もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。
比売宮は背の高い鉄柵に身体を預けて、悠然と空を背負いながら、両手を動かした。一定の手順に従って折り畳まれていくそれは、やがて形を成していった。紙飛行機だった。素材は朝のホームルームで配布されたレジュメ。内容は交通事故の注意喚起だったはずだが、いつも通り、その場で捨ててきた。私には不要だったからだ。それは比売宮にしても同様なのだろう。彼女が作り上げた紙飛行機は、台の上で正確に折られたそれと比べると不格好で、墜落を予感させるには充分な出来栄えだった。
 
「曽根君は残念だったね」
 
昼休みの屋上で、比売宮は呟いた。さして残念そうでもなく。
屋上に訪れるのは初めてだった。無論、原則として生徒の立入は禁止されているから来なかったというわけではない。何とか入れないかと試みた事は何度かある。だが、いつ来ても施錠されている為に断念した。
 
「どういう意味で?」
 
訊ねておいて、後悔した。解りきった事を訊く愚行。今からでも取り消してしまいたい衝動に駆られる。
 
「ここまで役に立たないなんて、本当に残念な人だった」
 
こういう返答になるのは火を見るよりも明らかだったのに。一往復、無駄な会話に興じてしまった。
 
「……何故、比売宮が屋上の鍵を?」
 
「ある人に渡されたんだよ。持っておくと色々便利だからって。何が便利なのか解らなかったけど、今ならちょっと解るよ。こうして花塚君と蜜月の時間を過ごせるしね」
 
手元の紙飛行機から目線を上げて、気の抜けた笑顔を浮かべる。
 
「渡してきたのはケセドとか、ティファレトと呼ばれている人物かい」
 
「違うけど、違くない」
 
「回りくどいな……」
 
比売宮は楽し気に口元を手で覆った。
 
「花塚君、執行部の仕事とかで最近は全然構ってくれないしさ。教室に居ても前の席の能仲君と話してばっかり。だから、もっとどうでも良い話をしようよ。もっとボクの為に時間を使ってよ。あ、髪型変えたよね? 凄く似合ってるよ」
 
「奴らの正体は?」
 
「せっかちな男は嫌われるんだよ?」
 
「おかげさまで、とっくに嫌われているさ」
 
昨日の能仲からの忠告通り、比売宮などの一部を除けば今の学校で私に近づく者は一切居ない。無視でもされるものと思っていたが、無視する事すら怖がっているようだった。話し掛ければ返ってくる。上擦った声と、引き攣った笑みが。生徒どころか、教師でさえそんな有り様なのである。絵に描いたような腫物扱い。だからと言うべきか、私が想像していたより曽根の事故死という非日常的なニュースは騒々しさを齎さなかった。噂話の種になっていないとまでは言わないが、私の耳に届かないよう、誰もが声を潜めていた。
 
「皆、本当にスキャンダルってのが好きだよね。特に人の生き死に関わる事は」
 
コロッセオを例に挙げるまでもなく、今も昔も人間は血生臭いのが大好物だろう」
 
「だけど、それで殺人鬼みたいに噂されたら流石の花塚君でも腹が立つでしょ?」
 
「腹を立てているからこそ、こそこそと暗躍している奴らが誰なのかを訊ねたのだが」
 
そう言うと、比売宮は意外そうに目を瞬かせた。
 
「ボクが犯人だって思わないの?」
 
「思わない」
 
何も言わず、わずかに首を傾げて話の続きを促してくる。
わざわざ説明するのは、比売宮の言う“どうでも良い話”に乗っかるようで癪だが、仕方がない。こちらとて、素直に回答を寄越してくれるとは考えていない。多少の回り道なら付き合ってやるしかない。
 
「比売宮には曽根を殺める理由がない。そもそも、私の考えでは曽根の死は偶発的なもの。万一の場合を見越して噂話という予防線を張っていたようだが、奴らにとっても想定外の事態だったのではないかな」
 
「理由…… ボクの目的は知ってるよね? ボクには“人を殺したい”っていう明確な目的があるんだよ? だったら犯人として一番怪しいのはボクじゃない?」
 
「曽根は実験体として利用していただけで、疎ましく思っているものの、死んでもらっても困ると言っていたはず。それに、やる時は盛大にやりたいとも言っていた。ならば、あれしきの事故で終わらせるような馬鹿な真似はしないだろう」
 
「馬鹿な真似、したのかもしれないよ?」
 
「変われたか?」
 
すぐさま質問を返すと、比売宮は分かり易く口を閉ざした。
さらに言葉を重ねる。
 
「『人を殺したい。ボクの為に。人を殺せば、ボクは変われると思うから』…… それが比売宮の動機だった。仮に比売宮が曽根を殺めたとしよう。それで比売宮は変われたのかい? いいや、何も変わっていないね。クズはクズのまま。比売宮葛は依然として比売宮葛のまま、私の前に居る。目的を達成できた充足感もなければ、些かの歓びも感じられない。だから殺めていない。救い難いクズではあるが、犯人ではない」
 
「……なんだか酷い言われようだけど、ボクって信用されてるんだね」
 
比売宮は空を仰いだ。見渡す限りの曇天…… 陽射しはことごとく遮られており、昼間である事を忘れさせるような薄暗さが地上を包んでいる。昨日見た天気予報の通り、雨が降るのも時間の問題だろう。
 
「信用には答えないといけないよね、共犯者なんだから…… でも、期待しないでよ? ボクから言える事はちょっとだけ。花塚君は勘違いしてる。その勘違いがノイズになってるから、答えに辿り着けなくなってる」
 
比売宮はその場で踵を返して、私に背を向けた。そして落下防止用の鉄柵に指を這わせる。
 
「曽根君はどこまで喋ったの?」
 
「ケセド、ティファレト、黄金の暁…… 目ぼしいのはそれくらいかね」
 
「そこ」
 
背中を向けたままの比売宮が静かに指摘する。
 
「そこだよ。花塚君のノイズになってるのは、『旧約聖書』のセフィロト。確かに曽根君が伝えたのはセフィロトの中の名称だけど、『旧約聖書』のセフィロトじゃないんだよ。重要なのは『黄金の暁』のセフィロト」
 
「やけに禅問答じみて……」
 
そう言い掛けた時、カチャリと、何かが上手く嵌ったような感覚があった。複雑な鍵穴を前にして、何十本もある鍵束の中から正答を引き当てたような、得も言われぬ感覚。開錠はできた。あとはドアノブを握って開け放つだけ…… なのに、そこに広がる景色を目にするのが億劫だった。違和感でしかなかったそれが疑念となり、今は確信している。遅すぎたくらいだ。昨日の時点で、判明していてもおかしくなかったのに。
人知れず悔やんでいる私を尻目に、比売宮は手にしている紙飛行機を投げた。それは不格好な姿に似合わず、鉄柵を越えて、敷地の遥か先まで飛んでいってしまった。
 
「……大丈夫? 本当に人殺しみたいな顔してるけど」
 
いつの間にか振り返っていた比売宮が、こちらの顔を覗き込んでくる。
 
「問題ない。情報提供に感謝するよ」
 
「感謝なら、ボクもしてるよ。その恩返しをしただけ」
 
比売宮は無邪気そうに顔を綻ばせた。
一体何の事だろう。感謝されるような事をした覚えはないが、
 
「花塚君は、ちゃんと全うしてくれた。ボクの協力者として。その知恵を使って、相応しい場を設けてくれた」
 
「相応しい場?」
 
「拓かれた文化祭、だっけ? あれは良いよね。この学校の生徒だけじゃなくて、父兄も、一般の人も来るんでしょ?」
 
「……まさか」
 
「飲食もできるんだよね? つまり、ボクが大事に大事に育てた虎の子を放つには、これ以上ないくらい相応しい場になる…… 文化祭が待ち遠しいよ。まさにパーッと盛大に殺せちゃうね」
 
比売宮の目に陰険な光が宿っていた。
 
「明け透けに犯罪予告をしてくれるとは、本当に清々しいまでのクズだな」
 
「でも、止めたりしないよね?」
 
私は、答えなかった。返答に窮したとか、絶句したわけではない。十日後の七月二十日に起きるやもしれない凄惨な事態を想像して、想像して、それでも何もなかった。止める理由がなかった。比売宮の言う虎の子とやらが例のボツリヌス毒素であれば、四年前の地下鉄サリン事件に匹敵する…… 若しくは、それを凌駕する毒殺事件と成り得る。生徒のみならず、無数の被害者が出るだろう。私の数少ない知人・友人もその毒牙に掛かる可能性がある。しかし、何も出てこない。何も動かない。情緒が、理性が、抜け落ちていると感じた。曽根の死にしても、そうだ。目良にも指摘されたが、狼狽とはいかないまでも、何らかの衝撃をもって受け止めるべき出来事だったはずなのに、私は当然のように話を呑み込んだ。
沈黙を同意と解釈したのか、比売宮は弾むような足取りで私の手を引いた。
 
「花塚君も学食でしょ? 早く行かないと閉まっちゃうよ。それに雨も降りそう」
 
「雨……」
 
再び頭上に視線を向けると、先程よりも明らかに黒ずんだ雲が至る所にあった。不吉な空だった。
 
「そういえば、自分の事で一つ気づいた事があるんだ」
 
「気づいた事?」
 
「花塚君にクズって貶されるのが結構嬉しい。心の距離が縮まったみたいで」
 
「……それは、褒められた傾向ではないな」
 
誰も彼も狂っている。
この狂った世界の中で、唯一、私だけが正気なのではないか? 或いはその逆で、私だけが狂ってしまっているのやもしれない。
立入禁止の屋上はやがて雨に濡れて、裏で糸を引いている人物の正体も、不穏な犯罪予告も、すべて綺麗に流していった。