もうすっかり秋めいてきたと思い込みたいので、高校生時分の閑話でもしよう。
繁華街の景色は黄金色に輝いていた。通行人も、街路樹も、眩い西日の中に浸されていた。隣に並ぶ釈迦郡の姿は、そんな街並みにあっても埋没する事なく、それどころか繁華街の何よりも目立っている。幾度となく好奇の眼差しが向けられるくらいには。
 
「どこに行こっか? 遊びたいものとかある?」
 
釈迦郡は周囲の視線など存在しないかのように、どこまでも自然体だった。
 
「特には…… どこでも構いませんよ」
 
「じゃあ、海でも見に行く? 今から」
 
「今からは流石に」
 
私達の住む街から西にニ十キロほど進めば運河に突き当たり、日本海に面した向浜という場所に出るが、工業地帯なので一般人の立入は禁止されている。海を拝むには、そこからさらに十キロ程度南下しなければならない。すると県の観光名所の一つとしても数えられている水辺広場や海浜公園、海水浴場がある。そこへ向かうバスも出ているので行こうと思えば行けるが、片道するだけで三十分以上…… 慌ただしい小旅行になる。
 
「夜の海も風情があって良いよ?」
 
「それには同意しますが、海開きは三日後の日曜でしたよね? 海開きも迎えていない夜の海に行けば補導される確率が高いかと」
 
釈迦郡は不服そうな顔をして唸る。
夜の海に風情はあっても、補導には風情の欠片もない。ある種の侘び寂びは感じられるやもしれないが。しかも私の場合は、補導する側が身内という可能性も大いにある。
 
「よし。次の日曜は海に行こう、二人で。君の傷もあるから泳げはしないけど、海の家とかあるしさ」
 
名案だと言わんばかりに釈迦郡は顔を綻ばせた。
 
「日曜は水主先生のところでアルバイトがあるのでは?」
 
「適当な理由つけて休んじゃえば良いんだって。花塚君の監督を任せられたんだし、電話越しに、『実は花塚君が倒れちゃって、その看病をしないと』なんて言って」
 
「それだと逆に、『病院に連れてこい』と言われそうですが」
 
「そうだ、そうだった…… でも大丈夫。こっちで理由は考えておくからさ、日曜は空けておいてよ」
 
水主ならば、素直に用件を伝えれば渋々ながらも承諾してくれそうな気がする。だがまあ、言い訳は大事だ。雇い主である水主としても、「遊びに行くので休みます」と馬鹿正直に告げられるより心情的にはマシだろう。
不意に左袖を引っ張られた。目を動かすと、釈迦郡が繁華街の一角を指差している。
 
「海は日曜まで我慢するとして、手始めにアレ。あそこに行こう」
 
それは、西日の眩さに抗うような派手な看板を掲げていた。自動ドアが開閉する度に店内の喧騒が漏れ出て、私の耳を劈いた。店内はこの比ではない騒音に満たされいると思うと、どうしても足が竦む。
 
「ゲームセンターですか……」
 
品行方正を気取るわけではないものの、私の人生には無縁…… 不必要な場所だった。ガラの悪い輩の溜まり場というイメージが拭えないというのもあるし、ゲームの類に興味が持てない。あと単純にうるさい。この喧騒がむしろ心地良いと思う者も少なくないそうだが、私には理解のできない世界と言える。
 
「来た事ある?」
 
「いえ、一度も」
 
そう答えると、釈迦郡は目を細めて妖しく微笑んだ。こういう表情もするのか、と変なところで感心した。
 
「ゲーセンも知らないピュアな子供に悪事を教えるのって、なんかこう、凄く興奮するね」
 
「確かにゲームセンターの事は知りませんが、ピュアかと言うとそうでもないような」
 
「いいからいいから。お姉さんについてきて」
 
と袖を強く引っ張って、半ば強引にゲームセンターに引きずり込もうとする。私は喧騒に呑み込まれるような感覚に若干の嫌悪感を抱きながら、鬱々とした足取りで歩を進める。そしていよいよ自動ドアをくぐろうとした時、振り返った。何者かの視線を感じたからだ。
いや、視線ならば繁華街に足を踏み入れた時からあった。人目を惹くような出で立ちの釈迦郡が隣に居たので仕方がないと切り捨てていたが、今しがた感じた視線は、そういう好奇を孕んだものとは異なっていた。ゲームセンターに出入りしている輩からの刺々しいものとも違う。
 
「どうかした?」
 
「……何でもありません」
 
考えても解らない事は考えないに限る。そう結論付けて、私達は暴力的な音の波に呑まれていった。
ゲームセンターの中は、私の目にはとても薄暗く感じた。照明の光度は決して低くない。西日を浴び続けたせいだろうか。案の定、沢山の学生がそこかしこに溢れ返っている。格闘ゲームがメインのようで、メダルゲームやクレーンゲームといったものは端に追いやられている。
男ばかりという先入観を持っていたが、意外にも女性…… と言うか、女子が多い。そこまで広くない空間に男女が入り混じっていて、仲間内で奇声じみた大声をあげている。経験のない、異様な空間。異様な人間。それは向こうにとっても同様らしく、幾つかのグループが怪訝な表情でこちらを見ていた。それらに目線を合わせに行くと、うちの高校の生徒のように目を逸らしたりせず、より一層激しく睨みを利かせてくる。妙な感動を覚えた。彼らは、私をしっかり認識してくれているのだ。
店内を一通り見て回り、玩具箱をひっくり返したような奇天烈な音楽も気にならなくなってきた頃、釈迦郡は人だかりのできている格闘ゲームの筐体の前に座った。
 
「花塚君、ゲームは?」
 
声を張り上げるのが面倒だったので、かぶりを振って応える。
 
「じゃあ、見てて。難しくないから」
 
釈迦郡はそう言うと筐体に百円玉を押し込み、筐体に備わっているスティックとボタンに手を添えた。反対側の筐体と繋がっていて、対戦もできるようだが、そこには誰も座っていない。それでも自動操作によって筐体そのものが敵役を担ってくれるらしい。彼女は滑らかな手捌きでそれらを一人ずつ倒していく。難しくないと言っていたが、傍目からでは極めて難しい操作を行っているようにしか見えない。
そうして四人の敵を倒した時だった。反対側の筐体に誰かが座り、間を置かずして対人戦の告知がゲーム画面に映し出された。
 
「おっ」
 
釈迦郡の口角が吊り上がった。
 
「CPU相手に粋がってたから、ウチが鴨に見えたのかな。ナメられたもんだねえ」
 
まったく話についていけないが、そういう事らしい。釈迦郡は対人戦に応じた。彼女の位置からでは反対側は見えないが、横に立って眺めていた私からは、反対側の筐体に座った人物が見える。
女性だ。短めに切り揃えた髪を外側に跳ねさせて、その隙間から覗く耳は大小様々なピアスで埋め尽くされていた。見ているだけで痛くなってくる。それは耳だけに留まらず、唇、眉といった場所にも見受けられた。自傷行為に傾倒している私が言えた義理ではないが、もう少し身体を労わってあげてほしい。特にこれからの季節は化膿し易い。
 
「あれ、もう終わり?」
 
画面に視線を戻すと、結果は釈迦郡のストレート勝ちだった。
それだけ釈迦郡の腕前が凄かったのだろうかと、その横顔を窺う。しかし彼女は腑に落ちないとでも言いたげな表情で、こちらを見上げていた。しばし無言で顔を見合わせていると、突如として背中を軽く叩かれた。
二人して振り向くと、先程のピアスの女性が立っていた。彼女は私と釈迦郡の間にその顔を突き出して、口を開く。
 
「君らに話がある。場所、変えようか。うるせえから」
 
ピアスの女性は言うだけ言って、ゲームセンターの出入口のほうへ歩いていってしまった。私達は再び顔を見合わせる。
絡まれた、というやつだろうか。では今から、ひと気のないところに連れていかれて、目も当てられない凄惨な暴力を? それとも何らかの法に抵触するような売買を? いやいや、そんな…… 無性にワクワクさせてくれるではないか。
 
「……どうしよう?」
 
釈迦郡が訊ねてくる。不安がっている様子はないが、困惑はしているようだ。
 
「行きましょう。面白そうですし」
 
「なんで目を輝かせてるのさ…… 別に良いけどね」
 
そうして私達は、主に私だが、欲求に突き動かされるように出入口に向かった。
 
「デート中に悪いね。君らの事はずーっと見てたんだが、声を掛けるタイミングが分かんなくて」
 
夕焼け空は、すっかり紫色に塗り替えられていた。夏の夜特有のふくよかな風が全身を包む。繁華街は先程よりも賑々しい雰囲気だった。ゲームセンターの中のそれとは性質の違う、血液の通った賑やかさ。
ピアスの女性は、ゲームセンターの真向かいにある電信柱の側で煙草を燻らせながら、やんわりと謝罪の言葉を述べた。
私は早くも落胆した。どうやら期待していたような暴力も、売買も、何もないらしい。念の為に周囲を探ったが、仲間が隠れているという展開もなさそうだ。ぐっと足に力を込める。でなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
ひとまず、現時点で判明しているのは一つ。繁華街に足を踏み入れた時から注がれていた妙な視線の正体は、このピアスの女性だったという事である。
 
「オレは…… 違う、わたし…… ああいや、別にいっか。仕事中じゃねえし。オレはこういうの。よろしく」
 
煙草を右手に持ったまま、左手をショートパンツのポケットに差し込んで一枚の名刺を取り出すと、それを釈迦郡に手渡した。覗き込むと、煌びやかな縁取りがされていた。その縁の中に長ったらしい横文字が並んでいる。
『“美容室ダンテ” ヘアメイクアーティスト 家子夏目(かのこ なつめ)』
ダンテ。イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリから取ってきたのだろうか。美容室とダンテに繋がりがあったか……? 思い当たるのは『神曲』に登場するマレブランケのスカルミリオーネ。彼の名前は“汚れた髪”を意味していたと記憶している。それを理解した上で『美容室ダンテ』としているのであれば、相当な度胸だ。
 
「そこ」
 
ピアスの女性――家子は、煙草を持つ手で繁華街の中心部辺りを指し示す。はっきりと確認できないが、美容室らしき趣の店があった。あそこが『美容室ダンテ』という事か。仄かに光が漏れているので、今も営業中なのやもしれない。
 
「ヘアメイクアーティスト、ですか」
 
釈迦郡が何気なく呟いた。
あまり聞き慣れない横文字。要するに、美容師だろう。数年前から“カリスマ美容師”なる言葉が流行り出しているし、そういう肩書きでテレビに出ている人間も多くなった。無論、一体何がどのようにカリスマなのか解らない。ヘアメイクアーティストのほうがまだ解り易くて、好感が持てる。
釈迦郡は名刺から視線を上げて、首を傾げた。
 
「その、ヘアメイクアーティストの家子さんが何の御用で?」
 
「店頭に飾る為のカットモデルになってくんないかなーって」
 
家子はゆるゆると煙を吐きながら、気怠そうに続ける。
 
「専属のカットモデルは他にも何人か居るんだが…… 店頭に飾るってなるとさ、広告塔だから。そこら辺の奴じゃ務まんないわけ。解るだろ?」
 
「はあ…… 何となく解りますけど」
 
釈迦郡が曖昧に返事しつつ、こちらに目を向けた。私は両肩を竦ませる。
つまるところ、このヘアメイクアーティストは釈迦郡にカットモデルとやらを、それも美容室の広告塔として起用したいと言っているわけだ。確かに彼女は目立つ。金髪以前に、顔立ちも整っているし、広告塔に堪え得る素材なのは間違いない。あとは彼女のやる気次第だろう。私はかなり早い段階で興味を失くしており、さっさと帰路に就きたかった。
 
「どうしよう、花塚君」
 
「シュカさんの好きにしたら良いかと」
 
突き放すような言い方になってしまったが、部外者の私が口出しするのもおかしい。
 
「カレシ。なに他人事みてえに言ってんの。オレは君にも依頼してんだが」
 
「……は?」
 
「オレ、最初っから“君ら”って言ってただろーが。カノジョだけじゃなく、カレシにも頼んでんの」
 
狂気の沙汰と言う他ない。こんなのを店に飾れば、たちまち客足は遠退く。それに美容室など客として利用した事すらない。床屋で充分だ。剃刀で顔剃りしてもらうのが御似合いの男である。
 
「どうしよう、花塚君」
 
釈迦郡が、一言一句同じ台詞を繰り返した。私は申し訳程度に頭を下げる。
 
「……ご縁がなかったという事で」
 
すると、釈迦郡も頭を下げた。
 
「じゃあ、ウチもご縁がなかったという事で」
 
「いやいやいや…… 待って。待ってよ。ちょっと非情過ぎない? 店の今後にも関わるってのにさ。こっちは何日も駅とか繁華街をウロウロして、やーっと君らを見つけたんだが。それとも他に声が掛かってるとか? もしかして、どっかのプロダクションに所属してたりする?」
 
「いえ、そんな事は……」
 
「なら頼むよ。な? あ、ほら。カレシのほう結構髪伸びてない? 最後に切ったのいつ?」
 
家子は両手を擦り合わせて懇願したかと思いきや、即座に話題を切り替える。
最後に髪を切ったのは、高校入学前。だから四ヶ月近く放っておいた事になる。伸びていると言えば、伸びている。本格的に暑くなる前に短くしておこうとは思っていたが、やはり美容室の世話になる気にはなれない。
 
「ウチは兎も角、花塚君は切ってもらったら? どんな風になるか見てみたいし」
 
「ほらほら、カノジョもこう言ってる。カノジョの期待に応えるのがカレシの務めだろー」
 
無責任な事を言ってくる釈迦郡に同調して、家子も囃し立てるように手を叩いた。何だろう。言い様のない苛立ちを覚える。
そもそも、弁解するのも面倒なので先程から当然のように受け入れているが、私達はそういう関係ではない。だから期待に応える必要もない。
 
「はい、二名様ご案内ってーことで」
 
と言って家子は、馴れ馴れしく私の左袖を掴んだ。さらに右腕の袖を釈迦郡が掴む。
 
「後学の為に、何事も経験だと思うよ?」
 
「シュカさんが楽しみたいだけでは?」
 
「そんな事ないって。ウチもカットモデルっていうのに一割くらい興味あるし、花塚君が髪型一つでどれだけ変わるのかっていう興味は、ほんのちょっとだけ。ほんの九割しかない」
 
ほとんど全部ではないか。
 
「……好きにしてください」
 
私は二人に引き摺られるようにして、『美容室ダンテ』とやらに向かった。
さして髪型に拘りなどない。気に入らなければ、野球部のような丸刈りにしてしまえば良い。どうせ勝手に伸びてくるものなのだ。駄々を捏ねて時間を浪費するのが最も無駄…… それに“何事も経験”だという釈迦郡の発言には一理あると思った。私は、知らない事が多過ぎる。何が知らないかも知らないくらいに。