原稿が遅々として進まないので、筆休めに私の近況でも適当に話そう。
体重移動を行う度に床が悲鳴を上げた。見ると、煤だらけで木目さえ判然としない。底が抜けて落下しないのが不思議な状態だった。空家等対策特別措置法に引っ掛かって自治体などに目を付けられないよう柱と梁だけは修復しているそうだが、どうやら本当らしい。しかし、内装は手付かずで屋根裏もボロボロ…… バルコニーに関しては焼失したままで放置という有り様。扉も施錠すらされていなかった。
「自覚あんの?」
「……寝不足の自覚なら多分にあるね」
家具の一つも存在しない空き家に一発、乾いた音が鳴る。平手で背中を引っ叩かれたのだ。しかし、今の私には痛がる余裕もない。
ひび割れた曇りガラス窓の向こうに望める空は、俄かに白み始めていた。腕時計で時刻を確認しようにも、暗過ぎて判らない。代わりにスマートフォンをポケットから取り出してディスプレイを見下ろした。
七月十五日の午前四時…… 折角の祝日だというのに、何故私はこんな時間に、こんな場所に居るのか。
微睡みつつある意識を強引に繋ぎ止めて、思い出そうとした。
―――
発端は前日、七月十四日。午後九時過ぎの事だった。
私は福祉局の局長室で残業をしていた。オフィスにはもう、誰の姿もない。出勤時間にはルーズな従業員達だが、退勤時間については非常に厳しい。福祉局設立以来、未だ無遅刻無欠席を貫き続けている岸副でさえ…… いや、だからか。無遅刻無欠席だからこそ、退勤時間も厳守している。それ自体は別に構わない。残業をしないのは、時間内に仕事を片付けられるくらい優秀という事の証左でもある。
要するに、こうして残業している私は優秀ではないという事なのだ。
仕事内容は簡単だ。民間資格管理者として、七月七日に実施された資格試験の採点をしている。試験実施した日から毎日こつこつと消化してはいた。本来ならば、今頃はもう既に終えているはずで、資格証の発行を部下に任せている段階だった。当然ながら、採点に携わっているのは私だけではない。数名の同業者と分担しているわけだが、不運にもそのうちの二名が流行りの感染症を患った。回復には数週間、最短でも十日は掛かると言う。
感染症に罹患したのは仕方ない。仕事できなくなるのも仕方ない。だがそれは、受験者には関係のない事である。
合否発表は七月二十六日。資格証発行に一週間は必要。となれば、期限は七月十九日…… それまでに数百もの採点を終わらせなければならない。
他人事のように時刻を表示し続けているパソコンのモニターを眺めながら、思わず溜息を吐いた。
しばらくは日付を跨ぐまで残業しなければならないだろう。
その時である。デスクの上に放っていたスマートフォンが着信を告げた。咄嗟にディスプレイを見やると、表示されていたのは知らない番号。メモリに登録していない者からの電話だった。
これが妻や娘達からの電話であれば一も二もなく応答するのだが、眠気と疲労の板挟みに苦しんでいるこの状況で、どこの誰とも知れない人間と話す気にはなれない。よほどの用件なら、留守電にメッセージの一つでも入れるだろう。
私はそう結論付けて無視に徹した…… のだが、着信は途切れない。正確に言うと、途切れても間断なく掛け直してくる。よほどの用件らしい。
わずかな逡巡の後、着信音と共に振動を続けるスマートフォンを手に取った。そして通話のアイコンをスライドさせて、耳に当てる。
「……もしもし」
『ぇんだよ! の、ォスがッ!』
電話の向こうに居る人間は、何を言っているのか聞き取れないくらいに喚き散らしていた。
凄い剣幕だ。柄の悪い半グレの連中でさえ、もう少し穏やかだぞ。
「なんだって?」
『出るのが遅ぇんだよ! このクソオス! バカが! 死ねっ!』
「あー…… 南角君か」
こんな言葉遣いをする人間は彼女以外に有り得ない。
『他に誰が居んだ! クズ! わざわざ掛けてやってんだから、すぐに出ろ!』
南角には、発言の際に必ず罵倒を混ぜないといけないというルールでもあるのやもしれない。若しくは、軽度のトゥレット症か。彼女に社会不安障害の疑いがあるのは判っている。汚言症などを併発していてもおかしくはない。十代なら珍しいわけでもない。
「ご用件は」
『来い』
「どこに?」
『吉祥寺駅。五分で来い』
それは無理だ。物理的に無理。福祉局から吉祥寺駅までは電車やタクシーで最善のルートを辿ったとしても、三十分は要する。そもそも行く気になれない。仕事が残っている。
「……善処に善処を重ねた結果、今日は難しいかなと」
『はあ? テメェが言ったコトも守れねえのかよ』
「いやまあ、今日の今日というのは流石にね…… 一体何をするつもりか知らないが、せめて明日。祝日だし」
祝日だが、実質的には休みではない。私は明日も福祉局に籠って採点をしなければならないのだ。その休憩がてらに、多少の時間を作るくらいはできるだろう。南角がそれで納得してくれるかどうかは別として。
『あっそ。明日な。わかった。譲歩してやるよ、クソオス』
耳を疑うような言葉がスピーカーから流れた。
あの南角が、譲歩。あっさりと。鬼の目にも涙。明日は雪か。
『今度こそ守れよ。じゃあな』
そこで通話は途絶えた。罵倒される事もなく。
私は妙な感動を覚えながら、ディスプレイの通話時間を見つめていた。話せば分かる。世界平和も夢ではないなと、夢のような事を思っていた。この時点までは。
そうして数時間後…… 案の定、日付を跨ぐ事となった残業は、それでも未だ終わりが見えず、賽の河原で石を積んでいるような気分にさせてくれる。
単純な選択問題の採点は楽だが、論述問題の採点は時間が掛かって仕方ない。極端に主旨を外しているのなら兎も角、基本的には最初から最後まで目を通さねば判断できない。次回からは論述問題をなくすべきだ。一体誰だよ、こんな試験を作ったのは。
「私だった……」
現在の自分を苦しめているのは、過去の自分だったのである。
強いて理由を挙げるならば、その辺りだろう。
判断力が鈍っていた。だから、着信を報せるスマートフォンにノータイムで応答してしまった。それがいけなかった。軽はずみだった。
「もしもし」
『約束の明日になった。早く来い』
即座に応答した為か、南角の機嫌は悪くなかった。
「そんな…… 明日が待ちきれない子供のような事を言うな。早く寝なさい」
『子供が子供みたいなコト言ってなにか問題あんのかよ』
確かに。返す言葉が見つからない。相手は十六歳だか十七歳の子供であり、子供のように駄々を捏ねようが許される立場にある。
電車が動いていないから。補導される可能性があるから。
幾つかの言い訳が浮かんだものの、時間稼ぎにもならなそうだった。
やはり、頭がしっかりと回転していない。
時間が足りないというのに、時間を稼いでどうするのだ。南角の要求に答えて、ささと帰宅して、寝る。それがベストなのではないか。
「ちなみに、吉祥寺で何をするつもりだ?」
『心霊スポットに連れてってやる』
―――
そういう経緯で、いま私達は木造二階建てアパートの一室に忍び込んでいた。
南角曰く、「十年前に火災が起きて、二名の男女が死亡した場所」との事だが…… 何となく解っていた。ここはかつて南角一家が暮らしていた部屋だ。火災の原因は南角礼佳で、死亡した男女とやらは彼女の両親。心霊スポットの定義は分からないが、人間の死が必要だとしたら条件は満たしていると言える。そういった背景を込みで考えると、焦げて煤けている床も風情が感じられた。人間の形に焦げ付いていれば尚更良い。
「ここの所有者は?」
曇りガラスに入ったひび割れを目で追いかけながら、南角に訊ねる。
「死んだ。そんで遺産相続の話に移ったはいいけど、一次相続人も遺産分割前に急死して、権利関係がごちゃごちゃのまま、二次相続人同士の間で宙ぶらりんになってる」
数次相続の状態なのか。それは面倒臭い。恐らく、所有権移転登記手続きもしていないのだろう。各相続人に所有権が移ってしまって、自分の財産だと主張するにもできなくなっているに違いない。
「それにしても随分と詳しいね。ひょっとして、所有者は君の知人?」
「別に。相続財産管理人ってのから聞いただけ。当時のウチは七歳で、身寄りもなかったからな。何するにも家庭裁判所を通さなきゃならなかった」
南角は部屋の一点を見つめていた。そこは特に黒ずんでいる。
「十年前で七歳か…… つまり、今は十七歳というわけだ。誕生日は?」
「七月十五日」
「……おめでとう」
「めでたくねえよ、ボケが」
「そうだな。寝られなかったくらいだから、めでたくはないか」
私がそう言うと、南角は驚愕と不快が入り混じったような、複雑な表情を浮かべた。
不思議だった。唐突に呼び出したのはまだ良いとして、「明日にしよう」という私の提案をすんなり呑んだ事が腑に落ちていなかった。彼女は駄々を捏ねていたわけではない。困らそうと意地悪を言っていたわけでもない。単純に寝られなかったのだろう。七月十五日という日が、彼女の人生にとって大きな転機だったから。
明言こそしていないものの、彼女が家に火を放ったのは十年前の、ちょうど今日…… 両親の情事を見てしまった日だ。十年前の今日も、彼女は寝られなかったのだ。自分自身の誕生日が楽しみで。祝ってくれるのを心待ちにして。
ただ、それだと合点がいかない部分も出てくる。
「君は、父親の事をどう思っていた?」
「なんとも思っちゃいないね。あんなクソオスのコトなんか」
並々ならぬ思いがあるらしい。それはまあ、判りきった事ではあるのだが、南角の裡にある途轍もない男性嫌悪…… 所謂“ミサンドリー”の源泉はどこにあって、原因は何なのか。
ミサンドリーの代表的な例は『男性根絶協会マニフェスト』の著者であり、実際に殺人未遂事件まで起こした事で有名なヴァレリー・ソラナス。彼女また、数多の矛盾を抱えた人物だった。男性嫌悪のきっかけは父親による性的虐待とされているが、ソラナスは死ぬまで父親との交流を断たなかった。件の殺人未遂事件で標的とした男性被害者に対しても、殺害に及ぶほどの激情に駆られておきながら、事件後もしつこくストーキングを繰り返して、幾度となく裁かれては施設に送られた。
そういう意味では、実際に行動に移してしまったミサンドリーとして南角礼佳はヴァレリー・ソラナスと酷似している。ならばソラナスがそうだったように、南角にも性的虐待を受けた過去があるのではないかという疑念は当然湧き上がる。しかし、家庭内で性的虐待を受けている子供に誕生日を楽しむ余裕があったかと言うと、そうではないように思える。
南角礼佳とは短い付き合い…… どころではないな。今日で顔を合わせるのは二回目。それでも彼女がソラナスのように矛盾を抱えているのは判明している。
「なら、私は?」
試しに訊いてみた。すると、南角はこちらの視線から逃れるように背を向ける。
「あ?」
「私の事はどう思っている?」
「死ねばイイって思ってる」
「何故?」
「……知らねえよ、バカ」
そんなはずはない。吉祥寺駅の駅前広場では、男がいかに醜くて性欲で物事を考えているかという事を饒舌に語っていたのだから、それをそのまま私に当て嵌めてしまえば良かったのに、南角はしなかった。
彼女は今、私という存在の位置付けに迷っている。
きっと自己矛盾には気がついているのだ。彼女にとって男は害悪。害悪であるはずの男に頼る事は許されない。だから、男でも女でもないところに私を位置付けてしまおうと考えている。恐らくは無意識に。
「では、話題を変えよう。ここには誕生日の度に足を運んでいるのかい」
「そんな暇人に見えんのか? 第一、こんなとこに来てどうすんだよ」
南角はわずかに振り返って、しかし視線だけは外しながら答えた。
「ならば、今日は何故ここに?」
「自分自身を見つめ直せって…… テメェが言ったんだろ」
ほんの一度、二度話した程度の相手をそこまで信用してくれるのは有り難いが、危なっかしくも感じた。
男性嫌悪に限らず、対人関係に何らかの障害を持つ人間は、一方で特定の人物に対して極めて強く依存する傾向にある。
「という事は、手伝えば良いのかな。君を追い詰めているものの正体を解き明かす手伝いを」
今更訊くのも白々しい気がしたが、目標の確認、相互理解は大事だ。カウンセリングにおいても、常に相談者との足並みを揃えなければ始まらない。
「勝手にしろよ」
「わざわざ呼び出しておいて…… 単刀直入に、男を嫌う理由は?」
「はあ? 嫌うのに理由なんかあるわけねえだろ。オスはオスだから。それで充分だっての。ホント気持ち悪い。女だけの国とかあればイイのに」
「あっても良いと思うが、そこに私は居ないよ」
男嫌いの南角礼佳としては反論したかったのだろう。だが、口元を動かすばかりで言葉らしい言葉は出てこなかった。代わりに舌打ちをする。忌々しそうに。
「順序立てて話そう。社会心理学にはインターパーソナル・アトラクションと呼ばれている研究分野がある。直訳すると“対人魅力”だが、要するに、他者に抱く好悪感情の解明だね。その第一人者としてノーマン・ヘンリー・アンダーソンなる人物が論文の中で、『理由なき好悪はない』と述べていて」
「そういう小難しい話はしたくない」
勝手にしろと言った傍から…… 気難しい子だな。己を見つめ直す為の補助、カウンセリングが目的でないとしたら、一体何なのだ。
「……君はどういう話をしたくて私を呼び出したのかな」
そう訊ねた次の瞬間、何かのメロディが部屋中に響いた。家具がない為にやけに反響する。
「これは?」
「ウチだ」
南角はさして驚いた様子もなく、履いているスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。ディスプレイが点灯している。何らかの通知が届いたようである。
「電話なら、私は外に出ているが」
「LINEが来ただけだから」
スマートフォンを操作しながら、南角が答える。ライトに照らされた彼女の表情に変化はないが、わずかに視線が泳いだのを見逃さなかった。逡巡するような、或いは反応に困るような機微に触れた。
「こんな時間に誰から?」
プレイベートに踏み込むようで些か迷ったが、問い掛けてしまった。
動機としては心配が三割、好奇心が三割。計六割の動機が、無関心に徹するべきという理性的な部分と拮抗して、ギリギリのところで無関心に勝った。
「ヘレシー」
南角はディスプレイから目線を切らす事なく、簡潔に告げた。