もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
海を眺めていた。海と砂浜の境界を。
白い泡が控えめに押し寄せ、砂地を撫でて帰っていく。とても原始的な水の揺らぎ。何億年も前から繰り返されてきたのだろうし、今後も繰り返されていくのだろう。眺めたところで意味などない。そんな景色は、一度目にすれば充分なはずだった。なのに目が離せなかった。白波で揺らぐその境界を、じっと眺めてしまう。
視線を右のほうへ移すと、波打ち際で金髪の女性が楽し気にはしゃぎ回っていた。見るからに上機嫌だ。フリルの付いた水着をなびかせて、素足で水面の上を跳ねていた。
 
「予報は、所詮予報だったか……」
 
予報では夜まで雨が続くとされていたのに、夜どころか、朝にはすっかり止んでおり、照り付けるような太陽が昇っていた。
 
「ほらほらっ、花塚君もおいでよ! ちょっと浸かるくらいなら平気でしょ? 折角晴れたのに勿体ないよお」
 
浅瀬から釈迦郡の弾んだ声が聞こえてくる。
確かに絶好の海水浴日和。海を眺めているのは好きだが、浸かりたくはなかった。特有のベタつくような肌触りが苦手というのもあるが、妙な抵抗感がある。生理的嫌悪感と言っても良い。この嫌悪感の出処は、海そのもよりも、もっと別のところから湧き上がっているように感じた。もっと別の、ずっと深い場所から。意識が芽生え始まる以前の、暗闇の中から……。
 
「私は眺めているだけで満足ですから、お気になさらず」
 
素っ気なく答えると、釈迦郡が頬を膨らませた。彼女は浅瀬からこちらへと駆け寄って、私の左手を無理やり握って立ち上がらせる。
 
「気分が乗ってないみたいだから、アレやる?」
 
「アレ?」
 
「『海だー!』って叫ぶやつ」
 
一体何の意味が…… シャウト効果によって中枢神経系を麻痺させると好意的に解釈したとしても、今この状況でそれを行うのは辛い。精神的に。
私は釈迦郡と手を繋いだ状態のまま、ぐるりと周囲を見渡した。
海である事を否定はしない。実際、海だ。無事に海開きを迎えた海況は大変穏やかである。陽射しは強いものの、真夏のそれと比べれば耐えられないほどではないし、空と海が織り成す彩度の低い景色は幾分かの涼感を与えてくれている。となれば、当然人間も多い。私達と同性代くらいの若者が目立つが、家族総出で海水浴を満喫している姿もあった。
砂浜には色とりどりのパラソルが茸の群生地かの如く突き立てられており、日陰の中では女性達が全力で日焼けに抗おうとしていた。浅瀬では親に手を引かれながら泳ぐ子供の声が、或いは仲睦まじく水を浴びせ掛け合っている男女の声がある。
兎にも角にも、皆が一様に楽しく遊んでいた。背後のほうでは海の家があり、そのさらに後ろ…… 浜よりも高い位置にある護岸には浮き輪・パラソルの貸し出しを行っている店が並んでいる。
どれ一つ取っても立派な海水浴場だ。叫ぶか否かは棚上げにするとして、釈迦郡の発言に異論を挟む余地はない。
 
「海ですね」
 
「そういう事じゃなくてさ!」
 
釈迦郡は握っている手を大きく揺さぶった。駄々を捏ねる子供のように。
解っている。海に訪れて、「海ですね」などと判り切った事を言っている私のほうがおかしいのだ。
 
「ちょっとだけ! ちょっとだけで良いから、海で遊ぼうよ!」
 
「……少しだけですよ」
 
渋々答えると、釈迦郡は我が意を得たりとばかりにぐいぐいと手を引っ張っていき、遂には波打ち際まで足を運んだ。すると背の低い波が勢い良く迫ってきて、一気に脛の中程まで塩水で浸された。
幸いにもサンダルだったので足元は問題ない。しかし、泳ぐつもりも、浸かるつもりもなかった為に、普段通りのスラックスを履いている。それを膝下の辺りまで捲っていたのだが、早くも水飛沫で濡れてしまった。ただでさえ少ない私の気力は底を突いた。
 
「……さあ、帰りましょうか」
 
「なんでよっ!」
 
抗議の意を示すように、釈迦郡は海水を掬い上げて私の膝元に浴びせ掛けた。おかげでスラックスは先程以上に水浸しとなった。水着の類など用意していないというのに……。
恨みを込めた視線を向けると、彼女はひひひ、と悪人のように笑っている。
 
「あー、濡れちゃったねえ。もうそれじゃあ遊ぶしかないよねえ?」
 
うぜえ。
仕返しをしたくなる衝動に駆られたが、それでは周囲の恋人達と変わらない。それに釈迦郡の掌の上で踊るのは癪だった。発破を掛けて、報復合戦に持ち込みたいのだ。それこそが彼女の狙い。自制心を強く持たねば。自制心を……。
 
「ひゃっ」
 
釈迦郡が悲鳴をあげる。ほぼ無意識に、私の右足が海水を蹴り上げていた。それからは彼女の思惑通りの展開だった。気づけば、濡れる事も厭わずに二人で海を駆け回っていた。
 
―――
 
スラックスのポケットに仕舞い込んでいた小銭を鳴らしつつ、休憩所の自動販売機と向かい合う。筐体の隣には、いま人気だというアイドルのキャンペーン用の幟旗。見た事もない炭酸飲料を片手に仕事用の笑顔を作っていた。
『ごめんね。』
それが、その炭酸飲料の名称だった。飲むと気分が沈みそうな名前である。来年には自動販売機のラインナップから姿を消しているだろう。わずかに興味を惹かれたが、結局はサイダーを二本購入した。それらを両手に持って休憩所の中にあるベンチへ向かった時、休憩所から何やら話し声が聞こえた。足音を忍ばせて覗き込むと、既にベンチで休憩している釈迦郡の前に二人の男が立っていた。一人はアロハシャツにサングラスを掛けており、もう一人は身体中にシルバーアクセサリーを光らせている。どちらも二十歳くらいか。
 
「すっげぇ可愛いね、キミ!」
 
アロハシャツを着込んだ男のほうが大袈裟に声を掛けた。すると横のシルバーアクセサリーのほうの男も、嘗め回すような視線を釈迦郡に向けた。
 
「スタイルも良いなあ」
 
「キミ、一人…… なわけないよね。こんなに可愛いし。カレシとデート中かな?」
 
二人は無遠慮に距離を詰めていく。
私はそれを壁一枚隔てたところで、他人事のように見ていた。胸の高鳴りを感じながら。
これはあれか? 噂に聞く“ナンパ”という行為。実在していたのか。田舎に籠っている頃は見聞きする事しかなかったが、まさか本物のナンパに出会える日が来るとは…… 一体どのような交渉術を駆使するのだろう。楽しみで仕方がない。釈迦郡には悪いが、後学の為にも今は二人の男を泳がせておこう。
 
「そうです。彼氏と一緒。だから、どっか行ってくれる?」
 
釈迦郡は慣れた様子で男達をあしらう。この手の誘いには経験があるのだろう。しかし、その程度の言葉で引くような男達ではなかった。
 
「冷てぇなー…… カレシなんてほっといて、俺らと遊ぼうよ。一回だけでも、な? きっとキミも気に入ってくれるって」
 
「そうそう。女の子を楽しませる術は心得てるから、安心して。カレシと居るより楽しい時間になるから」
 
私は、思わず舌打ちをした。掌にあるサイダーの缶が微かに凹む。
多くの選択肢を迫らない決定回避の法則を利用した交渉術が男達の手法なのやもしれないが、それなら両面提示が必須だろうが。人間はどうしても粗探しをしてしまう心理がある。メリットだけを提示すると、相手の意識はデメリットを考えてしまう。メリットとデメリットの両面を提示する事で誠実さをアピールして、決定回避の法則に説得力を持たせる…… いや、第一声からして駄目だった。印象に残るような言葉で初頭効果を狙って、興味を持たせる。決定回避の法則はその次だ。
内心で毒づいている間にも、男達のアピールは続いた。アロハシャツのほうがサングラスを外して、爽やかな笑顔を作ってみせる。
 
「ほら、俺って結構見てくれには自信あんだよね。キミのカレシと比べて、どうかなぁ」
 
反応が薄いと感じて別の交渉術に切り替えた判断の早さは悪くないが、外見を使ったハロー効果は本人が強調すると、途端に効力が落ちる。
釈迦郡は男達の顔を一瞥してから、つまらなそうに鼻で笑った。
 
「ウチの彼氏の足元にも及ばないんで、さっさと消えてくれる?」
 
この言葉には流石の男達も苛立ちを覚えたようだった。我慢の限界は近い。だが、それ以上に私は我慢ならなかった。
休憩所に足を踏み入れて、一喝する。
 
「何と粗末な交渉…… もはや聞いていられない。二人組という利点も活かせていない。君達はナンパをしたいのではないのか? あわよくば彼女を手籠めにして、以降も良好な関係を築きたいのではないのか?!」
 
至る所に私の声が反響する。男達は呆然とこちらを見るばかりで、何も言い返す事もない。
 
「君達の言葉には血液が通っていない。体温が感じられない。覚悟が足りていない。真に迫るような演技力もなければ、心に訴えかける表現力もない…… しっかり勉強してから出直す事を勧めよう。君達は、期待外れだった」
 
言うだけ言って、釈迦郡が座っているベンチに二本のサイダーを置く。
アロハシャツの男は依然として呆気に取られたままだったが、シルバーアクセサリーの男は眉間に皺を寄せて、静かに言葉を吐いた。
 
「おい、にいちゃん。表出ろ」
 
私が応じる間も与えずに、男はこちらのワイシャツを掴んで外に引き摺り出そうとした。
 
「は、花塚君!」
 
釈迦郡は慌ててベンチから立ち上がるが、それに手を振って砂浜に出ると、シルバーアクセサリーの男は早々に臨戦態勢に入った。
 
「舐め腐りやがって!」
 
いつの間にか陽は傾き始め、仄かに赤く染まりつつある砂浜に怒号が響いた。硬く握られた右拳が半円を描きながら繰り出される。フックともアッパーとも言えない妙な軌道。下突きと呼ぶには脇も開きすぎている。交渉術にしても、喧嘩にしても、明らかに素人だった。現役警察官の映のほうが、よほど手強いだろう。
私は半身に構えて、向かってくる拳に左腕を打ちつけた。衝撃で幾つかの自傷痕がひび割れたが、相手のバランスを崩すには充分だった。その傾いた頭部へ目掛けて、すかさず右肘を放った。衝撃はない。肘は眉間の寸前で止めている。相手も突きつけられた肘を前に凍りついていた。当てればそれで終わり。しかし、こちらとて痛い思いはしたくない。
私は左右の足を交互に引いて間合いを取った。後屈立ちになって左手を前方にかざす。護岸の上では貸出を行っている初老の男が私達の諍いを見下ろしていた。できれば見ていないで何とかしてほしいのだが、それは望めないだろう。誰だって面倒事には巻き込まれたくない。
当の相手は腕を垂らして棒立ちになっていた。退くべきか、続けるべきか…… その不勉強な頭で考えられるのはそれくらいのものだろう。結局、相手が出した答えは賢明と言えるものだった。
 
「……クソが、死ねッ!」
 
シルバーアクセサリーの男は感情に任せて吼えた。そして身を翻すと、肩を怒らせて堤防の階段を上がっていく。傍に控えているアロハシャツの男も慌てて後を追った。私は小さくなっていく二人の影を見送った後、深く息を吐いた。
疲れた。日頃の貧血が祟ったのだ。こんな事になるのなら、水主のところで赤血球ドーピングでもするべきだった。
覚束ない足取りで休憩所に戻って、ベンチに腰を下ろすと、恐る恐るこちらを覗いていた釈迦郡にサイダーを渡す。
 
「あ、ありがと…… じゃなくて! 大丈夫なの?」
 
「ジュース代ですか? 大丈夫です。百二十円でした。海水浴場価格で値が張るかと思っていましたが」
 
「そっちの意味じゃなくて!」
 
「……まだ温くなっていないかと」
 
蓋のタブに指を掛けて、缶を煽る。冷たい。その勢いのままにベンチの背もたれに身体を預けたかったが、止めた。スラックスは勿論、ワイシャツまで見事に海水に塗れてしまっている。少しでも早く乾くように風通しを良くしておかないといけない。乾かなければ、帰りのバスに乗る事もできないのだから。
釈迦郡は呆れたような声を発した。
 
「そっちの意味でもないんだけど…… まあ、花塚君が無事なら、それで。あと服なら気にしなくて良いよ。ちゃんと乾くまでの時間潰しは考えてあるから」
 
時間潰し? と訊ねる間もなく釈迦郡が、「服って言えばさ」と畳み掛ける。
 
「どう?」
 
と問い掛けてきた。サイダーの入った缶をベンチの横に置いて、両腕を軽く広げて見せてくる。
 
「何がです」
 
「感想。まだ聞かせてもらってないんだけど?」
 
言わんとしている事は解る。水着姿の感想を求めているのだろう。
 
「……言わないと駄目ですか」
 
「当然でしょ。カップルなら尚更」
 
そもそも、カップルではないのだが。
野暮な事は言わず、私は隣に座る釈迦郡の姿を眺めた。ハイネックデザインだと言う水着には派手にならない程度のフリルが付いており、上下共に黒色で纏めている。緩やかに曲線を描く肩にしっとりと金色の髪が張り付いていた。金色と黒色のコントラストが、彼女を大人びた印象にさせている。ナンパされるのも致し方ないと言えるだろう。
 
「……似合っていますよ、とても」
 
つい先日も同じ言葉を、同じ相手に伝えたような気がする。あれだけ男達に交渉術云々と説教しておいて、気の利いた言葉一つ出てこない。
だが、やはり釈迦郡は屈託のない笑顔で、私の甲斐性のない褒め言葉を受け止めた。女心というものは、本当に、まったくもって解らない。
 
「ありがとっ」
 
そして釈迦郡は私の左腕にその金色の頭を預けた。肌は雫で艶めいている。首筋に、腹部に、腿の内側…… 水の粒が、さらりとその表面を撫でていった。