大学生時分の長話をしよう。
昼ご飯の後、丁は親戚からアウトドア用の四輪駆動車を借りてきた。

「山奥に入るのでな」

まるで蜂の巣駆除業者ような恰好をして、丁はハンドルを握った。いかにもファッションに拘りのありそうな女性だったが、稗苗の里という古巣では気にしないらしい。
安全運転で山道をゴトゴトと揺られる事、ニ十分余り。立入禁止の立て札と、杭に有刺鉄線が巻かれた横道が現れた。
側の拓けた場所に車を停めて、丁は、「鉄線には気をつけるんじゃ」と言いながらそれを跨いだ。そして奥へと続く山道の草むらを指さす。

「この辺りは地面にトラバサミが設置されているからの。儂の歩いたところだけを踏んで進め」

「物騒だ」

「田舎なんぞ、どこも同じようなものじゃろう?」

確かに。
汗を拭いながら、傾斜のきつい山道を登っていると、私の頭にひとつの疑問が浮かんできた。

「私が利用する呪指の対象の事ですが…… まさか、空恐ろしい祟り神とか、そういうのではありませんよね」

「祟りはせんから、安心せい。代わりに極上の呪いをプレゼントしてやる」

改めて考えると、怖くなってきた。
私はすぐ後ろを歩く莇を振り返った。莇も着替えてはいたが、依然として可愛らしい服装のままだ。十五歳の子供でも呪指を作っているのだから、できない事もないはず…… というのは楽観が過ぎるか。

「あの。糾さん。頑張ってください。できる限りサポートしますから」

「ありがとう…… しかし変だな。何故私はここに居て、呪指を作ろうとしているのだろう」

「ほれ。あれじゃ」

丁さんが疲れた声を出して、指さした先にあったのは、山肌にぽっかりと空いた洞窟だった。
嫌な予感は的中した。その洞窟の周囲の景色だけが異様だった。草木が生い茂っている山中にもかかわらず、洞窟の入り口付近だけは緑色のものが一切ない。どす黒い土が剥き出しになっている。

「すみません、丁さん…… いや、丁師匠。正しい手順で長い時間を掛けて…… という話でしたよね? 初心者の私にあれは酷なのでは」

「あれは忘れろ。ここで呪指を作ろうなんていう命知らずは、稗苗一族であろうと一人も居らんわ」

「は?」

「ほれ。行ってこい」

私は、いつの間にか背後に回り込んでいた丁に背中を押された。

「ど、どういう事ですか」

「だから、稗苗一族の長い歴史でも、ここで呪指を成就させた者は皆無じゃ。外の人間が好奇心で挑んだ事はあったそうじゃが、みな死んだ」

「死んだ? いやいや…… 丁さん。あなたに良心がわずかにでもあるなら」

「莇も押せ」

「はい」

「莇まで…… ちょっと、人殺しになるつもりですか!」

眼下に、ぽっかりと空いた二メートルほどの高さの洞窟の入り口が迫っている。
見える。洞窟から溢れ出してくる空気に、悪意が滲んでいる。悪意という粒子が混ざっているのだ。それが入り口付近の植物を死滅させているのだと解った。

「今更怖気づくな」

「丁さんもやるのなら、やりますよ」

「無理。儂でも死ぬ」

「私ならもっと死ぬでしょう!」

「里帰りのついでとは言え、儂も東京に仕事が山積しておる。普通は、呪指を作るに三年…… いかに早くとも一年は費やす。だが今は時間がない。一週間で仕上げたいから、休憩もなしじゃ。陽が翳るまで帰ってくるな」

「荒療治にも程が」

「えい」

遠慮のない蹴りを背中に見舞われて、とうとう私は洞窟の中に転がり落ちた。湿った空気が肌に纏わりついてくる。山肌に滲む水分なのか、洞窟の内壁は濡れていた。

「その先でちょっと曲がって…… もう少し先じゃ。こうして声は聞こえる故、死にそうなら声を出せ。声すら出せなかったら這いずり出ろ。莇よ。お主はこれ以上近づかずに補助するのじゃよ」

「はい」

緊張気味の声が頭上から聞こえてくる。
私の目はようやく暗闇に慣れ始めて、指示された通りの道を進んでいくと、不自然に白い岩石が転がっているのが見えた。
その岩には、不気味な模様が浮き出ている。黒い瘴気のようなものが、岩自体からじわじわと噴出しているのを感じた。只事ではない気配。今までに経験した最悪の中でも、一番最悪の事態だった。

「――おおい。聞こえとるか糾よ。それが稗苗家、葛西家のご先祖である花路一族に伝わる、聖跡。かの右大臣、花嚴葦牙様が唐より連れ帰った大妖…… 九尾の狐が死して変じた姿」

丁の声が、洞窟内の禍々しい空気に遮られながら反響する。

殺生石じゃ」

でしょうね。
途中から、そんな気はしていた。スパルタという表現すら生温い。

「……何故、私にこれを? 死ぬのでしょう」

目の前の白い巨岩から目を逸らせないまま、私は訊ねた。しばらくして返答がある。

「お主が花塚の狐なら死なん。毒なら尚更だ。それに」

一呼吸を置いて、丁は言った。

「もしあの時、コンクリートの壁を蹴り壊せたら。もしあの時、ガラスの窓を叩き割れたら…… という日が来たらどうするのじゃ」

ふざけやがって。丁も知っているのかよ。
すべては翼が描いた絵か。あいつは、その能力で視てきたのだ。未来視で兄弟喧嘩を。根っからの覗き魔め。

「健闘を祈るぞ、糾」

丁の声が遠退いて、代わりに莇の声が聞こえた。

「糾さん。まずはわたしが封印の祝詞を唱えます。そのあとで、指を石に向けてください。一本だけです。どの指にしますか」

「人差し指にしておくよ」

投げやりな気分で答えた。どうせこれが最初で最後だ。どちらの手だろうと、どこの指だろうと関係ない。
洞窟の外から、歌うような莇の声が流れてくる。その歌声に押し返されるように、噴き上がる黒い粒子は外へと出て行かず、洞窟内に留まって、渦を巻き始めた。
冗談だろう? 封印というのは、洞窟から漏れ出さない為の封印だったのか。
危険度が、さらに跳ね上がる。この瘴気を吸い込んではいけない。それが理解できるのに、ここまでお膳立てされてしまっては、もう腹を括るしかなかった。
ちくしょう。

「殺してやる」

私は目を見開いて、いつか母親に対して吐き捨てた言葉と同じものを口にすると、巨大な白い岩を真っ直ぐに指さした。

―――

その日の夜。私は震える身体を自分自身で押さえつけながら湯船に浸かっていた。一軒家の割りには広々とした浴場だったが、肩どころか、口元まで浸かっても一向に身体が温まらない。貧血のせいで、身体が冷える事には慣れていたつもりだった。しかしこれは、貧血のそれとはまったく性質が違う。

「あ、あのう…… 糾さん。お背中を流しましょうか」という控えめな声が浴場の外から聞こえる。莇だ。

「いや、いい。ひとりにしてくれ

私は、何故、こんな事を。
行き場のない怒りのようなものが込み上げてくるのを自覚しつつ、全身の悪寒が去っていくのを辛抱強く待ち続けた。
夕食は、義母宅のほうで分けてもらったと言う食材を使って、山菜の和え物に、肉じゃがだった。これも莇が作ってくれたらしい。

「ホテル暮らしが続いて、外食に飽きていたからのう。こういうのは染みるわい」

丁は浴衣姿で胡坐をかいて、満足げに料理を頬張っている。

「で、どうじゃった? 湯加減は」

「さいこうでした」

「そうじゃろう! 稗苗の里では本来、一番湯は女が使うという伝統がある。それを譲ってやった甲斐があったな!」

「さいこうでした」

駄目だ。インプットとアウトプットが上手くできない。味も分からず、機械的に箸を動かすしかなかった。

「糾さん、おかわりは?」

莇は着替えもせずに甲斐甲斐しく働いている。流石の私も、莇には強く出られない。

「へいきだ。莇もたべるといい」

外から虫の鳴き声が聞こえる。畳が古くて傷んでいるからと、居間にはゴザを敷いているのだが、その井草の香りが漂ってきて、郷愁に駆られる時間だった。だが、今の私にはそれを愉しむ心の余裕など持ち合わせていなかった。

「九尾の狐の殺生石と言えば、那須高原だったはず」

誰に言うでもなく呟くと、丁は箸を向けて返答した。

「うむ。一応、安倍泰成が玉藻前の正体を見破り、東国に逃れるも侍達に退治されて、殺生石になったという伝説はあるな。ただ、そのあと源翁心昭に砕かれて全国各地に散らばったとも伝えられておる。殺生石なんぞは、どこに行ってもあるぞ」

「ここのも、その胡散臭い石のひとつか」

「いいや、ここのは本物じゃ」

「……どこもうちのが本物と謳うでしょうが」

わずかながらに、正気を取り戻してきたような気がする。気がするだけだが。

「どう説明したものか…… 昼間は大見得を切ったが、花路一族の守護神となったのは、正しくは花嚴葦牙様が連れてきた九尾の狐そのものではない。葦牙様との間に生まれた子らじゃ」

「狐と人間の子供ですか」

「そう。それを葦牙様は故郷の氏族に遣わしたのじゃ。ちなみに、お前さんが相対したあれは、そのうちの一体の骸が変じたもの。葛西宗家には格段に巨大なものが鎮座していると聞く。奥の院とやらに秘されていて、儂も見た事はないがの」

奥の院。あの、木乃伊の群れが並ぶ場所か。あれがたとえ幻か何かだったとしても、とても恐ろしい場所だったという印象しかない。

「兎も角、明日も朝から今日の続きじゃ。また車で送る故、昼休憩は一回だけ。ひたすらに励め」

丁の無責任な発破に、私は力なく頷いた。
やがて夜も更けて、耳が痛いほどの静寂の中、私は与えられた寝室で黒い板張りの天井を眺めていた。
不意に床の軋む音が聞こえて、そちらを見やると、障子に人影が映った。

「糾さん。起きてらっしゃいますか」

莇の声だった。

「どうした?」

しばらくの無言。

「……き、今日は、その、本当に大変でしたね。お疲れでしょう。よろしければお身体を揉み解させてください」

私は、慎重に言葉を選んだ。

「大丈夫。気持ちだけで充分だ。君も、ずっと働き詰めだっただろう。休んだほうが良い。明日も早いらしいから」

再びの無言。

「本当に大丈夫だ」

繰り返すと、「失礼しました」と言って障子の人影は去っていった。
あの母親、子供に妙な事を吹き込むなよ。
私は呆れていた。障子に映った影はくっきりとしていて、薄い肌着しか身に纏っていない事が判ったからだ。
そして翌朝。莇が台所で朝食を作ってくれている間、私は丁を捕まえて問い詰めた。

「余所者が言えた義理ではないが、時代錯誤も程々にしてくれないか。自分自身の子供に夜這いまでさせるな」

丁は驚いていた。

「莇が? まさか」

驚かれた事に、驚いた。一体どういう事だ。戸惑っている私に、丁は妖しく笑い掛けた。

「くくく。なんじゃ。あの莇がのう…… そうかそうか。よほど好かれたようじゃな、お主」

「他人事のように言うな。莇はまだ十五歳で、分別のつかない年頃の息子だろうが」

「ほう。気づいておったのか」

「気づかないほうがおかしい」

稗苗の里に向かう車内の中で丁が言った、『惣領となるか、若しくは惣領の妹の養子に入る事じゃろう』に覚えた違和感。
女系相続であり、優秀な女児が生まれなかった場合、親戚から養女をもらう事は当たり前に行われていたのだろう。現に丁がその養女なのだ。莇が惣領の家に優秀な養女として、次期惣領として迎えられるなら解る。しかし、丁には他に子供が居ない。大事な一粒種である莇を養子に出して一体何の意味がある。惣領の妹とやらには娘も居るらしいのに、次期惣領の道が与えられていないのなら、さらに女を増やす必要はない。
それに、本来なら男女共に“養子”で充分だが、丁は養子と養女を使い分けている。
そして極めつけは、莇と初めて顔を合わせた時の小羽の態度。小羽は部室の外に居た莇に真っ先に気づいた。気づいて、驚いていた。驚く事が不自然なのだ。小羽には透視能力がある。ただの可愛らしい少女が部室の前にやってきたとして、何を驚く事がある?
その後の様子もずっと妙だった。だが、小羽が部室で発した言葉に“男なのに”を付ければ合点がいく。

『なにこれ。こういうのが好きなの? どこで買うの、これ』

『……よく分かんない』

要するに、小羽はこう言いたかったわけだ。

『男なのに、なにこれ。こういうのが好きなの? どこで買うの、これ』

『……男なのに、よく分かんない』

分厚い壁を見通すような透視能力を持つ小羽にとって、衣服の一枚や二枚では何も隠せていないのと同義。私の貧血・傷跡に逸早く気づいたのも彼女だった。
そういうわけで、莇は養女ではなく、入り婿として誰かしらと結婚させられるという事だ。

「莇にあの恰好させているのは何故だ」

丁は肩を竦めた。

「本人の趣味嗜好じゃよ。儂はそういうのに理解のある親じゃからな」

私は想像した。女系相続で陰陽道を受け継がなくてはならない一族にあり、その傑出した才能を持つ母親の、第一子として生まれながら、自らが男子であるという事は、どれほどの無力感に苛まれる日々だったのだろうと。

「莇の気持ちに気づいておるなら、抱いてやれば良かったのに」

「……どこの母親も、大概だな」