もうすっかり寒くて身体の節々が痛むので、大学生時分の話でもしよう。
件の被害者の金子弥代(かねこ みよ)という名前で、二十五歳でOLをしているとの事だった。
病院に大人数で押し掛けるわけにはいかない為、翼と窪、そして私が代表として足を運んでいた。
 
「両足を折っちゃったから、ごめんね。寝たままで」
 
金子は案外元気そうな顔でハキハキと喋った。ショートカットの黒髪で、快活な印象の女性だった。
 
「いいえ。それで早速ですが、今回はそのお怪我された事件についてのご依頼という事で間違いありませんか」
 
翼が如才なく話し掛ける。
 
「そう。警察にも話したんだけど、全然相手にされなくってねえ。頭打って記憶に混濁がとかで片付けられちゃってさ。最終的には、酔って転んだだけだろうって、事件にすらしてもらえそうにない状況」
 
「それで我々に」
 
「そうなの。人伝に噂を聞いてね。なんかそういう怪奇現象の専門家なんでしょ? あなた達って」
 
「そのように自負しております。ではまず、事件当日の事をお聞かせください。なるべく詳らかに」
 
金子は病室のベッドに横たわったまま、天井を見上げた。
 
「五日前の夜だった。帰宅途中にそれを見つけたの。ちょっと飲んでたから、酔っぱらってたのは事実ね。コンビニで買ったハイボールを一杯だけ。兎に角、酔い醒ましに歩いて帰宅してたら、道にね、縄があったの」
 
「縄…… 道端に落ちていた、と?」
 
私が念の為に確認すると、金子は大きな声で否定した。
 
「違うの! 縄が、垂れてたの。空から」
 
「空から? それは一体どういう事なのでしょうかっ」
 
窪が身を乗り出す。病室だけあって、普段より声量を落としている。流石の常識人振りだ。
 
「どうもこうも、そのまんまよ。空から真っ直ぐ縄が垂れてたの。あの日は曇っててね。月なんか出てなくて、空は真っ暗。街灯の明かりで縄がぼんやり浮かび上がってるの。なにこれって掴んでみたら、結構しっかりしてたの。強めに引っ張ってもビクともしない。あたし、酔ってたから何だか楽しくなっちゃって登ってみたのよ。アスレチックとかにあるでしょ? 垂れ下がった縄に掴まって登っていくやつ。あの要領で登ってみたら、すっごく丈夫なの! 普通に登れちゃってさ!」
 
「縄の先は? どこに繋がっていたんですか」
 
勢い良く喋る金子に、なんとか翼が口を挟む。
 
「どこにも! どこにも繋がってなかった。見上げても暗くてよく見えなかったけど、間違いなくあたしのアパートの近所だった。周りに高い建物なんてない。何にもない空から、縄が垂れてたのよ」
 
一気に私の好奇心を揺さぶられた。通常の捜査機関では解決のできない問題。そういう事か。今の話が本当なら、正しく怪奇現象と言える。
 
「それであたしも、『これってどっから垂れてきてんの?』って興味が湧いて登り続けてたんだけど、どんだけ登っても縄の先は見えないし、腕も疲れてきたし、もういいやって。それで降りようとしたら……」
 
金子は自分自身の両肩を抱いて、急に声のトーンを落とした。
 
「あ、あ、足の先の縄が、ないの。さっき登ってきたばっかりの縄がなくなってるのよ。あたし、それで酔いが醒めたの。なにやってんだって。下を見たら、地面がずっと遠くにあって、なのに、縄がなくて、ど、どうしたら」
 
「落ち着いてください。もう大丈夫ですから」
 
翼が金子の手を握った。
 
「あ、ありがとう。ごめん…… ちゃんと最後まで話すから。ええと、それで、あたしパニックになっちゃって、逆にもっともっと登ろうとしたの。ここで飛び降りたら死ぬって思ったから。縄の先が、どっかの頑丈な物に繋がってるはずだって期待して。腕が痺れても、必死に登って、でも全然、縄の先なんか見えてこなくて。そしたら、気づいたの。登る度に、足の先の縄が消えてってる事に。あたし泣きながら登った。怖かった。それで、もう手に力が入らなくなって、手が滑って……」
 
金子は、震えながら顔を両手で覆った。
私達は互いに顔を見合わせる。確かにこれは、警察の領分ではない。誰に言おうと信じてもらえない。怪奇現象だ。そんな縄など存在するはずもなく、ましてや程度は兎も角として当人も酒が入っていたと言っているのだから尚更である。
しかし私達は、市内で発生している謎の転落死事件を知っている。金子弥代の身に起こった事がすべて真実だとすると、その、謎の未解決事件に欠けている重要なピースとして、不気味な一致を見せていた。
翼が微笑みを湛えながら切り出す。
 
「わかりました。大丈夫です。安心してください。金子さんの身に何が起こったのか明らかにしてみせます」
 
ゆっくりとした口調に、金子も少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。
 
「最近多発してる転落死事件と関係あるんじゃないかって思ってから、居ても立っても居られなくなって。あたしは命があったから良かったけど、亡くなった人達の事を考えたらさ…… それになにより、あれの正体が判明しないと、また、次の誰かが」
 
金子の訴えかけるような視線を、私は受け止めた。
そうだ。これは現在進行形の話なのである。決して他人事ではないのである。
それから独会のメンバーは、その事件の調査にあたった。まず被害者であり、依頼人でもある金子弥代が負傷した現場に赴いて、周囲の状況を確認した。
彼女の話にあった通り、住宅街の外れを通る狭い道路で、高い建造物はひとつもない。片方は二階建てのアパートで、もう片方は月極駐車場の敷地。
縄の切れ端なども見つけられなかった。
それから他の事件現場も順次確認して回ったが、同様にビルなどの姿はなく、縄の痕跡も見つける事はできなかった。
 
―――
 
「縄かー…… ホントにそんなのあったのかな」
 
小羽がぼやく。調査の行き詰まりを感じて、部室の空気も重いものになっていた。
 
「聞く限り、明らかに怪奇現象じゃん。そういうのってさ、もっと頼りないカンジなのが相場じゃないの? 人間ひとりがぶら下がっても平気な縄なんて言われてもねー」
 
「やはり、酔っていたという本人の勘違いか何かではないかと思いますね」
 
鳥居が小羽に同調するような意見を述べた。
 
「ボクもそう思いたいけれどね。実際に声を聞いたボクには、そんな単純な話でもなさそうに感じられたよ。依頼人は嘘を吐いていない」
 
「私もそれには同意するわ」
 
窪の深刻そうな言葉に、翼が首肯する。
斯く言う私は、ひとつの回答を導き出していた。解決には繋がらない、つまらない回答。
 
「花塚さんはどう思いますか。直接訊いてきて、現場を回ってみて」
 
鳥居が水を向けてくる。
私は答えるべきか逡巡してから、「可能性を潰す意味で、怪奇現象ではないと仮定して考えてみようか」と前置きした。自然と全員の視線がこちらに集まる。
 
「ん? どういうコト?」
 
問い掛けてくる小羽に、私は身体の前で四角い物を表すジェスチャーをした。
 
「耐久性などは一旦棚上げにするとして、こういう、コンビニのレジ袋をイメージしてくれないかな。その内側の底に、輪っか…… ドーナツ状の輪っかを置いて、輪の中からレジ袋の内側を上方向に引っ張り上げる。すると、輪っかの穴からレジ袋の中心部分が伸びて、レジ袋全体が筒状になっていくだろう?」
 
「まあ、そうなるわね」
 
翼は実際に手を動かしながら答えた。
 
「で、件の垂れ下がった縄がそういう構造だったと仮定してごらん。中空で、内側と外側が筒状になっている二重構造の縄。人間がそこにぶら下がると、外側は人間の体重によって張り詰める。そして、一番下で内側へと折り返される」
 
「あー、なんとなくイメージできるー」
 
と小羽は嬉しそうに言った。妄想が現実の景色に侵食してしまうという彼女の目には、ひょっとしたら私が伝えた通りの物が本当に見えているのやもしれない。
 
「その内側をさらに上から引っ張り上げると、どうなる?」
 
私に問い掛けられて、鳥居は緊張気味に答える。
 
「ええと、それは…… 外側は体重で下向きに引っ張られているわけですから、内側が上向きに引き上げられると…… あ、短くなっていく」
 
「うええ。それが、登ると消えていく縄の正体ってわけー?」
 
「凄いな。流石は、次期部長っ!」
 
窪が興奮して囃し立てた。
次期部長…… 寝耳に水も良いところなのだが、私が部長に就いた暁にはすぐに独語研究会を解体してやる。
 
「だけどさ、上は? 結局、縄はどこからぶら下がってたの?」
 
「それが判らない。今の説明も、怪奇現象ではないと無理やり仮定した場合に限り…… しかも材質等々を無視したものだからね。ここまで説明しておいて無責任だが、この理屈が間違っている事だけは判る。実際に見てみない事には、何とも…… ただ、そうだな。これから全員でコンビニに行こう。ついでに理学部棟の研究室で、ある物を貰ってくる」
 
私の突然の提案に翼は困惑したような表情を見せる。
 
「まさか、本当にコンビニのレジ袋を貰いに行こうとでも言うわけではないわよね?」
 
「まさかまさか。これから色々と調査するにあたって、護身用の道具が必要だと思っただけさ」
 
「護身用…… 刃物、ですか? 縄を切る?」
 
鳥居が物騒な言葉を口にした。
 
「それも悪くはないが、コンビニには、ただの学生が持ち歩いていても咎められず、誰でも簡単に扱える便利な商品が売っているだろう?」

「……理学部棟には何を貰いに?」

「その便利な商品の効果を高める物を」

それから私達はさらに調査を続けて、ある程度この事件の傾向を割り出せるようになっていた。そして夜中になると同時に、しらみつぶしにそんな場所を練り歩いた。
新たに発生するであろうその怪奇現象を、探し当てようとしたのである。
そうして数日が過ぎた、ある日の夜だった。