそれでも良かった。しかし、この状況下でそれは……。
「ん? 娘さんじゃないの?」
「違います」
「そう…… でしたら、どういうご関係で?」
鵜沼の警戒度が跳ね上がる。
そもそもが任意なのだから説明する義理はない、と突っ撥ねるのは簡単だが、事態の好転には繋がらない。だからといって、馬鹿正直に間柄を説明しても鵜沼の警戒心は解けないだろう。親子と勘違いしてくれていれば、私の身分証確認程度で済んだ話だったのに。
生方は両手に持った二着の浴衣を二つ折りにして、一つに纏めながら、毅然と口を開く。
「あなた達こそ、どこのどなたですか。うちの人に何の用です」
「お巡りさんだよ」
私が答えるとほぼ同時に、鵜沼は再び手帳を掲げて見せた。
「どうもどうも、お嬢さん。高井戸警察署地域課の鵜沼と言います。お兄さんとはちょっとお話をね。今の“うちの人”って口振りからして、他人じゃないわけですよね。なのにご家族でもない。気になるな」
表情こそ朗らかだが、心の裡を見透かそうとするような目つきは変わらない。殊、ここに至っては地道に説明を続ける他ない。
日本では家事事件手続法と戸籍法および戸籍法施行規則によって、未成年者の戸籍には未成年後見人の氏名・本籍地・嘱託日が必ず記載される。これは婚姻などで戸籍が編製されない限りは、未成年者が成人しても残り続ける。
鵜沼は、一応は納得の表情を浮かべる。警戒が解かれたわけではないようだが、私の発言はそれなりの説得力を以て受け入れられたらしい。
「なるほど、なるほど…… のっぴきならない事情があるようで。念の為に、お兄さんの身分証だけ確認させてもらって良いですかね」
私はスラックスのポケットからカードケースを取り出して、やや考えてから一枚のカードを差し出した。
「運転経歴証明書。もう免許は返納した感じで?」
「ご覧の通り」
左手で、左目を覆っている眼帯を指さした。
鵜沼がメモ帳らしきものに何事か認めると、手渡したばかりの運転経歴証明書をこちらに返す。
「ご協力感謝します。すみませんね、本当に。最近この辺り相当物騒なんでね。ついこの間も、売春目的の女子高生を補導したばかりなんで、若い子を連れた人には積極的に声掛けしているんですよ」
運転経歴証明書を受け取りながら、鵜沼の言葉を頭の中で反芻する。
そういえば、ニュースでも報道されていた覚えがある。その件を言っているのかは分からないし、それにヘレシーが関与していると決まったわけではないが、ここは学院からも遠くない。“地域課”と言っていたから、パトロールの強化中といったところか。
「確か、女子高生とホテルに入ろうとしていた男性客の消息が掴めていないのだとか…… ご苦労様です」
カードケースをポケットに仕舞い込みつつ、こちらから話を締め括ろうとすると、鵜沼はにこやかに告げた。
「色々と問題があって報道管制を掛けていましてね。実は、もう逮捕はしているんですよ。おかげさまでね」
あからさまに含みがあった。
「おかげさまで?」
「ええ。通報があったんですよ。一昨日の七月十五日、吉祥寺駅前に酩酊しているような男性が居ると。駆けつけてみると、それが件の男性客でして。しかしまあ…… 麻薬か何かを大量に摂取したみたいで、ほとんど喋られる状態じゃなかったんでね」
七月十五日に、吉祥寺駅前。麻薬。男。
心当たりは大いにあった。流石にあれだけの人混みの中で、誰の目にも付かないとは考えていなかったが…… となれば、ひょっとしたら。
「それでここからが本題なんですけどね。その通報とほぼ同時刻に、刃物を持った女性が男性に襲い掛かるところ見たっていう通報も寄せられまして。聞くところによると、『女性のほうは特徴的な外見じゃなかったので覚えていないが、襲い掛かられた男性は身長百九十くらいありそうな長身で、眼帯を着けていた』と…… 詳しい話、聞きたいですね」
親しみすら覚える声音。柔和な口元。それらすべてが虚仮に感じられる笑みのない目…… 到底“被害者”に向けるものではない。もう一人の男性刑事は腕時計に目を落としていた。予定よりも早かったのか、遅かったのか、私には分からない。ただ、これが本題というのは間違いないようだ。
「幾つか質問させてもらいますけども、任意の聴取です。通報した方の発言を全面的に信じると、お兄さんは被害者。容疑者ですらない。だから安心してください。それに供述拒否権もあります。不都合があれば答えなくて良いですからね」
理解が浸透する程度の時間を挟んでから、鵜沼は苦笑した。
「はは…… 怖い怖い。まるで人殺しだ」
「善良な市民に対して“人殺し”はないでしょう」
「申し訳ないですね」
両目を弓なりに歪めて、謝罪と共に両の掌を合わせた。彼女の手の内側は鍛錬の結晶とも、代償とも形容できる分厚い皮膚に覆われている。何らかの武術を修めている事は想像に難くない。それが発揮されるような状況にはならないよう願うばかりである。
「で、本題なんですがね。お兄さんは一昨日の七月十五日、どこで何をしていました?」
「忘れました」
「一昨日の事なのに? それは幾ら何でも」
「善良な市民の記憶力の悪さを咎めるのが警察の仕事ですか」
飽くまでも反抗的な態度を貫く私に、傍らの生方が不安げな面持ちになる。鵜沼の背後に控えている男性警察官の顔も険しいのは相変わらずだが、当惑の色が見え隠れしていた。
鵜沼は手元のメモ帳を扇子代わりに扇ぎながら、「うーん」と低く唸った。
「刺されたって話もあるんですけどね。身体に傷、ありません?」
「創傷の数をかぞえていたら日が暮れてしまうとだけ、伝えておきましょう。何なら身分証だけでなく、傷も確認しますか? ご所望なら処置を施した掛かりつけ医の診断書も」
「……なるほど、解りました。お兄さんも、その少女も、関係がないって言うわけですね」
「少女? 先程は“刃物を持った女性”と告げたはずなのに、いつの間に少女と断定できるほどに調査が進んだのでしょう。無線が入ったわけでもなしに」
「…………」
鵜沼は口を噤む。生意気な私の言動に腹を据えかねたわけではない。非協力的な回答に呆れ果てているわけでもない。
しばし沈黙が下りて、傍観者に徹している傍らの二人が居心地の悪さを覚えた頃、鵜沼は笑みを作った。
「どうも」
それだけを言い置いて鵜沼は私にメモ帳の切れ端を手渡した。そしてすぐに踵を返し、背後の男性警察官に、「戻るぞ」と声を掛ける。再三に渡って“新米”と評されたその男性は初めて険しい表情を崩して説明を要求したが、それが叶う事はなく、鵜沼に引き摺られるようにして去っていった。
「なんですか、今の人は」
生方は背中を丸めて、吐息が掛かるほどに顔を寄せてくる。
「ストーカーだよ」
私の返答は生方の許容レベルを遥かに超えたものだったようだ。大きな瞳を瞬かせて、「ええ」だの、「うう」だのと呻く。
「あの高井戸警察署の女性警察官…… 鵜沼と名乗っているようだが、名前は別にある。職業もだ。正義の味方面しているものの、実態は真逆。単なる無法者だよ」
「知り合いだったって事ですか? でも、お互いに余所余所しい感じでしたけど」
「それはまあ…… 表向きはね。そのほうが都合良いからさ」
生方の疑問に答えながら、件の男性客とやらを思い返した。薬漬けになって、前後不覚に陥っていたあの男。鵜沼は、とっくに捕まえていて情報管制を掛けていると言っていたが、まず間違いなく、もう生きてはいない。彼女の手に落ちたのなら想像を絶する最期を迎えたはずだ。
「私が把握している彼女の名前は淡路道世(あわじ みちよ)。近年になって勃興し始めた不定形反社会勢力のトップ。構成員は彼女同様に、それぞれが真っ当な職に就いている。官僚だったり、水産技術者だったり、音楽プロデューサーだったり…… 本当に多岐に渡る。淡路道世という名前にしても、それが本名か偽名か判然としない。法務局や全国の役場に強烈なコネクションがあるから、戸籍の改竄も自由自在。その都度、顔も変えてきた。年齢すら当てにならない」
「……どうしてそんな人の事を、あなたは知っているんですか」
静かに問い掛けられた。言葉を選ぼうと思ったが、その必要があるのかという自問に満足のいく回答は出て来ず、行き場を失くした視線が往来に逃げていく。
気怠げに靴底を引き摺る会社員。頼りなく歩を進める老人。人波を縫うようにして歩く学生。全員の手にはスマートフォンが握られている。彼らの目に映るのはディスプレイだけだった。他は何も見えていない。平坦な画面以外、何も。
私は平面の世界を覗き込む彼らを眺めながら、緩慢に口を開いた。
「生方君は名不知という場所を知っているかい? かつては秋田県の北端に存在していた集落だ。およそ三十年前に廃村となって、地図から姿を消した」
生方がかぶりを振る。
当然だ。名不知に限らず、自分自身が産まれるよりもずっと前にあった集落など普通は知らない。よほどの物好きか、若しくは東北専門の郷土史研究家・歴史研究家でなければ、知る由もない。
「そこが、私が産まれ落ちた場所だよ。彼女とは同郷の誼だった」
そして、唯一の親戚だった。私の母方の祖父にあたる花塚日(はなづか ひ)なる人物が、淡路家の娘――淡路文子(あわじ ふみこ)を娶った事で築かれた程度の薄い縁だが、わずか九世帯しかなかった名不知では、大抵がどこかで交わっている。
名不知。
言い得て妙だと思った。淡路道世は名不知を見事に体現している。
そこで物思いに耽るのを止めた。思い出したくないものを思い出してしまいそうで、私は、「そんな事より」と話題を変える。
「どちらの浴衣にする?」
生方が今も大事そうに抱えている二着の浴衣を指さしながら、訊ねた。
生方は改めてそれらを自分自身に重ねると、こちらを見つつ小首を傾げた。
「……どっちが好みですか」
私の好みに合わせる必要は、と言い掛けてから先送りにしたままの疑問が浮かび上がった。
「そもそも、何故浴衣を? 何か予定があるのならそれに合わせたほうが」
「二十八日、行くんですよね」
私の言葉を遮って、生方は言う。
「ひょっとして、三鷹の夏祭り?」
「忘れていたんですか。あなたから誘っておいて」
忘れていたわけではないが…… 吉祥寺駅前で開かれた催事に顔を出したばかりに、夏祭りを終わらせた気分でいた。
「それとも」
生方の声色に危険な色が一滴、混ざったような気がした。
「南角とは行けても、自分とは行けませんか」
背中に冷や汗が滲んだ。緊張と焦燥感で気管が狭窄していき、呼吸にも手こずってしまう。当然の帰結として身体は深呼吸を求めたが、その浅慮な行為が生方にどれほどの確信を与えるのか…… いや、彼女は既に確信を持っている。
「……まだ私に、とぼける余地は残されていたりする?」
「残念ながら。気づかないとでも思っていたんですか。あの警察官が言っていた女っていうのは南角の事でしょう? 刃物を持っていたって。やっぱり、あなたの傷は」
「そちらの生成りの浴衣のほうが好みかな。小花の意匠が施されていて、可愛らしい君には似合いそうだ」
「それで誤魔化せるなんて」
「ほら、貸してごらん。会計してくるから」
と私は半ば強引に生方から浴衣を奪い取って、レジがどこにあるのかも分からないまま、店内に足を踏み入れた。
貫かれてしまうのではないかと錯覚するほどの視線を背に受けながら、手元に目を落とす。そこには生方が選んだ生成りの浴衣の他に、千切られた紙切れが一枚。淡路が最後に寄越してきたメモ帳の切れ端。
『礼拝堂聖歌隊はシロ』
流石は無法者。頼んだのは昨日の朝だというのに、もう探りを入れたようだ。警察官としての正規の手順を踏んでいない事は確実。だがそれだけに、情報の信憑性も高い。
しかし…… シロか。
犯罪の温床には持ってこいの環境だと勝手に決めて掛かっていたが、意外にも普通の集まりらしい。無論、ヘレシーには関与していなかっただけで何らかの法には抵触しているのやもしれないが、そこまでは私も気にしていられない。
参ったな。早くも手詰まりだ。
などと考えながら広い店内を彷徨っていると、もう一方の浴衣を片付けてきた生方が先回りしたように陳列棚の間から顔を出す。鬼のような形相で。
「……レジならこっちです」
参ったな、本当に。